第031話:トロイの木馬の開城
八月二十四日、午後。
福岡市・天神の中心にそびえる商業ビル内の『イムズホール』は、若者の熱気と大人の思惑が交差する独特の匂いに包まれていた。
TMF九州・沖縄エリア大会。九州全土から集められた数十組のバンドが、それぞれの「正解」を競い合う巨大な品評会だ。
楽屋に置かれた公式パンフレットの扱いは、この世界における格付けを正確に示していた。
見開きのカラーページには、『山口が生んだ若き至宝』という見出しと共に相良たち『スカイ・ハイ』の姿がデカデカと躍っている。
一方、俺たち『beat less』の名前は、最後のページの端に「審査員特別推薦枠」として、小さな活字で記されているだけだった。
「……ケッ、なんだよこの扱いの差は。俺たち、完全にオマケじゃねえか」
薫がパンフレットを乱暴にテーブルへ投げ捨てた。
勝もギターの弦を拭きながら、隠しきれない緊張と苛立ちに唇を噛んでいる。無理もない。ここには、彼らが山口の狭いライブハウスで見てきたのとは次元の違う、洗練された機材と「本物」の空気がある。
「オマケで結構ですよ」
俺は持参したエフェクターの配線をチェックしながら、淡々と返した。
「期待されていないということは、それだけ相手が無防備だということです。……彼らの耳に俺たちの音を叩き込むには、最高の条件じゃないですか」
客席の様子をモニター越しに観察する。
最前列に陣取るのは、腕組みをしてスコアシートを睨むスーツ姿の審査員たち。
そしてその後ろには、九州中から集まった音楽好きの十代がひしめき合っている。彼らは皆、この世界の「美しくてお行儀の良い音楽」しか知らない若者たちだ。
やがて、本命である相良たちの『スカイ・ハイ』がステージに上がった。
モニターから流れてくる彼らの演奏は、山口の地区大会で聴いた時よりもさらに研ぎ澄まされていた。
一ミリの狂いもないピッキング、完璧に調和した三声コーラス。審査員たちが深く頷き、観客は感嘆の溜息を漏らす。彼らは間違いなく、この世界における「音楽の優等生」だった。
演奏後、割れんばかりの歓声の中、相良はステージ袖で待機する俺たちを一瞥し、優越感に浸った笑みを浮かべたまま通り過ぎていった。
「――続いてのバンドは、山口県からの特別推薦枠。『beat less』の皆さんです」
司会者のアナウンスに、会場の拍手はまばらだった。誰も無名の中学生など期待していない。
「行きましょう。事前の打ち合わせ通りに」
俺の合図で、四人はステージへと歩み出た。
俺はエレクトーンの前に座り、静かに息を吸い込んだ。
そして、山口の大人たちを騙し切った『The Long and Winding Road』の、あの深く澄んだイントロを奏で始める。
薫の囁くような裏声と、智ちゃんの重厚なベースラインがそれに続く。
会場の空気が、一瞬で「油断」に染まるのが手にとるように分かった。
審査員たちの顔に、「なるほど、推薦枠に選ばれるだけあって、中学生にしては端正で美しいアンサンブルだ」という安堵の色が浮かぶ。
観客の若者たちも、心地よいバラードに身を委ねて緊張を解いていた。
会場全体が完全に脱力し、俺たちの音を無防備に受け入れたのが、ステージの空気を通して肌感覚で伝わってくる。
(……今だ)
開始から一分。
俺は鍵盤から手を離し、足元に仕込んでいた自作のエフェクターを強く踏み込んだ。
静かなバラードの残響を物理的に断ち切るように、博士の乱暴な、しかし寸分の迷いもないハイハットのカウントが響く。
ワン、ツー、スリー、フォー!
「……ッ!?」
勝のギターが、それまでのクリーントーンを捨て去り、アンプの回路が焼き切れるような『Helter Skelter』の凶暴なディストーションを吐き出した。
ただ力任せに鳴らす騒音ではない。勝の右手が、残像が見えるほどの速度でダウンストロークを刻む。的確なブリッジミュートによって極限まで圧縮されたリフが、重い金属の駆動音となってホールを揺るがす。
それに呼応する博士のドラム。メトロノームのような均等なリズムを捨て去り、二拍目と四拍目にすべての体重を乗せた強烈なリムショット(バックビート)をスネアに叩き込む。洗練されたホールの空気が、その暴力的な四拍子の裏打ちによって物理的に殴りつけられる。
底辺を支えるのは智ちゃんのベースだ。ピアノで培った正確な運指が、太い弦の上を迷いなく這い回る。ルート音だけをなぞる退屈な演奏ではない。ギターとドラムの隙間を縫うようにうねる分厚い重低音が、数千人の観客の足元から内臓を直接震わせている。
静寂に包まれていたイムズホールが、強烈なノイズと桁違いのグルーヴによって根底から揺さぶられる。審査員たちのペンが止まり、客席の若者たちが弾かれたように顔を上げた。
相良の「完璧な機械」のようなアンサンブルとは対極にある、血の通った不協和音の束。だが、それは決して素人の出鱈目な演奏ではない。俺が彼らの骨格に徹底的に叩き込んだ、世界を狂わせるための緻密な設計図の完成形だ。
そして、真っ赤な照明の下で、薫がマイクスタンドを両手で掴んだ。
ただの怒鳴り声ではない。リズムの裏を的確に捉える完璧なタイム感と、彼自身の持ち合わせたカリスマ性。そこに、この退屈な世界への怒りを込めた絶叫を乗せる。
「センコー!! いい加減にしろォォッ!!」
四拍子の裏打ち(バックビート)が、洗練されたホールの空気を激しく打ち据える。
トロイの木馬は開かれた。
俺たちが仕込んだ劇薬が、無防備な数千人の鼓膜を、一気に圧倒した瞬間だった。




