第017話:The Bible of "beat less"
雑誌の巻末にある通信販売の広告を眺めながら、俺はため息をついた。
二〇〇三年のこの時代、機材を買うなら代金引換の通販が手っ取り早い。だが、県庁勤めで厳しい父・真や、勘の鋭い母・由紀子に「中身のわからない小包」を受け取られるリスクは避けたかった。
だから俺は四月の終わりにマウンテンバイクを走らせ、国道沿いのハードオフへ向かった。
青いコンテナが積み上げられたジャンクコーナー。埃を被ったケーブルの山の下に、目当ての銀色の箱はあった。『通電のみ確認・三千百五十円』という値札が貼られたオーディオ・インターフェイス。レジの店員は、一中の一年生が何のためにこれを買うのか、そもそもこれが何の機械なのかすらわかっていないようだった。
ついでに中古楽器のコーナーでベースも覗いてみたが、ろくなものはなかった。
(いつか、ヘフナーのヴァイオリンベースを手に入れてやる……)
この世界にはまだ存在しないポール・マッカートニーのトレードマークを思い浮かべながら、俺はインターフェイスをリュックに隠し、家路についた。自室の押し入れの奥にそれを隠し、ゴールデンウィークが来るのをひたすら待った。
四月二十九日、みどりの日が過ぎた後の退屈な授業中。俺はノートの端に、文化祭へ向けた「設計図」――メンバーに配るための自作CD『The Bible of "beat less"』のトラックリストを書き出していた。とりあえずこの一枚のベストアルバムで、彼らに魔法をかける。
Twist and Shout
役割は【覚醒】。「まずは喉を壊せ」。あの放課後、薫に歌わせた理屈抜きのエネルギーを叩き込むための曲だ。
Helter Skelter
役割は【不協和音と怒り】。『センコー』の土台になる。極限まで歪ませたギター音を聴かせ、「これが俺たちが手にする武器だ」と勝(ジョージ役)に示す。
Come Together
役割は【グルーヴと重低音】。智ちゃん(ベース)への教育用だ。粘りつくようなベースラインを聴かせ、「メロディを支えるのはピアノじゃなく、この低音なんだ」と教え込む。
Help!
役割は【疾走感とコーラス】。バンドとしてのスピード感と、三声コーラスの厚みを教えるため。合唱部の「綺麗なハモり」とは違う、魂の叫びとしてのハモりを提示する。
Something
役割は【ロックの叙情】。勝に「ロック・ギタリストとしての泣きのソロ」を意識させる。ただ速く弾くのではない、歌うギターを教える。
Let It Be
役割は【アンセム(聖歌)】。文化祭のラスト用。合唱に慣れた全校生徒を「一人残らず味方につける」ための、この世界における新しい聖歌だ。
The Long and Winding Road
役割は【終焉と、その先へ】。俺がピアノに座った時の「完成形」を見せる。ベートーヴェンが到達したであろう、壮大な音楽の終わりを予感させる曲だ。
選曲は決まった。あとは、これを二〇〇三年の技術で「音」として受肉させるだけだ。
そして迎えた、五月の連休本番。
我が家から、見事に誰もいなくなった。
父さんは付き合いのゴルフと、広島での大学の同窓会で県外へ。行動力のある母さんは、妹のさやを連れて、母方の祖父母と一緒に大分県の九重連山へ泊まりがけの山登りに出かけていった。
俺も誘われたが、「もうすぐ初めての中間考査だから、家で集中して頑張る」という優等生らしい口実で断った。父さんは「その意気だ」と満足げに頷いていた。
五月三日から五日までの三日間。俺は完全に一人だ。
玄関の鍵が閉まったのを確認すると、俺は押し入れからオーディオ・インターフェイスを引っ張り出し、自室のデスクにセットした。俺の部屋にある安いシンセサイザーと、誰もいない部屋から引っ張ってきたエレクトーンからのラインを、PCとインターフェイスに繋ぎ込む。
Windows XPが起動し、波形編集ソフト『SoundEngine Free』を立ち上げる。
ギターもベースもない。だが、このシンセの安っぽい音を限界まで歪ませ、波形をぶつ切りにして重ねれば、擬似的に一九六〇年代の魔法を再現できる。
だが、作業は想像以上に過酷だった。
トラックを重ね、リバーブをかけるたびに、PCの動作がだんだんと遅くなっていく。二〇二六年のスペックなら一瞬で終わる処理に、このXP機は砂時計のアイコンを表示させたまま数十秒も固まるのだ。初日の夜、俺は処理速度の限界を感じ、寝る前にHDDのデフラグをかけておくしかなかった。
データが飛ぶ、あるいは容量が吹き飛ぶ恐怖とも戦わなければならない。風呂や食事の時間を利用して、こまめにCD-Rにバックアップを焼き、夜寝る前には重いWAVデータをMP3に変換して容量を確保する。
孤独な作業だった。だが、深夜の静寂の中、安物のシンセから叩き出した音が、PCの画面上で次第に『Helter Skelter』の狂気を帯びていくのを見るのは、悪くない気分だった。
思ったよりも時間がかかったが、五月五日の午後。
ついに、七曲のデモ音源を収めたマスターCD-Rが完成した。
ヘッドホンを外し、俺は深く息を吐き出した。この薄っぺらい円盤の中に、俺が世界をハックするための設計図がすべて詰まっている。
「……ただいまー! おにい、ちゃんと勉強してたー?」
一階から、ドタバタという足音とさやの甲高い声が響いた。予定通り、母さんたちが山登りから帰ってきたのだ。
急いで片付けようとしたが、遅かった。
ガチャリと自室のドアが開き、日焼けした顔のさやと、その後ろから母さんが覗き込む。
「アキラ、お土産……って、何これ」
母さんが、部屋の異様な光景を見て目を丸くした。
教科書やノートが広げられているはずのデスクには、見慣れない銀色の機械と太いケーブルが這い回り、PCにはシンセとエレクトーンが接続されている。画面には青い波形が複雑に重なり合い、どう見ても「中間考査の勉強」をしているようには見えなかった。
「あ……いや、これは」
俺が言い訳を探して口ごもる中、母さんとさやは、得体の知れないものを見るような目で、俺と銀色の円盤を交互に見つめていた。




