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第014話:鋼鉄の設計図

山口市の国道沿い。全国チェーンの青い看板を掲げた『カナタ音楽教室』の防音室には、五月の退屈な西日と、調律されすぎたアップライトピアノの音が満ちていた。


母親が「豊かな感性を育てる情操教育のために」と、幼い頃の俺に買い与えた週に一度のレッスン。十二歳の新しい肉体を手に入れた今の俺にとっては、その窮屈な箱に収まっている時間は、お堅い親たちを安心させておくためのただのアリバイ作りに過ぎなかった。


俺が奏でるブルグミュラーの『練習曲第18番:羊飼いの帰り道』は、一音の乱れもなく、凪いだ水面のように穏やかな音を立てていた。


この退屈な世界に出回る校訂版の楽譜は、音楽というより「音の整列」に近い。ロマン派特有の溜息のようなルバートは不純物として削り落とされ、ただ譜面通りに正確に指を置くことだけが絶対の正解とされる。


担当講師の山田早苗は、演奏が終わるなり目を輝かせた。

「すごい……アキラ君、いつの間に。一打一打の粒立ちが、一ヶ月前とは別人のようよ。完璧だわ」


俺は愛想笑いすら浮かべず、鍵盤から手を離す。


「先生。今まで作られたピアノ・ソナタの中で、最も難解でテクニカルな曲は何ですか」


唐突な問いに、山田は意表を突かれた顔をしたが、やがて本棚の奥から埃を被った古い楽譜を抜き出した。


「迷うけれど、やっぱりサルトルの『鋼鉄の指のための大ソナタ 第4番 ハ長調』かしらね。正確さと持続力、そして一切の迷いを排した打鍵を求められる。この界隈で、これを完璧に弾きこなせる人は数年に一人と言われているわ。見てみる?」


俺は無言でその楽譜を受け取り、譜面台に広げた。

目に飛び込んできたのは、休符を徹底して排除し、幾何学的な十六分音符で埋め尽くされた黒い壁だ。指示語にはこうある。


――Senza espressione(表情なしに)。


「……弾いてみます」


俺の指が動いた。

それは音楽というより、高速で稼働する精密機械の駆動音だった。左右の手が鏡合わせのようにシンクロし、圧倒的な速度のスケールが、一定の音圧を保ったまま延々と繰り返される。


ただ譜面通りに正確に指を置く。それがこの世界の正解だ。

なら、その「正解」のインフレに、お前たちの貧弱な神経がどこまで耐えられるか試してやる。


一分、二分、三分。

休符のない十六分音符の黒い壁を、俺の指先が狂いなく削り取っていく。

35年分の、前世の現場で徹底的に無駄を削ぎ落としてきた運指の蓄積。それを十二歳の真新しい肉体に通し、限界まで酷使して盤面を塗りつぶした。


テンポは指定の1.5倍。にもかかわらず、一打の狂いも、ダイナミクスのブレもない。

それはただの「上手な演奏」ではなかった。感情が削ぎ落とされすぎた結果、そこから立ち上ったのは、意思を持たない自動人形オートマタが冷徹にタスクを処理していくような、不気味なまでの「無の暴力」だった。


「あ、アキラ、君……? 少し、速すぎ……」


山田早苗が引きつった声を漏らす。彼女の顔から血の気が引いていくのが視界の端に見えた。

彼女たちが信奉する「美しい音の整列」を究極まで突き詰めた結果、そこに現れたのは芸術ではなく、ただの冷酷な記号の羅列――剥き出しのディストピアだった。


最後の一音を完璧な音圧で寸分の狂いもなく叩ききり、残響をペダルで冷徹に断ち切る。


室内には、耳が痛くなるほどの静寂が流れた。

山田早苗は感嘆を通り越し、自分の部屋に突如現れた「理解不能な異物」を前にして、生理的な恐怖からガタガタと膝を震わせて立ち尽くしていた。


俺は譜面台から目を離し、ゆっくりと楽譜を閉じる。


「……これが頂点なら、もうここで学ぶことはありません」

「え……?」

「山田先生、今日で辞めます」


俺は彼女の困惑には目もくれず、愛用のバッグを肩にかけた。


「俺がやりたいのは、タイピングじゃないんです」


錆びついた旧秩序に背を向け、俺は自動ドアの外、街の騒音の中へと歩き出した。

ここから先は、誰の指示も受けない。俺自身の、俺による、俺のための音楽を鳴らす。

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