第116話:段取りのない三日と、止められない四分間
十一月。
実力考査の総合順位が目標に届かず、俺は放課後の部室への出入りを、実質的に禁じられていた。ベースも取り上げられたままだ。三学期の中間考査まで、まだ二ヶ月以上ある。
放課後の時間はすべて水上塾の自習室に吸い取られ、部室で何が起きているかは、週に一度、廊下ですれ違うなおから断片的に聞かされるだけだった。
「撮ったわよ、あの子たち」
十一月の終わり、そう言われた。
「何をですか」
「新しいMV。『Let It Be』」
俺は足を止めた。beat lessのレパートリーの中で、一度も映像化していない一曲だった。
「誰の企画ですか」
「薫くん。曲を選んだのも、蔵で撮るって決めたのも、あの子」
「歌も、薫先輩ですか」
「ううん。智子ちゃん。薫くんが自分から振ったのよ」
俺は次の質問を用意していた。尺は。構成は。編集は誰が。
だが、なおはそれを遮るように言った。
「もう上がってる。……自分で見なさい」
* * *
その夜、俺は居間のパソコンの前に座った。
十一時を回っていた。参考書は開いたまま、伏せて机に置いてある。
再生数の欄には、すでに四桁の数字が並んでいた。俺以外の全員が、先に見終えている。
再生ボタンを押した。
――タイトルがない。
それが最初に気づいたことだった。俺が設計した白黒の一本には、冒頭に三秒の黒みと、白抜きのバンド名を置いてある。今度のものには、それがない。押した瞬間から、もう蔵の中が映っている。
土壁。太い梁。高い位置の小窓から、冬の午後の光が一本だけ斜めに差し込み、その帯の中で埃が回っている。
蔵の隅に、古い縦型のピアノが据えてあった。運び込んだものではない。最初からそこにあったものだ。薫がこの場所を選んだ理由が、それでわかった。
四人は、円になっていた。カメラの方を向いている人間が、一人もいない。
智ちゃんが、そのピアノの前に座っている。
最初の和音が置かれた。
――狂っている。
三度の音が、わずかに低い。何年も調律されていない。俺なら、撮影の前に人を呼ぶ。
だが、その濁りは伸びなかった。土壁が音を吸い、和音は置かれた場所で短く死ぬ。蔵は、何も返してこない。
二つ目。三つ目。
四つの和音が、ゆっくり回りはじめた。主和音から出て、一度だけ翳り、また戻る。讃美歌の運動だ。速くもならず、遅くもならない。
歌い出したのは、智ちゃんだった。
タン、タタ。タン、タタ。
拍の頭から、半歩遅れて言葉が置かれる。追いつこうとしない。和音が先に鳴って、そのあとから声が乗る。ずっと後ろにいる。
俯いたまま、鍵盤の上の自分の指を見ている。一度もレンズを見ない。
薫は、その斜め後ろにいた。ギターを鳴らしているだけで、口を開かない。
――前に出ていない。
バンドの絶対的な中心が、自分から円の後ろに下がっている。俺がいた頃には、一度もなかったことだ。
一番が終わるまで、鳴っているのはピアノと声だけだった。
ドラムが入らない。ベースも入らない。
――遅い。
俺なら四小節目で入れる。この空白は長すぎる。聴き手が離れる。
二番の頭で、博士のブラシが動いた。
スティックではない。スネアの上を撫でるだけの、輪郭のない音。拍を刻むというより、床を掃いている。
その二拍あとに、勝のベースが入った。
俺のパートだ。だが、俺の弾き方ではなかった。装飾を全部捨て、根音だけを置いている。跳ねない。ためない。歌の下に、ただ敷いてある。
蔵の中が、埋まった。
音量はほとんど変わっていない。増えたのは、密度だけだ。
タン、タタ。タン、タタ。タンター、タン。
同じ形が、四回、繰り返される。
*
間奏で、薫のギターが鳴った。
一音目から歪んでいる。讃美歌の上を、真上から裂いた。
長くない。八小節ほどだ。だが、それまで一言も発していなかった男が、そこで初めて喋った。歌を智ちゃんに渡した理由が、その八小節でわかる。
薫は、歌わなかったのではない。歌う場所を、後ろにずらしただけだ。
弾き終えると、彼はまた口を閉じた。ピアノが、何事もなかったように四つの和音へ戻る。
三番の途中で、勝が一拍早く入った。
根音が半分だけ違う場所に落ち、和音が一小節ぶん濁った。
誰も止めない。薫が顔を上げて、短く笑った。智ちゃんは歌をやめなかった。カメラは、その笑いを正面から拾ったまま動かなかった。
濁りは、次の小節で勝手に解けた。
*
最後の和音が置かれた。
狂った三度が、また濁って、土壁に吸われて消えた。
誰も動かない。四秒近く、蔵の中が映り続ける。博士がスティックを膝に置く、木の音。
暗転。
ロゴも、クレジットも、次回予告もなく、映像は終わった。
* * *
俺は、すぐに直しはじめた。
一番からドラムを入れるべきだ。ベースの根音は三箇所動かせる。ピアノは調律すべきだった。冒頭は八秒削れる。勝のミスは残すべきではない。最後の四秒は、聴き手を待たせすぎる。
そこまで数えて、気づいた。
停止ボタンに、一度も手を伸ばしていない。
四分と十二秒。俺は、最後まで聴いていた。
もう一度、再生した。
前世で、俺は何百本もの録音に立ち会った。譜面を書き、音を整え、他人の演奏を正しくした。俺の仕事は正しかった。正しくないものは、俺が直した。それで金をもらっていた。
だが、誰かが停止ボタンに手を伸ばせなくなるようなものを、俺は一本も作っていない。
三度目に、智ちゃんの左手に気づいた。
二小節目の低音が、わずかに遅れて置かれている。譜面のとおりではない。二拍目の裏まで待ってから、指が落ちる。
そのわずかな遅れが、四つの和音に呼吸を作っていた。
ヘルプで鍵盤に座らされただけの、受験勉強で手が鈍っているはずの指が、誰にも教わっていない場所に音を落としている。
――これは、直してはいけないやつだ。
そう思った自分に、俺は少し驚いた。
* * *
画面を閉じ、伏せていた参考書を起こした。
十五位以内。取り戻さなければならない数字は、まだ目の前にある。化学の演習が三十問、手つかずで残っている。
だが、シャープペンを握った手が、しばらく動かなかった。
耳の奥で、まだ四つの和音が回っている。
俺のいない三日間に、彼らは俺が用意していなかった選択肢を選んでいた。段取りを決めない、という選択肢を。
俺なら、絶対に選ばなかった。
商い・演奏・設計——すべてにおいて。
そして俺は、それを直したいと、一度も思わなかった。
――それが、いちばん、堪えた。
明日はイレギュラーな投稿になります 9:00 12:00 19:00
の投稿です。よろしくお願いします。
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