第121話:十五位の帰還と、それぞれの進路
三学期の中間考査。
掲示板に張り出された学年総合順位の『十二位』という数字を確認し、俺は息を吐いた。
親父に突きつけた「十五位以内に入る」という宣言を有言実行するための、緻密な計算と睡眠時間を削る泥臭い暗記の成果だ。これで俺を縛っていた足枷は完全に外れ、放課後の軽音部室への出入りが再び合法的に許可された。
二ヶ月ぶりに重い防音扉を開けた。
音が、鳴っていた。
四人が、俺のいない状態で合わせている。止まらない。誰かが仕切っている様子もない。曲の途中で薫が短く手を上げ、それだけで頭に戻った。
俺が組んだ段取りではない。二ヶ月のあいだに、彼らが自分たちで作った合図だ。
俺は扉の内側に立ったまま、一曲が終わるのを待った。
最後の音が切れた後、誰も俺の方を見なかった。
「……戻ってきたか」
薫が、ギターを提げたまま背中越しに言った。振り返らない。
「ええ。約束の数字は取ってきましたから」
「そうか」
それきりだった。
薫はアンプのつまみに手を伸ばし、次の曲の音作りを始めた。勝が気まずそうに俺と薫を見比べ、博士がスティックで空を叩いて場を繋ごうとして、失敗した。
*
その日、俺は部室の隅で一時間座り、一言も声をかけられずに帰った。
翌日も同じだった。
三日目、俺は長机の上に、書類の束を置いた。
「なんだよ、それ」
薫が顔をしかめた。
「全部です」
俺は束を薫の側へ押した。
「貸倉庫の覚書。YCAMの届け出の控え。会員名簿の管理の取り決め。志村さんとのやり取りの記録。……今までに紙になっているものは、これで全部です」
薫は書類を見下ろしたまま、動かなかった。
「読めって言うのか」
「読まなくても構いません。ただ、置いておきます。……何がどこにあるか、俺以外の人間が知っている状態にしておきたい」
「今さらかよ」
「今さらです」
薫は書類の一枚目をつまみ上げ、二行だけ目で追って、すぐに机へ戻した。
「……こんなもん見せられても、俺には分かんねえよ」
「分からなくても構いません。分からないまま置いておくのと、知らされないのとは違います」
薫の手が止まった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
やがて薫は、椅子の背に体重を預け、天井を見上げた。
「お前が俺たちを見下して、勝手に親まで巻き込んだこと、まだ許してねえからな」
「分かっています」
「……叔母さんに聞いた。お前の親父さんが、うちまで来たんだってな」
俺は黙っていた。
「俺には内緒にしてくれって、頭下げられたって言ってた。……叔母さん、それを俺に黙ってた二ヶ月のこと、謝ってきたよ」
薫は書類の角を指で弾いた。
「なんで叔母さんが謝るんだよ」
*
四日目から、薫は俺に用件を言うようになった。
会話ではない。物資の要求と、日程の確認だけだ。それでも、二ヶ月前まではその要求すら俺が先回りして潰していたことを思えば、これは変化だった。
一週間が経った頃、薫がアンプの前で振り返らずに言った。
「……俺たちだけで東京のでけえステージに立つには、お前が要る。それはこの二ヶ月で嫌ってほど分かった」
「ええ」
「だがな。お前が引いたレールの上を大人しく歩く気はもうねえ。これからは自分たちの足で進む」
「構いません。俺は障害を取り除いて、道幅を確保するだけです」
「その『取り除いた』ってのを、後から言うのはナシだ」
薫はつまみから手を離し、初めて正面から俺を見た。
「先に言え。潰す前にな」
「……分かりました」
薫は鼻を鳴らし、椅子に座り直した。
元通りではない。しこりは残っている。この男は、俺が黙って何かを処理するたびに、これからも同じ顔をするだろう。
だが、その顔をされることを、俺は引き受けたのだ。
*
そんなやり取りの横で、年が明け、二年生のメンバーたちはいよいよ「受験生」という絶対的な大人のプレッシャーに直面していた。
特に、その重圧と現実を最も残酷な形で突きつけられていたのが、智ちゃんだった。
「……ここは、関係代名詞の継続用法だから……」
部室の隅の長机。智ちゃんはシンセサイザーに背を向け、参考書と睨み合いながらシャープペンシルを走らせている。その横顔には、かつての余裕は消え失せ、痛々しいほどの焦りが張り付いていた。
無理もない。冬の間、ベースの翔子先輩の元には、東京の音楽大学から水面下で推薦入試の打診が届いていたのだ。一昨年の全国大会グランプリという「大人が認める実績」を持つ彼女への、当然のオファーだった。
