第118話:聖夜の裏話と、沈黙のテーブル
期末考査の総合順位は『十六位』だった。
親父から突きつけられた「十五位以内」という絶対条件に、わずか一点届かなかった。
結果として、俺の放課後の軽音部室への出入り禁止措置は継続となった。
だが、「クラスメイトとの健全なクリスマス会」という名目の外出まで禁じることは、公務員である親父の世間体と教育方針が許さなかったようだ。
十二月二十四日。
麻耶の家の広いリビングには、クリスマスツリーの眩い電飾と、オードブルの並んだ大きなテーブルが用意されていた。
集まったのは『beat less』と『ハトプリ』のメンバー、そして大人の監視役兼「打ち上げ」という名目で呼ばれた財団の木村なおだ。
『ワイルド・カード』の男子たちは気を遣ったのか、「俺たちは男だけで焼肉食いに行くんで」と早々に辞退していた。
「アキラ、あのLet It Beの動画、また伸びてるぞ」
紙コップのコーラを片手に、博士が笑いながら話しかけてきた。
「ええ。見ました」
俺が淡々と答えると、博士は声を潜めてニヤリと笑った。
「実はよ、あの動画、公開する前に一回、事故ってたんだぜ」
「……ほう」
「編集終わって、志村さんのサーバーに上げようとしたら、容量オーバーで弾かれたんだ。んで、尾田先輩が焦って画質落として再エンコードしてる間に、誰かが『まだ見れない』って掲示板に書き込んじまって」
「なるほど」
「そしたらそれ見た連中が『幻の映像』とか勝手に言い出して、公開する前から変な期待値が跳ね上がっちまってな。実際に上がった時には、初日だけで登録者の半分近くがアクセスしてサーバーが落ちかけた」
博士は、たまらないといった様子で肩を揺らした。
「大人の都合で隠れたわけでもねえのに、勝手に伝説になっちまうんだから、面白いもんだよな」
俺は紙コップに口をつけ、静かに頷いた。
俺の不在の間に完成した映像が、誰の作為もなく、勝手に神話化していく。
設計しなくても、飢餓感というものは、放っておけば自分で育つものらしい。
「アキラくん、これ、すごく美味しいよ。はい、あーん」
不意に、左隣に座っていた麻耶が、唐揚げを刺したフォークを無邪気な笑顔で差し出してきた。
「……自分で食べますよ」
俺がフォークを受け取ろうと手を伸ばす。
いつもなら、ここで右隣に座る智子が「ちょっと麻耶、ずるいよ」と対抗して割って入ってくるはずだ。
だが、今日の彼女はやけにおとなしい。
自分の膝の上で両手を固く握りしめ、心ここにあらずといった様子で俯いている。
時折、何か重いものを抱え込んでいるように、苦しげに視線を泳がせていた。
(……どうした?)
俺がわずかな違和感を覚え、彼女の方を見遣ろうとした、その瞬間だった。
「……高校生は、元気でいいわね」
テーブルを挟んだ真正面。
木村なおが、ノンアルコールのグラスをゆっくりと揺らしながら、氷のような視線をこちらに向けていた。
その瞳の奥には、八階のマンションの一室で、この男が自分に向けて歌い、そのまま何事もなく帰っていった夜の記憶があった。あの夜のものを、彼女は一人で持ち帰らされている。
右におとなしすぎる智子。
左に無邪気な麻耶。
正面になお。
見事なまでの包囲網だった。
少しでも視線や対応を間違えれば、この賑やかなクリスマス会は一瞬にして凍りつく。
俺は表情筋を一切動かさず、ただ無言で手元のグラスに口をつけた。
弁解も愛想笑いも、今の盤面では命取りになる。
ただ沈黙という絶対的な盾で、女たちの静かな牽制をやり過ごすしかなかった。
「……ふふっ」
少し離れた席から、微かな笑い声が聞こえた。
視線をやると、ハトプリのベースである翔子先輩が、グラスに口をつけながら面白そうにこちらを観察していた。
勘の鋭い彼女は、このテーブルの上で交錯している不可視の火花と、なおの俺に向ける視線が「ただの仕事相手」のものではないことに、すでに気づいているようだった。
翔子先輩は俺と目が合うと、からかうように小さく肩をすくめてみせた。
部屋の隅では、薫や勝たちがプレゼント交換でくだらない騒ぎを起こしている。
成績による足止めという現実と、制御不能になりつつあるメンバーたち。
