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第001話:さよならベートーヴェン

俺の職業は、スタジオピアニストだ。


クライアントが鼻歌で吹き込んだ曖昧なメロディを、破綻のない譜面に書き起こし、指定された時間通りに弾いて納品する。


どんなに支離滅裂な要求でも、形にして返す。

そこに俺自身の感情やエゴを差し挟む余地はない。


納期と品質。

それだけを守っていれば、家賃と酒代くらいは稼げた。


だが、そうやって擦り減らして稼いだ金も、結局はあの男のスコア(楽譜)に消えていった。


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。


親と絶縁し、恋人に愛想を尽かされ、三十五歳になった俺の手元に残ったのは、あの男の遺した音楽だけだった。


指先だけで器用にまとめたような演奏は、あのスコアには通用しない。

短いフレーズが執拗に形を変え、鍵盤を通じて重い疲労と情念を強いてくる。


だが、その息の詰まるような重力だけが、俺が生きていることを確かに実感させてくれる唯一の代物だった。


二〇二六年、東京。


本郷の楽譜専門店の扉を押し開けると、嫌な湿り気を帯びた風が吹いていた。


手に入れたのは、ヘンレ社から出版された『新ベートーヴェン全集』。


スタジオ仕事で稼いだ金が、ずっしりと重い紙の束に変わった。

カバン越しに肩へ食い込むその物理的な重みを感じながら、俺は駅へと向かって歩き出した。


横断歩道を渡り始めたときだった。


鋭く、無機質なブレーキ音が鳴り響き、視界の端を巨大なトラックのフロントグリルが埋め尽くした。


(……この鞄を放り出して跳べば、間にかったか)


死にゆく瞬間の、妙に冷めた頭でそんなことを思った。


だが、俺の両手は無意識に、買ったばかりの重い楽譜の束をかばうように強く抱き込んでいた。


路面に叩きつけられる衝撃。


身体中の骨が軋み、視界が急速に暗転していく。


痛覚よりも先に訪れたのは、「あのソナタを最後まで弾き終えたかったな」という、ひどく月並みで、静かな諦念だった。

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