一方で、裏方として誰よりもバンドを支えてきた智ちゃんには、社会からの公式な評価は一切届かなかった。
選ばれた者と、選ばれなかった者。
その落差に打ちのめされた彼女は、深く傷ついた自尊心を守るために、自力での大学進学という正規のルートに必死にすがりつこうとしている。小学生の妹が毎朝作ってくれるお弁当と励ましだけを支えにして、バンドの練習と受験勉強の間で限界まで身を削っていた。
対する翔子先輩は、大人の用意した甘い誘惑を、あっさりと蹴り飛ばしていた。
「私だけ先に東京に行くなんて、できないわよ。麻耶たち一年生が卒業するまで、ハトプリは今の五人でやるの」
彼女は俺にそう言い放ち、地元の山口県立大学を受験して『仮面学生』として一年間山口に留まるという、極めて強引な決断を下していた。後輩たち全員を引き連れてデビューするための、情に厚い彼女らしい選択だ。
そして、薫や勝たち『beat less』の男陣に至っては、受験勉強など端から眼中にない。ノートの代わりにギターを抱え、ただひたすらに自分の音を研ぎ澄ますことだけを考えている。
それぞれが進路の選択を迫られ、部室のパワーバランスがいびつに歪みかけていた。
俺は学生カバンを置き、智ちゃんの隣に立った。
「……アキラくん」
智ちゃんが、疲労の滲む顔を上げる。
「俺が戻りました」
俺は彼女の手元にあった会員名簿の管理ファイルと、貸倉庫の書類を引き寄せた。
「これからの実務や裏方の作業は、すべて俺が引き受けます。……智ちゃんは、ハトプリのキーボードと、自分の受験勉強だけに専念してください」
「……でも、私……」
「大人の評価など気にする必要はありません。あなたには、自分の力で結果を出せるはずだ」
俺が告げると、智ちゃんは少しだけ目を見開き、やがてギュッと唇を噛み締めて深く頷いた。
長机の反対側から、薫がこちらを見ているのが分かった。
俺は書類を持ち上げ、薫の方へ向けた。
「これも、引き受けます。……先に言っておきます」
薫は何も言わず、片手を上げて振った。
行け、という意味だと解釈することにした。
*
そして、三月。
山口の街に春の風が吹き始める頃、一つの時代の終わりが訪れた。
山高の卒業式。かつて大人たちの常識を覆し、俺たちの先陣を切ってくれた『クィーン・オブ・ハーツ』の井川京子たちが、制服を脱ぐ日だ。
体育館の裏で、花束を抱えた京子先輩が俺たちに向かって笑った。
「あとは頼んだわよ、あんたたち。……私たちは、東京と大阪で普通の女子大生をやるから」
「ええ。今まで最高の先陣を切っていただき、ありがとうございました」
俺が短く頭を下げると、京子先輩は呆れたように笑い、勝や翔子たちとハイタッチを交わした。
最後に、京子先輩は薫の前に立った。
二人の間に、他のメンバーとは違う、少しだけ特別な空気が流れる。
「……薫くん」
京子先輩が少しだけ背伸びをして、薫の耳元で何かを囁いた。
薫は一瞬目を丸くし、そして耳まで真っ赤にして「お、おう。絶対行くから、待ってろ」と柄にもなく声を上ずらせた。
彼女たちはもう、ステージの上でギターをかき鳴らすことはないだろう。だが、彼女たちがこの街に刻み込んだ熱量は、確実に後輩たちへと引き継がれている。
先輩たちの背中を見送った後、智ちゃんが俺の隣に並び、面白そうにくすくすと笑った。
「ねえ、さっき京子先輩、薫くんに何て言ったか知ってる?」
「……推測はつきますが」
「『東京で、待ってるからね』だって。……薫くん、これで来年、絶対に東京に行かなきゃいけなくなったね」
俺は口元を緩めた。
先日の大人の罠でプライドを傷つけられ、行き場を失いかけていたフロントマンの心に、これ以上ないほど強力で確実なモチベーションが撃ち込まれたのだ。
そして今度は、俺が用意したものではない。
先輩たちを見送る智ちゃんの瞳には、もう迷いはなかった。
自分たちも、自力であの先へ進む。
TMFから名称を変えた新たなコンテスト『Music Revolution』での全国制覇、そして、自分の力で東京の大学への切符を掴み取るという、途方もない目標に向けて。
俺たちの音楽史を塗り替える戦いは、いよいよ高校生としての最終局面へと突入しようとしていた。
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