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第020話:聖域の不協和音

旧校舎の備品倉庫。


湿った埃と死んだ木材の匂いが混ざり合うこの場所が、正式に俺たちの拠点となった。


薫、勝、博士の三人は、各々の得物を持ち込み、誇らしげに手入れをしていた。


薫はフェンダー・ジャパンのストラト、勝はテレキャスター、博士は自前のスネアとペダル。


あの放課後、空き教室で俺が叩きつけた「汚れた音」の洗礼を受けた彼らは、もはや俺をただの一年生とは見ていない。


しかし、俺が倉庫の奥から引きずり出してきた「物理的な現実」には、一同絶句せざるを得なかったようだ。


「で、アキラ。……本当にそいつを使うのか?」


薫が予備のシールドを巻きながら、俺の手元を指差した。


俺が抱えていたのは、ボディの塗装が剥げ落ち、弦が茶色く錆びついたプレシジョンベース。


かつてこの学校に存在し、そして「不適切な騒音」として解体された軽音部の、捨てられた遺産だ。


「機材なんて、鳴ればいいんですよ。電気信号をどう加工するか、それだけだ」


俺は技術室から「永久に借りてきた」工具を広げた。


プロとして、現場で死にかけた楽器を戦力に変えるのは日常茶飯事だった。


まず裏蓋を外し、ポットとジャックの配線を指でなぞる。


十年の時を経て固着したハンダは腐食し、もはやまともに電気を通す状態ではない。


俺は無言でハンダごてのスイッチを入れた。


ジュッ、という短い音と共にハンダが溶け出し、松脂フラックスの甘酸っぱい匂いが倉庫に漂う。


余分な酸化物を吸い取り線で除去し、現代の感覚では「汚れた」配線を、クリアな低音信号が通るための回路へとハンダを流し込んで再構築していく。


次いでネックだ。


指板のしつこい手垢を無水エタノールで拭い、フレットに残った緑青をスチールウールで慎重に磨き上げる。


トラスロッドを六角レンチで回すと、木材の軋む音が鈍く響いた。


ブリッジのサドルをイモネジでミリ単位で追い込み、弦高を限界まで下げる。さらに各弦のオクターブピッチを合わせる。


最後に新しい弦を張り、ペグを回してテンションをかける。


指先が冷たい弦を捉えた瞬間、ベースという「ただの木の塊」が、楽器としての血流を取り戻した。


無駄のないその動きを、職人気質の勝が感心したように見つめている。


「……指先だけじゃなくて、中身も本当に子供かよ、お前」


「これくらいのメンテは教養ですよ、勝」


俺は苦笑しつつ、調整し終えたベースを傍らの智ちゃんに手渡した。


「智ちゃん、一度持ってみてください。重いでしょう」


「えっ、私が……? わ、本当だ。ずっしりくるね」


「ベースの指板は、ピアノの鍵盤と同じです。右に行けば半音上がる。智ちゃんなら、どこを押さえれば何の音が出るか、瞬時に理解できるはずだ。いつか俺が鍵盤に回るとき、智ちゃんにこの重低音を支えてもらいたいんです」


驚く彼女の指を、まだ冷たい弦の上に添えさせる。


「今はまだ弾けなくていい。ただ、この木の塊が身体を通して心臓を叩く感覚だけを、脳に焼き付けてください」


次に俺は、埃を被った古いエレクトーンに向かった。


安っぽいプリセット音源のレイヤーを強引に書き換え、残響リバーブを極限まで深めて「空間」を作る。


俺が和音を一つ、そっと置くように鳴らすと、智ちゃんはヘッドホンを外して絶句した。


「……なにこれ。学校の楽器から出る音じゃないみたい。すごく、深い……」


「この楽器は『化ける』んです。智ちゃんの指なら、もっとね」


俺が電源を切ると、それまで所在なげにスティックを回していた博士が、わざとらしく咳払いをしながら身を乗り出してきた。


「おい、アキラ。大事なことを忘れてるぞ。挨拶だよ、挨拶! 新しく部員が増えたんだ。顧問の先生に顔出しに行くのが筋ってもんだろ。ここは一応『保健室の管理下』なんだからよ」


薫も「……まあ、そうだな。一年坊主と智子を放っておくわけにもいかねえしな」と、鏡も持っていないのに前髪をいじり、気合を入れ直している。


ここの顧問――というより、旧校舎の使用を黙認している管理責任者は、養護教諭の川村敬子先生。二十四歳。


前世の記憶が確かなら、彼女は俺の元恩師である幸恵先生の実の妹だ。


前の世界でも「ピアノ教師の妹が俺の中学校の保健室にいる」という奇妙な縁を、後年になって知った。


幸恵先生に生き写しの美貌を持ち、なおかつ「保健室」という治外法権を守る彼女は、この中学校の男子生徒にとっての絶対的なマドンナだ。


俺たちは五人揃って、本校舎の保健室へと向かった。


引き戸を開けると、特有の消毒液の匂いと共に、白衣を着た彼女が視界に入った。


「あら。今日は3人そろって。どうしたの?」


川村先生。


彼女は、姉の幸恵が持つあの張り詰めた潔癖さとは無縁の、どこか柔らかく、それでいて全てを見透かしたような瞳で俺たちを見た。


「新しくバンドに入った一年生の二条アキラです。それと二年の芦田智子。入部の挨拶に伺いました」


俺が名乗った瞬間、彼女のペンを動かす手が止まった。


視線が、俺の顔をじっと射抜く。


「……二条アキラ。あなたが、あの」


川村先生は小さくため息をつき、微笑とも苦笑ともつかない表情を浮かべた。


「連休中に、姉の幸恵から電話があったわよ。教室でとんでもない……それこそ、悪魔みたいな弾き方をして、そのまま辞めた生徒がいるって。ピアノが退屈だって言ったんですって?」


薫たちが「姉妹……?」「悪魔?」と顔を見合わせ、さらに緊張を強める中、俺は大人の余裕で微笑を返した。


「幸恵先生には申し訳ないことをしました。でも、あそこは『正解』を教える場所でしょう? 僕は、もっと自由な音楽がやりたいんです」


俺はそれ以上は言わず、ただまっすぐに彼女の目を見返した。


かつて幸恵先生が「妹は私と違って、音楽を自由に楽しもうとする困った人だ」とこっそり愚痴っていたのを思い出しながら。


川村先生は虚を突かれたように少しだけ目を見開き、それからクスクスと喉を鳴らして笑った。


「……生意気な一年生。姉がショックを受けるわけだわ。いいわ、名前は入れておく。その代わり、保健室を騒がしくしないで。ここは休む人のための場所なんだから」


彼女はそう言って、再び書類に目を落とした。


薫たちは川村先生の美しさに圧倒されて一言も発せなかったが、俺は確信していた。


この人は、俺たちがこれからこの退屈な世界にばら撒く「不協和音」を、面白がってくれる側の大人だ。

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