第119話:空白の証拠と、最も危険な盾
数日後。水上塾の近くの喫茶店で俺と落ち合ったなおの顔には、隠しきれない疲労と苛立ちが張り付いていた。
「……ダメだったわ」
なおは冷めたコーヒーカップを両手で包み込みながら、重い口を開いた。
「財団の伝手で、倉田の会社の登記と、過去に似たような契約でトラブルになった事例を調べてもらったの。……それで、探りを入れがてら一度連絡を入れてみたんだけど、相手は完全に詐欺のプロよ。私が財団の人間だと名乗っても、鼻で笑われたわ。『未成年とはいえ、リーダーが自分の意志でサインした。キャンセルするなら、規定通り違約金を払ってもらう』の一点張り」
「控えの提示は?」
「『親御さんから直接言われない限り、部外者には出せない』って突っぱねられたわ。……おまけに」
なおがギリッと奥歯を噛み締める。
「『これ以上首を突っ込むなら、違約金の請求書を彼らの通う学校宛てに送る』って脅してきたのよ」
俺は表情筋を動かさず、静かに息を吸い込んだ。
相手は、未成年の高校生が何を一番恐れているかを完全に理解している。
中途半端な大人の介入では、逆に相手の自爆スイッチを押しかねない。
相手の狙いは最初から「親や学校にバレることを恐れる高校生からの恐喝」なのだ。
「ごめんなさい、アキラ。私の力じゃ、あいつらの壁を壊せなかった」
なおが悔しそうに俯く。
俺は静かに首を振った。
「なおさんのせいじゃありません。相手が、高校生という俺たちの『立場上の弱点』を完璧に握っているからです」
相手の脅しを完全に無力化し、かつ法的に相手を即死させるには、もはや小手先の手段は通用しない。
相手が絶対に逆らえない公的な権力。
そして、この契約の当事者として直接介入できる『親権者』のカード。
「……仕方ありません。一番切りたくなかったカードを切ります」
俺が冷たいコーヒーを喉に流し込んで立ち上がると、なおがハッとして顔を上げた。
「一番切りたくないって……まさか、あんたの……」
「ええ」
俺は短く頷いた。
「この盤面をノーダメージで制圧するには、社会のシステムを知り尽くした、一番身近で一番厄介な大人をぶつけるしかありませんから」
◆◆◆
午後十時。二条家のリビング。
風呂から上がり、缶ビールを開けていた父・真の前に、俺は静かに座った。
「……こんな時間に、なんだ」
父が怪訝そうに眉をひそめる。
俺は表情筋を一切動かさず、頭の中で組み上げた嘘の設計図を淡々と並べ始めた。
「父さん。僕たちのバンドが、ネット上でファンクラブのようなものを持っているのは知っていますよね」
「……ああ、噂程度には聞いている。会費は取っていないんだったな」
「ええ。ですが、その活動に、東京から入り込んできた怪しい業者が目をつけ、参加している学生たちから金銭を騙し取ろうとしているんです」
「音楽関係のプロモーターを名乗る男が、言葉巧みに未成年の学生を誘導し、スタジオの仮登録と称して無理やり契約書にサインをさせました。しかも、その控えのコピーすら一切渡さずに持ち去ったんです」
薫という個人の浅はかな自尊心を隠蔽し、事態を『素人の音楽活動を狙った、悪質な外部からの詐欺行為』へと完全にすり替える。
父の瞳に、県庁の役人としての確かな怒りと、秩序を重んじる公務員としての苛立ちが静かに燃え上がるのが分かった。
「……控えすら渡さないだと。特定商取引法にも抵触する、三流の詐欺だな。まったく、少しでも目立つ活動をすれば、すぐにそういった浅ましい輩が寄ってくる」
父は忌々しげに鼻を鳴らし、腕を組んだ。
「お前は、その書類にサインはしていないんだな?」
「はい。ですが、活動の継続に深刻な影響が出かねません。……相手が法外な違約金を吹っかけて脅してきた場合、僕たち学生だけではどう対応していいか」
俺が丁寧なトーンで助けを求めると、父は一つ深く頷いた。
「相手の会社名と連絡先は分かるな」
父の低い声には、確かな圧が宿っていた。
「……橘君の親御さんの連絡先を教えなさい。私から事情を説明し、委任状を書かせる。未成年者が法定代理人の同意なく結んだ契約は、法律上いつでも取り消せる。その上で、消費生活センターと弁護士会を通じて正式な法的措置を取ると、書面で通告してやる。未成年を食い物にする三流詐欺師など、一瞬で怯むさ」
完璧な解決策だった。
どれだけ海千山千の悪徳業者であろうと、契約の当事者から委任を受けた代理人――それも、公権力と法令に精通した県庁の役人が直接乗り出してくれば、手元にコピーがなかろうが勝ち目がないことなど瞬時に悟るはずだ。
「……ありがとうございます、父さん。助かります」
俺が深く頭を下げた、その時だった。
「この件は、私が処理してやる。だが、アキラ」
父の静かな声が、頭上から降ってきた。
俺は無意識に肩を強張らせた。
どんな理不尽な成績の条件が飛んでくるか、脳内で超高速の計算を巡らせる。
「お前は十分に賢い。今回の件で、自分の足を踏み入れた場所がどれほど危うい泥沼か、理解したはずだ」
「……」
父の眼光が、真っ直ぐに俺を射抜く。
「私は、お前が自ら、確実で堅実な道を選ぶと信じているよ」
その言葉に、俺の心臓は冷たく跳ねた。
点数や順位といった明確なペナルティを提示される方が、よほど気が楽だった。
父が突きつけてきたのは、計算や打算の一切通じない無言の期待だ。
「自ら堅実な道を選ぶと信じている」。
この絶対的な信頼を裏切れば、俺は親子の関係性ごと、この家におけるすべての居場所を失うことになる。
俺は、自らの首に絶対に外せない重い鎖を巻かれた事実を噛み締めながら、ただ無言で深く頭を下げることしかできなかった。




