第029話:大人の厚意と通行証
提灯まつりの熱狂から一夜明けた、八月八日の夜。
二条家のリビングで、俺は新聞に目を通している父・真に切り出した。
「父さん。今度、学校の軽音部の活動で、福岡の大会に出ることになった」
俺の言葉に、父さんは一瞬だけ新聞から目を離した。
「……福岡だと?」
「ヤマハが主催している十代向けのコンテストだ。一次審査を通って、月末のエリア大会に進むことになった」
俺はあくまで淡々と、事実だけを告げた。
事前に「学年上位の成績」という担保を作っておいたおかげで、父さんは頭ごなしに怒鳴るようなことはしなかった。
彼はしばらく俺の顔を見つめ、やがて短く鼻を鳴らした。
「音楽で飯が食えるわけがない。だが、学校のクラブ活動の一環として、真面目に取り組んでいるというなら反対はしない。……ただし、中学生だけで県外へ行くことは許さん。学校の先生の付き添いはあるんだろうな?」
「現在、顧問の先生にお願いしているところだ」
「付き添いが得られるなら、好きにしろ」
父さんは再び新聞に目を落とした。
彼にとって、俺たちのバンド活動はあくまで「中学生の健全な課外活動」の枠を出ない。
俺の『優等生』という建前は、家庭内でも完璧に機能していた。
翌日。
俺は一人で本校舎の保健室を訪れ、顧問である養護教諭の敬子先生に、福岡への引率を依頼した。
「……まったく。夏休みの終わりに福岡まで引率だなんて、とんだとばっちりね」
敬子先生は呆れたようにカルテをめくりながらも、あっさりと承諾してくれた。
「ありがとうございます。助かります」
「いいのよ。それにしても……アキラくん。あなた、福岡の大会の『特別枠』、どうやって選ばれたか知ってる?」
敬子先生が、ふと手を止めて俺を見た。
「俺たちの演奏が、審査員の求める形に合っていたからじゃないんですか」
「ふふっ、違うわよ。姉の幸恵がね、審査員だった校長先生に猛プッシュしたのよ」
「幸恵先生が?」
「ええ。姉さん、あなたが地区大会で弾いた音源を聴いたみたいなの。それで『あの子の本当の才能を、こんな狭い場所で終わらせてはいけない』って、校長先生を熱心に説き伏せたらしいわよ」
俺は少し驚いて、目を瞬かせた。
俺たちの実力がギリギリで審査を通ったのではなく、かつての恩師の純粋な評価と後押しによって、俺たちは福岡への切符を手にしていたのだ。
その日の夕方。
俺は山口市内の『カナタ音楽教室』を訪れていた。
三十五歳のプロの礼儀として、舞台を用意してくれた恩人には、きちんとお礼をしておく必要がある。
「おお、二条くん。よく来てくれたね!」
校長室に通されると、校長は上機嫌で俺を迎え入れた。
「君の才能を、早く世間に出したかったんだよ。川村くんにも強く頼まれたからね」
「特別枠での選出、本当にありがとうございました」
俺が深く頭を下げると、校長は人の良さそうな笑顔で頷いた。
「君はカナタ音楽教室が誇る卒業生なのだからね。有名になっても、たまにはうちに顔を出してくれよ?」
そこには「教室の宣伝になれば」という大人の打算もいくらか混ざっていただろうが、基本的には教え子の成功を純粋に喜んでくれている温かさがあった。
俺は素直な笑顔で返した。
「もちろんです。ご配慮いただき、感謝いたします」
校長室を出ると、廊下の壁に寄りかかるようにして川村幸恵先生が立っていた。
「おめでとう、アキラ君」
彼女は、俺が被っている猫などすべてお見通しだというような、少し悪戯っぽい瞳で俺を見た。
「……幸恵先生。ご推挙いただき、ありがとうございました。おかげで助かりました」
「いいのよ。あなたのあの『猫を被った演奏』、なかなか面白かったわ。でも……あなたが本当に鳴らしたい音は、あんな窮屈なものじゃないんでしょう?」
「ええ」
俺が頷くと、彼女は満足そうに微笑んだ。
「あなたが福岡の巨大なステージで、一体どんな音を鳴らすのか。……私、すごく楽しみにしてるから。思い切りやってきなさい」
「ありがとうございます。期待には、必ず応えますよ」
俺は深く会釈し、教室を後にした。
大人たちの純粋な期待と、少しの打算。
彼らの応援を背に受けながら、俺たちはついに、福岡への確かな通行証を手に入れたのだ。
明日は、福岡に出発です。




