第003話:エリーゼの消失
食卓を後にし、自室へ戻った俺は、ベッドに腰を下ろして短く息を吐いた。
失われた肉体の代償は大きい。
鍵盤を捉えるための硬いタコも、極限まで広がる指の筋肉も、きれいさっぱり消え失せている。
だが、嘆いている暇はない。
頭の中には、あの男のスコアが完全に焼き付いている。
骨格から血肉に至るまで、どう弾くべきかという「解釈」は残っているのだ。
もう一度、この真新しい身体で指を研鑽し直せばいい。
それだけの話だ。
気を紛らわせようと、押し入れのCDラックを開けた。
まずは『第九』を聴き、あの圧倒的な音の奔流を浴びて、狂いそうな現実の輪郭をどうにか繋ぎ止めるつもりだった。
だが、背表紙をなぞる指がピタリと止まる。
ベートーヴェンのCDが、一枚もない。
シュマーデル、ルクレール、ヴォルコフ……。
並んでいるのは、見たこともない名前の作曲家ばかりだった。
俺は無言で一階へ降り, リビングにいる妹のさやに声をかけた。
「……さや。俺のベートーヴェンのCD、知らないか」
「なんのこと。ベートーベンってなに」
「『運命』の、ベートーヴェンだ」
「だから、なにそれ。オニイこそ何言ってんの」
さやが怪訝そうに見上げてくる。冗談を言っている顔ではない。
微かな違和感が、背筋を這い上がった。
俺はリビングの隅にあるアップライトピアノへ歩み寄り、鍵盤の蓋を開け、横の棚から楽譜を引っ張り出した。
指を鍛え直すための基礎である『ハノン』がない。
チェルニーやブルグミュラーはあるが、そこに「サルトル」などという未知の作曲家の練習曲が紛れ込んでいる。
俺はその『優雅なトリル』という楽譜を開き、確かめるように和音を叩きつけた。
「……っ」
鍵盤を押し下げた瞬間、強烈な違和感に指が強張った。
手応えが、あまりにも軽すぎる。
俺が知っている、ハンマーが弦を叩き潰し、その反動が指の骨に伝わってくるようなあの重厚なアクションがない。
まるで、撫でるだけで音が出るオモチャのようだ。
この世界のピアノは、情念を叩きつけるための楽器として進化していないのか。
鍵盤から手を離すと、背後からパチパチと軽い拍手が聞こえた。
「おにい、すごい! いつの間にこんなにうまくなったの。佐伯先生みたい!」
さやが、目を丸くして感嘆の声を上げている。
完璧に揃った、ただ美しいだけの虚飾の音。これを「うまい」と言うのか。
俺は反論も説教もせず、ただ静かに息を吸い込んだ。
そして、この世界に存在しないはずの劇薬――《エリーゼのために》を弾き始めた。
ミ・レ#・ミ・レ#・ミ・シ・レ・ド・ラ――。
マイナーキーの旋律が響く。
初めは「いい曲じゃん」という顔をしていたさやだったが、曲が中盤の激しい展開に差し掛かる頃、その表情が完全に凍りついた。
低音の不穏な連打。激しいアルペジオ。
それは、これまで彼女が聴いてきた「空間を彩るための美しい音楽」とは次元が違う、剥き出しの「情念」を叩きつける音だった。
さやの顔から血の気が引いていく。
未知の感情を押し付けられ、生理的な恐怖を抱いているのがわかった。
最後の一音が消え、リビングに重い沈黙が落ちた。
「……オニイ。これ、誰の曲?」
引き攣ったようなさやの声を聞いて、俺の中で点と点が繋がり、一つの絶業的な仮説が脳裏に浮かび上がった。
CDの消失。ハノンの不在。骨格のないオモチャのようなピアノ。
そして、誰もが知るはずの《エリーゼのために》を聴いて、震え上がる妹。
――この世界には。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは『存在しなかった』のか。




