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第015話:招かねざる「正解」

その数日後、カナタ音楽教室の校長から「ぜひご自宅へ伺ってお話ししたい」と丁寧な電話があった。

母・由紀子は少し戸惑い、夜になって父・真に相談したものの、エリート志向で県庁勤めの父は「たかが習い事の話だろ。お前が適当に聞いておけ」と興味すら示さなかった。

結果として、指定された日の夕方、二条家のリビングには、音楽教室の校長、現担当の山田早苗、そしてかつての恩師である川村幸恵の三人の大人が並び、その対面に由紀子とアキラが並んで座ることになった。


「わざわざ教室からお越しいただいて……アキラが何か粗相でもしましたでしょうか」

由紀子がお茶を出しながら、困惑したように尋ねる。相手は近所の評判が良い習い事の先生たちだ。音大の教授というわけでもあるまいし、過剰に畏まる必要はないが、三人がかりで訪問してくるのは明らかに異常事態だった。


「由紀子さん、落ち着いて聞いてください。アキラ君の才能は、教室の……いえ、この国の音楽界の宝なんです」

校長が身を乗り出し、熱っぽく語り始めた。

「あの日、アキラ君はあのサルトルの第四番を完璧な速度で弾ききったのです。これは奇跡だ。日本の音楽界が放っておかない逸材なんですよ!」

「は、はい……サルトル……? 四番……?」

音楽の専門知識を持たない由紀子は、ただ困ったように愛想笑いを浮かべた。

山田早苗が、黙って座っているアキラに向き直る。

「アキラ君! サルトルをあれほど完璧に弾けたのよ! あなたならこの世界のピアノの頂点に立てる。どうして辞めるなんて言うの?」


アキラは、黙って傍らに座る川村幸恵を見た。かつての恩師は、今の自分が奏でる音の真意を読み解こうとするかのように、熱を帯びた眼差しを向けている。


「……自分は、この世界のピアノに興味がないんです」

アキラは冷淡に言い切った。

「ちょっとアキラ、先生方に向かって何を言ってるの!」

由紀子が慌ててアキラの腕を掴しようとしたが、アキラはそれを静かに躱して立ち上がった。

「言葉で説明しても、伝わらないと思います。だから、一度だけ見せます」


アキラはリビングのグランドピアノに向かった。大人たちが口を開く前に、低音の鍵盤へ向けて、12歳の未完成な身体の全体重を乗せた両腕を、容赦なく振り下ろした。

――ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番『熱情』。


ガァァァァァン!!


リビングの壁が震えるほどの、濁った、重い低音。

そこにあるのは「お行儀の良い美しさ」ではない。血を吐くような絶望と、そこから這い上がろうとする暴力的な情念だ。


アキラは12歳の手格では届かないはずのヘ短調の和音を、指の関節を限界まで突っ張らせ、鍵盤の底にあるフェルトを物理的に叩き潰すような重いタッチ(打鍵)で沈め込んでいく。手首をしなやかに使うクラシックのセオリーを無視し、前世で浴びてきた「魂を削り合うロックのダイナミズム」を、あえてピアノという楽器に力づくで出力する。


トレモロが始まると、アキラの左右の指先は、まるで狂った機械のように細かく、だが圧倒的な均一さで鍵盤を狂打し始めた。ペダルを踏み込み、あえて音を濁らせる。弦の残響が渦を巻き、リビングの空気を一瞬で呪わしい熱気で支配していく。美しく整えられた調律の枠組みを歪ませ、スタッカートの一打一打が、聴き手の鼓膜に直接突き刺さるような打撃音となって炸裂した。


「……っ」

由紀子は息を呑み、胸元を強く押さえた。物理的な音圧が心臓に響き、これまで積み上げてきた日常の風景が、音の濁流に飲まれて崩れていくような眩暈を覚える。息子が、知らない誰かに変貌していくような、底知れない恐怖が彼女の喉を詰まらせた。


「な……なに、これ……」

山田が目を見開き、校長が顔を青くして仰け反った。彼らにとって、それは音楽ではなく、耳を塞ぎたくなるような「野蛮なノイズ」に過ぎなかった。


だが、川村幸恵だけは違った。

彼女は椅子の背もたれに爪が食い込むほど強く自分の手を握りしめ、まるで呪縛が解ける瞬間を見守るかのように、一音一音を全身で受けていた。アキラが鳴らす旋律が、彼女が長年抱えてきた「音楽界への言いようのない閉塞感」を容赦なく暴いていく。


アルペジオが最高音から最低音へと濁流のように駆け下り、最後の一音が消えた後、部屋には重苦しい静寂だけが残った。

「これが僕の探している音です。正確さを競うだけのピアノに、僕の人生を使う気はありません。……お引き取りください」


校長と山田は、説得が不可能であることを悟った。あまりに異質な、圧倒的な実力差。理解できないものを目の当たりにした恐怖から逃れるように、二人は足早に玄関へ向かった。

由紀子は立ち上がることもできず、ただ打ちのめされたように息子の背中を見つめている。


だが、川村先生だけが玄関先で立ち止まり、振り返った。

「……アキラ君。後で、電話するわ」

彼女の瞳には、困惑ではなく、見てはいけない禁忌を目撃してしまった者の熱があった。彼女はそのまま二人を追って去っていった。


静まり返った部屋で、アキラは自分の指をじっと見つめた。

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