そして、この狭いテーブルで繰り広げられる静かな神経戦。
俺は冷徹な観察者の視点に徹しながら、この奇妙な聖夜の喧騒の中に身を沈めていた。
◆◆◆
パーティーはお開きとなり、冷たい夜の空気が張り詰める玄関前で、メンバーたちはそれぞれ帰路につこうとしていた。
「じゃあなアキラ。……せいぜい、勉強頑張れよ」
薫が上機嫌で手を振る。
部室に入れない俺への嫌味にしては、機嫌が良すぎた。この一週間、ずっとそうだ。
何かを抱えている人間の顔ではない。何かを抱えていると気づかれたがっている人間の顔だった。
俺は短く頷き、自転車の鍵を取り出した。
駐車場では、木村なおが車のエンジンをかけている。
その時、背後からコートの袖を弱々しく引かれた。
「……アキラくん」
振り返ると、智ちゃんがコートの裾を固く握りしめ、泣きそうな顔で立っていた。
一人で数日間も重い秘密を抱え込み、限界まで張り詰めていたのだろう。
彼女は俺を見た後、少し離れた車のドアを開けようとしていたなおの方へ、すがるような視線を向けた。
「なおさんも……お願い。聞いてほしいの」
そのただならぬ切迫感に、なおは車の鍵を回す手を止め、静かにこちらへ歩み寄ってきた。
「どうしたの、智子ちゃん」
なおが声を落として尋ねると、智ちゃんは周囲のメンバーが遠ざかったのを確認し、震える声で絞り出した。
「一週間前……薫くんの携帯に、東京のプロモーターの人から直接連絡があって……」
智ちゃんは言葉を詰まらせ、俯いた。
「薫くん、アキラくんを驚かせるんだって、内緒にするように言ってた。これで東京に行けるって、すごく嬉しそうだったから……言えなかった。でも……やっぱり、おかしいの」
俺と、隣に立つなおは、表情筋を一切動かさず、彼女の紡ぐ言葉を一つ一つ脳内で処理していった。
春休みに東京のスタジオを押さえるという話。
そして、薫がその仮登録書に、俺たちに相談することなく一人でサインしてしまったこと。
「……薫くん、私たちを東京に連れて行くんだって、すごく張り切ってて。でも、あの大人、絶対に目が笑ってなかった。私、怖くて……」
智ちゃんがポロポロと涙をこぼす。
俺は冷たい夜気を深く吸い込んだ。
智ちゃんが知っているのは、断片だけだ。仮登録書の中身も、金額も、条項も、誰も見ていない。
だが、わざわざ山口まで足を運んできた大人が、未成年のリーダーに何の代償も求めずサインさせるはずがない。
違約金なのか、原盤権の一部なのか、それとも別の何かか――形が見えない分だけ、悪い方にいくらでも想像がついた。
薫の真っ直ぐな自尊心が、大人の差し出した何かに絡め取られている。それだけは、確かだった。
「……ネットの噂だけで、山口くんだりまで足を運んできたってこと」
隣で、なおがギリッと奥歯を噛み締める音がした。
彼女の顔には、六千人という数字が、良い意味でも悪い意味でも、もう外の世界から丸見えになっているという事実への、苦い自覚が浮かんでいた。
なおは智ちゃんの肩を優しく抱き寄せ、真っ直ぐな目で告げた。
「智子ちゃん。話してくれてありがとう。……こんな連中に目をつけられるなんて、本当にごめんなさい。この話は、私が責任を持って潰すわ」
「……泣かないでください、智ちゃん。今教えてくれて助かりました」
俺も冷徹に思考のギアを切り替え、平坦な声で告げた。
「明日、俺たちが動きます。薫先輩たちには、俺たちが知っていることは絶対に内緒にしておいてください」
大人の謝罪と俺の言葉に、智ちゃんは少しだけ安堵したように涙を拭い、小さく頷いた。
彼女を見送った後、俺は隣に立つ実務のパートナーへ視線を向けた。
なおは腕を組み、夜の闇を睨みつけながら低く吐き捨てた。
「未成年を騙すような真似、絶対に許さない。……アキラ、どうするの」
相手は、社会のシステムを悪用して高校生を絡め取ろうとする詐欺師だ。
「……木村さん。仮登録書の書式、心当たりはありますか」
俺は静かに口角を上げ、実務家の目をした彼女を見据えた。
「東京の芸能プロダクションが未成年に持ちかける契約なら、財団の伝手で似た事例を調べられるはずです。まず、相手が何を握っているのかを、正確に把握します」




