第016話:凡才の戦略と、天才の青写真
その日の夕食のテーブルは、まるで行儀の良すぎる四重奏のように、冷ややかな静寂に包まれていた。
母・由紀子は、箸を動かす手も疎かに、内容のないバラエティ番組が流れるテレビをぼうっと見つめている。俺は黙々と焼き魚の骨を外しながら、頭の中で『Helter Skelter』のイントロの歪みをどう再現するか、そのシミュレーションに没頭していた。
沈黙を破ったのは、この家で唯一、今の「空気」を読み取らない――あるいは、あえて読み取らない妹のさやだった。
「そういえば、今日帰りにピアノ教室の山田先生と川村先生に会ったよ。お兄ちゃんのこと、なんか話してた」
由紀子が視線をテレビから俺の方へとゆっくり移した。
「……そうね。私も今日、先生方とお会いしたわ」
「知ってるの? なにかあったの?」
さやが身を乗り出す。
「お兄ちゃん、なんか『天才』なんだって。先生たちが、あんな弾き方できる子は他にいないって大騒ぎしてたよ」
さやの声は、兄への称賛というよりは、得体の知れないものを見るような戸惑いに満ちていた。
由紀子は明るくない声で付け加える。
「……先生方は、日本の音楽界が放っておかない宝だなんて仰ってたわ。でも、アキラは教室を辞めるって一点張りでしょう。……お母さん、お父さんになんて言えばいいかわからないわ」
俺は視線を上げず、淡々と答えた。
「親父は音楽に興味なんてないんだから、俺が何を辞めようが関係ないだろ」
「甘いよ、おにい」
さやがニヤニヤしながら、忠告するように言った。
「お父さんはね、『音楽で食べていけるわけがない』っていつも言ってるじゃん。ピアノを辞めて時間ができたなら、その分『塾』に行けって言われるに決まってるよ。才能があろうがなかろうが、お父さんにとっては勉強が一番なんだから」
俺は心の中で、小さく息を吐いた。
堅物で県庁勤めの父にとって、音楽はあくまで「教養」であり、人生を懸ける価値のあるものではない。ピアノを辞めることは、彼にとって俺の時間を学業に振り向けるチャンスでしかないのだ。
「大丈夫だよ。山高(山口高等学校)に受かるだけの成績を見せつければ、親父も文句は言わないはずだ」
「へぇー。おにい、そんなに頭良かったっけ?」
「……まあ、それなりには」
大人の脳のまま中学校の勉強をやり直すのだ。長年、現場で複雑なスコアを処理し続けてきた経験を思えば、試験問題の要点を押さえることなど造作もない。
少しだけ由紀子の表情が明るくなった。
「……そうね。じゃあ、中学に入って最初の中間試験、期待してるわよ。アキラがしっかり成績を取ってくれれば、お父さんの機嫌もいいんだから。頑張ってよね」
「おまえもな」
俺は短く答えて、食事を終えた。
*
自室に戻り、俺は学習机に広げた教科書をざっと眺める。
俺たちが誰にも邪魔されずにバンド活動を続けるには、親を納得させるだけの「成績」という盾が必要だ。
厳格な父が重んじる社会のルールや秩序を、真っ向から否定するつもりはない。ただ、親の干渉を避け、自分たちの音楽に没頭できる環境を維持したいだけだ。もし、俺が旧校舎でエレキギターをかき鳴らしていると知れれば、即座に楽器は取り上げられ、学習塾の机に縛り付けられることになるだろう。
数日間の授業を聞き直して気づいたが、今の俺にとって、勉強は決して苦行ではない。この世界で「自由な時間」を確保するための、ほんの小さな必要経費に過ぎなかった。
(川村先生、電話するって言ってたな……)
ふと、かつての恩師の顔が浮かぶ。
あの時、俺が弾き放った『熱情』を聴いた彼女の瞳には、未知の音楽に当てられた強いショックと興奮が宿っていた。
だが、彼女は遠い記憶の中で、俺に鍵盤の本当の重さを教えてくれた恩師であり、初恋の女性でもある。これから大人たちを騙し、反発を買うであろう俺たちの活動に、彼女を巻き込むわけにはいかなかった。
「……まずは、作曲だ」
俺は頭を振って思考を切り替え、ノートを開いて『Helter Skelter』のタイトルを書き込んだ。
五線譜にペンを落とそうとした、その瞬間。
――ジリリリリリッ。
一階のリビングにある固定電話が、静寂を切り裂くように鳴り響いた。
少しの間を置いて、階段の下から由紀子の声がした。
「アキラ。川村先生からよ。また教室のことかしら」
俺はペンを置き、自室の子機を取り上げた。
「代わります」
リビングの通話が切れたのを確認する。受話器の向こうからは、少し押し殺したような呼吸の音が聞こえてきた。
「……アキラ君」
普段の音楽教室で見せていた理知的な講師のトーンではない。どこか冷静さを欠き、感情が高ぶっているような声だった。
「さっき聴かせてくれた曲……あなたが、作ったの?」
「……そうです」
俺が短く答えると、幸恵は小さく息を吐いた。
「アキラ君。私、あの音を聴いたとき、嫌じゃなかった。美しくはないけど……あなたの『戦う意思』を感じたわ」
「……」
「ごめんなさいね。中学生に向かって、こんな言い方」
少し自嘲するように笑う彼女の言葉に、俺の奥底にある緊張が、わずかに解けていくのを感じた。
この退屈な世界で、誰も理解できないはずの異物を、彼女だけが直感で受け止めてくれた。
「いえ……先生がそう感じてくれて、よかったです」
俺は受話器を握り直し、ふと、誰にも見せたことのない本音を口にしていた。
「本当は、この世界の人には理解されないんじゃないかって、少しだけ不安だったんです。……でも、先生みたいな人がいるなら、やっていけます」
「……そう」
受話器の奥で、幸恵が優しく微笑んだ気配がした。
「残念ね、教室を辞めてしまうのは。……でも、もう少しあなたのピアノが聴きたいわ。たまに、遊びにいらっしゃい」
「……はい」
俺は通話終了のボタンを押し、液晶の消えた子機を充電器に戻した。
少しずつだが、状況は確実に動き始めている。
俺は再びノートに向かい、『Helter Skelter』の五線譜に迷いのないペンを走らせた。




