第019話:中間考査による「免罪符」の獲得
ゴールデンウィークの連休中、俺は一度も薫たちに声をかけなかった。
勝たちは「休みこそ練習しようぜ」と息巻いていたが、俺はそれを強引に制止した。
(今はあえて、音を鳴らすな。その代わり、自分の中のムカつきを限界まで溜めておいてくれ)
それが俺の出した指示だった。
理由は二つある。
一つは、合唱部を辞め、ピアノ教室の退会騒動を起こした直後のこの時期、家で大人しく「学業に専念しているフリ」をして、親父の警戒心を解くため。
そしてもう一つは、彼らに「音への飢え」を自覚させるためだ。
二〇〇三年のこの世界には、彼らの鬱憤を晴らすような刺激が決定的に欠けている。
一週間、退屈な日常に彼らを突き戻し、煮えくり返るような欲求を限界まで圧縮させる。
バネは縮めれば縮めるほど、放した瞬間の反発力は大きくなる。それは、一九六〇年代のロンドンで若者たちが抱えていたエネルギーの再現でもあった。
* * *
そして連休明けの放課後。
旧校舎の廊下で顔を合わせた三人の目は、強い焦燥感を隠しきれない、ひどく飢えたような目つきをしていた。
「……アキラ。今日こそは鳴らすんだろうな。俺、もう限界だぜ」
薫が、低く掠れた声で俺を急かす。
「ええ。そのために、まずはこれを調達してきました」
俺は本校舎の「技術室」から借りてきた部品を広げた。
この世界の住人にとって、俺は「ピアノの神童」かもしれないが、今の俺が求めているのは高尚な旋律ではない。
溜め込まれた彼らの鬱憤を、音として出力させるための物理的な「抵抗」だ。
二〇〇三年の公立中学の技術室には、まだ真空管ラジオの残骸やアナログ回路の電子パーツが転がっている。
「アキラ、なんだよその汚ねぇ箱は」
勝がストラトキャスターを抱えたまま、俺の手元を覗き込む。
「これは『アッテネーター(減衰器)』です。これがあれば、アンプの出力を全開にしても、外に漏れる音量だけを制御できる」
「はあ? ボリューム下げりゃいいだけだろ」
勝の至極真っ当なツッコミに、俺は首を振った。
「ダメなんです。それじゃあ『あの音』にならない。アンプの出力段にある真空管(パワー管)が限界まで酷使され、電気信号がサチュレーション(過飽和)を起こして激しく歪む……あの特有のノイズは、ボリュームを『10』にしないと生まれない。だから、アンプとスピーカーの間に、この『熱を食う箱』を割り込ませるんです」
俺はアンプの裏蓋を開け、出力トランスからスピーカーへと繋がるプラス側のケーブルを、ニッパーで躊躇なく切断した。
智ちゃんが「ひっ」と短い悲鳴を上げる。
「ア、アキラくん……壊しちゃったの……?」
「いいえ、智ちゃん。これは必要な改造です。行儀の良い音を、本来の荒々しい音に戻すためのね」
ワイヤーストリッパーで導線の被膜を剥き、銅線を露出させる。
アルミ弁当箱の底にはあらかじめドリルで無数の放熱穴を開けておいた。そこに数個の大容量セメント抵抗を並べ、ビスで強固に固定する。
ただ直列に繋ぐだけでは抵抗値が狂ってアンプが壊れてしまう。俺はアンプの規定インピーダンスである「8オーム」に合わせるため、抵抗器を直列と並列に組み合わせて回路を組んだ。
ジュッ、とハンダごての先で銀色の糸が溶ける。
松脂の焦げる甘酸っぱい匂いが、カビ臭い空き教室に混ざった。
アンプから出力された数十ワットの強大な電気エネルギーは、この抵抗器の迷路に迷い込み、物理的な「熱」へと変換されて激しく消費される。
そして、そのフィルターを通り抜けたごくわずかな電流だけが、スピーカーを揺らすのだ。
「薫さん、準備はいいですか。GWに溜めたそのイライラを、この一音に全部乗せてください」
俺はアンプの電源を入れ、すべてのノブを最大――フルテンまで回した。
スピーカーからは、昨日までの「ジーッ」という小さな羽音とは比較にならない、低くうねるような重いハムノイズが漏れ出す。
アンプ内部の回路が、限界値の負荷に耐えかねて唸っている証拠だ。
「カウントなしで。……弾いてください」
薫が右手を振り抜く。
ジャ、ガガッ、ギャァァァァァァン!!
空気が震えた。
音量自体は昨日とそれほど変わらない。だが、音の密度が、圧力が、桁違いに変質していた。
増幅の限界を超えた電気信号の波形が、上下で無惨に断ち切られる「クリッピング」現象。
綺麗に調律されたピアノでは逆立ちしても出せない、強烈な偶数次倍音を含んだその分厚い響きは、この整頓された世界の音楽史には存在しない「歪んだ音」――かつてジョン・レノンが鳴らしたような、生々しい反骨の響きだった。
「……なんだ、これ」
ギターを握ったまま、薫が震えている。
「音が……生きてるみたいだ。弦を弾いた瞬間の、このまとわりつくような重さはなんだ……!」
「ケースを触ってみてください」
俺が促すと、智ちゃんがおずおずとアルミケースに指を触れた。
「あつっ! 何これ、火傷しそう!」
「俺たちの音楽が、熱に変わっている証拠です。本来なら空気を大きく震わせていくはずの絶大なエネルギーが、限界まで圧縮され、熱としてこの箱の中に溜まっている。……音が外に漏れない分、俺たちの『不満』がここで燃えていると思ってください」
アルミケースからは、過負荷に耐える抵抗器が焼ける、鼻を突くような焦げ臭い匂いが漂い始めた。
家では優等生。学校でも神童。だが、このアルミ箱の中で、俺たちの本音が物理的な熱量となって蓄積されている。
「智ちゃん。その熱を、言葉にしてください。サビはもう決まっています」
俺はピアノの鍵盤を、強いバックビートで叩いた。
「曲名は『Helter Skelter』。……いいえ、この国に合わせて――『センコー(仮)』、始動です」
熱を持ったアルミケースが、ジジジと不吉な音を立てる。
俺の脳内には、二週間後の中間試験の成績表と、それを歪んだ音で塗り替えるロックのリズムが、同時に鳴り響いていた。




