第002話:二〇〇六年の亡霊
目が覚めたとき、最初に感じたのは、使い古されたシーツのざらついた感触だった。
そして、異常なまでの生理的な「軽さ」に気づく。
長年の無理がたまった腰の鈍痛も、スタジオのヘッドホンで酷使した耳鳴りも、冬に疼く指の関節の痛みもない。
俺を俺として定義していた肉体の疲労が、跡形もなく消え失せている。
視界に入る天井が、記憶よりずっと遠い。
身体を起こそうとしたとき、その違和感は確信に変わった。
掛け布団を跳ね除ける自分の腕が、不気味なほど細い。
血管が浮いた、鍵盤を叩き潰すために酷使してきた武骨な手ではない。
日焼け一つない、白く滑らかな子供の手だ。
声を出そうとしたが、喉から漏れたのは裏返った頼りない響きだった。
足元にずっしりと重い何かがぶつかる。
視線を落とすと、そこには昨日、二〇二六年の東京で手に入れたばかりの『新ベートーヴェン全集』が、場違いな存在感を放って転がっていた。
事故の衝撃で、どこか頭のネジが飛んだのか。
いや、それならこの「手の小ささ」はどう説明する。
周囲を見渡す。
そこは都内の安アパートではない。かつて息苦しさを感じて捨てたはずの、山口の実家の八畳間だった。
机の上にはとっくに捨てたはずの文房具が並び、壁のカレンダーは『二〇〇三年四月』を指している。
俺は無言のままベッドを抜け出し、洗面所へ向かった。
パニックにはならない。
ただ、この悪趣味な錯覚の正体を鏡で確認するだけだ。
怪我をして実家に運ばれた大人の俺が、包帯でも巻いてそこに立っていてくれればそれでいい。
だが、祈るような感傷は湧かなかった。
鏡の中にいたのは、擦り切れた大人の男ではなく、肌に張りがあり、鼻筋にニキビを残した、十二歳の俺の顔だった。
右頬を平手で叩く。
乾いた音が響き、じんわりと熱い痛みが走った。夢ではないらしい。
部屋に引き返し、クローゼットの床に転がる全集の奥付を静かに開いた。
『© 2025 by G. Henle Verlag, München』
間違いなく、事故の直前に俺が買った未来の出版物だ。
これだけが、昨日までの記憶が妄想ではないことを示す唯一の物証だった。
その場にしゃがみ込み、静かに息を吐いた。
スタジオの現場で血を吐くように積み上げてきた技術も、鍵盤を捉える硬いタコも、すべてがこの白く滑らかな指先からリセットされている。
膨大な時間をかけて構築した俺のキャリアが、一瞬の事故で文字通り「なかったこと」にされたのだ。
ふらつく足取りで一階へ降りる。
リビングには、判で押したような朝の光景が広がっていた。
ラップのかかった目玉焼きと、しなびたキャベツの千切り。
テーブルの上の新聞の見出しが、冷酷に現在地を告げている。
『米軍、バグダッド包囲』――二〇〇三年、四月。
喉の渇きを覚え、冷蔵庫を開ける。
並んだ発泡酒の缶に伸びそうになった手を、途中で止めた。今の俺は、法的にはまだ酒すら飲めない子供だ。
「おにい、おはよう。なにしてんの」
背後から声がして、振り返る。
そこには、生意気盛りの小学生の妹・さやが立っていた。
数年前に結婚し、よそよそしい挨拶を交わすだけの関係になっていたはずの妹が、あどけない顔で俺を邪魔そうに見上げている。
「おにい、トースト一枚でいいよね」
ガチャリ、とトースターが閉まる音。
パンが焼ける香ばしい匂いが、この平和で退屈な日常が「現実」であることを容赦なく突きつけてくる。
圧倒的な喪失感と、未来から持ち込んだ一冊の楽譜。
俺は熱すぎるトーストを無言で口に押し込んだ。
どうやら、このふざけた世界でやり直すしかないらしい。




