第115話:不協和音と、大人の担保
放課後の軽音部室。アンプから、異常なスピードで刻まれるベースの重低音が冷たく響き続けていた。
俺はパイプ椅子に深く腰掛け、自身のヘフナー・ヴァイオリンベースで、機械のように正確で無機質なスケール練習を一心不乱に繰り返していた。
「ア、アキラくん……今日のベース、なんか怖いね……」
少し離れた場所から、智ちゃんや麻耶たち一年生の女子部員たちが集まり、おずおずとこちらを見つめている。
ガチャリと防音扉が開き、薫や勝、博士が部室に入ってきた。
「おいアキラ、なんだその殺気立った音は。どうしたんだよ」
薫が怪訝な顔で歩み寄ってくる。俺はアンプのボリュームを絞り、静かにベースをスタンドに置いた。
「……いえ、なんでもありません。今日はこれで帰ります」
俺は学生カバンを持ち、立ち上がった。
「じゃあな」
「おい、もう帰るのかよ」
「ええ。今日は父と交渉があり、家で準備がありますから」
「……なんだそれ」
怪訝な顔をする薫たちを背に、俺は部室を後にした。二十二位という現実と、これから始まる父親との交渉。今の俺の腹の底に溜まった鬱屈は、感情を排した機械的な反復練習でしか誤魔化すことができなかった。
家に帰り、俺は自室で机の周りの整理を行っていた。
「おにい。実力テスト、どうだった?」
部屋のドアが開き、妹のさやがひょっこりと顔を覗かせた。
「……」
俺が無言で手を止めると、さやは不審そうに部屋の中へ入ってくる。
「どうしちゃったの」
「……二十二位だ」
「えっ、じゃあバンドできなくなっちゃうじゃん。どうすんの」
さやが慌てたように声を上げる。
「やめないでよ」
「やめないでと言われてもな。俺には決められん。父さんが許してくれるとも思えんしな」
俺が淡々と返すと、さやは真剣な顔で提案してきた。
「ねえ、お母さんに頼んでみたら? きっとお父さんに言ってくれるよ」
「……まあ、そうかもな」
母は家庭内でも比較的自由人で、理解がある方だ。だが、理詰めを重んじる父を説得できるとは思えない。夏に『二十位以内』という条件を自ら持ち出し、それを破ったのは俺自身なのだ。
「母さんには一応事情は話す。バンド全体の話になるし、迷惑がかかるからな」
「そうだねぇ。でも、お母さんならお父さんを説得してくれそうだけどなぁ」
「お前のことならな。俺のことは難しいかも」
「なんで」
「そりゃ、可愛い娘には甘くなるからさ」
俺が静かに言うと、さやは目を瞬かせ、少しだけ頬を赤くした。
「可愛い……初めておにいに言われたよ」
さやは照れくさそうに笑い、力強く言葉を継いだ。
「私も、友花や智美も応援してるんだから。メジャーデビューしてよね」
「ああ。……交渉、頑張るよ」
俺は短く答え、静かに頷いた。
十八時。母が仕事から帰宅した。
買い物袋からは長ネギや豆腐などが覗いている。俺はそれらを取り出し、無言で冷蔵庫へ入れていった。
「母さん。実力テストの結果が返ってきた」
「どうだった?」
「……それが、二十二位で」
母は手を止め、少し心配そうな目を向けた。
「あら。お父さんとの約束があったわね、どうするの」
「まあ、お願いするしかないんだけど」
「そうねぇ」
「今日、お父さんの帰りは九時過ぎるって言ってたから、先に食べましょう」
俺が告げると、母は静かに首を振った。
「帰って早々に言うんじゃないわよ。父さんも仕事で疲れてるんだから。お風呂に入って、食事の前に話しなさい。お酒が入ると長引くからね」
「……ありがとう、母さん」
家庭内の力学を知り尽くした母の助言は、交渉のタイミングとして極めて正しい。俺は短く礼を言った。
九時過ぎ。玄関のドアが開き、父が帰宅した。
いつものように自室に荷物を置き、風呂へ向かう。
やがて風呂から上がり、さっぱりとした部屋着姿の父がリビングに現れた。俺はタイミングを見計らい、声をかけた。
「父さん。話があるんだ」
「なんだ」
「この前の、実力テストのこと」
「どうした」
「……今回、二十二位だった」
俺が告げると、父はタオルで首元を拭く手を止め、冷ややかな視線を向けた。
「……そうか。では、約束通りバンドはなしだな。楽器も預かろう」
俺は、あらかじめ自室から持って降りていたヘフナー・ヴァイオリンベースの入ったハードケースを持ち上げ、父へ静かに差し渡した。言い訳は一切しない。
「……」
父はハードケースを受け取り、値踏みするように俺を見つめた。すがりついてくると思っていた息子が、あっさりと楽器を手放したことに僅かな戸惑いを見せている。
俺は父の目を真っ直ぐに見据え、なおさんから授かった『大人のロジック』を、自らの退路を断つカードとして切った。
「今回、俺は約束を破りました。ですが、次のテストでは『十五位以内』に入ります。……その時、このベースを返してください」
自らハードルを跳ね上げた俺の先制攻撃に、父の眉間がわずかに動いた。
「……夏に十五位と言ったのを、お前が二十位に値切ったのだろう。それを今度は自分から十五位にすると言うのか」
「ええ。失った信用を取り戻すための、俺からの担保です」
静寂が降りたリビング。
父は数秒間、じっと沈黙を保った後、短く告げた。
「……考えておこう」
明確な『イエス』は与えない。保留という名の強烈なプレッシャー。だが、俺は自ら高い代償を提示することで、完全に閉ざされかけた交渉のテーブルに父を引き戻すことには成功したのだ。




