第114話:二十二位の現実と、十五位の対価
夜の八時過ぎ。
駅通りの水上塾を抜け出してきた俺は、近くのコンビニの駐車場で、十一月の風に吹かれていた。
自販機の横の暗がり。仕事終わりの私服で現れたなおに、俺は二つ折りにした成績表を差し出した。
なおが不審そうに受け取り、開く。学年総合順位の欄に印字された『二十二位』。そして、五十点に届いていない化学の点数。
「……なにこれ」
「俺の、十一月の実力考査の成績です」
俺は缶コーヒーを両手で包んだまま、事実だけを並べた。
「夏休みの終わりに、親父と約束したんです。学年で二十位以内に入り続けることを条件に、軽音部での活動を黙認してもらうと。……ですが、名簿の管理とYCAMへの届け出周りに時間を割きすぎました。暗記で済む社会も、経験が効く現代文や英語も、点は落ちていません。化学だけです。あれは演習量がそのまま点数になるので、削った分が、そのまま出ました」
俺は顔を上げた。
「これを親父に見せれば、アウトです。ベースを取り上げられるだけじゃない。部室への出入りを禁じられます。……俺が部室に入れなくなれば、六千枚も、サーバーも、届け出も、全部が止まる」
六千人分のファンクラブを運営基盤に乗せ、市役所の課長に話を通し、なおと組んで貸倉庫に覚書まで作った。その全部が、化学の四十点台で止まる。
なおは成績表と俺の顔を交互に見比べ、やがて肩を震わせ始めた。
「……っ、ふふ、あははははっ!」
口元を手で覆い、遠慮のない声で笑い出した。財団の窓口で見せる実務家の顔ではなかった。
「笑い事じゃありませんよ」
「だって、あんた……っ」
なおは目尻を指で拭いながら、成績表をひらひらと振った。
「商工会議所の職員や、市役所の課長を掌で転がしておいて……。親に怒られるのが怖くて、成績表を隠したまま、夜のコンビニで私に泣きついてるのよ? あんた、本当にバカじゃないの」
反論する言葉がなかった。俺はコーヒーを喉に流し込んだ。
* * *
「……で」
ひとしきり笑い終えたなおは、姿勢を戻した。
「大人の世界をハックする天才くんは、親父さんに何を出すつもりなの」
「……夏に条件を決める時、親父は最初『十五位以内』と言いました。それを交渉して『二十位以内』に下げさせています」
俺は頭の中で組んでいた筋道を口にした。
「つまり親父の論理の底には、『二十位以内にいる限りは許す』という前提がある。今回は二つ超えました。次で確実に二十位に戻すと確約して、そのための学習計画を出す。……筋は通るはずです」
「それ、通らないわよ」
なおは即座に切った。
「どうしてですか」
「あんたは一度、約束を割った側でしょ。割った人間が『次は元に戻します』って言っても、それは元に戻すだけ。こっちは何ももらってないの」
なおは成績表を四つ折りにした。
「一度落とした信用を買い直すなら、自分から値段を上げるしかないのよ。……次は十五位に入る、って言いなさい」
「えっ、十五位……?」
想定していなかった数字に、言葉が詰まった。
「……それは、無理があります。ここは山高です。俺の上にいる連中は、暗記やパズルで抜ける相手じゃない。頭の作りが違うんだ」
* * *
「二十二位のあんたも、十分すごいわよ」
なおは四つ折りの成績表を、俺の胸に押し付けた。
それから、少しだけ背伸びをするようにして、俺の顔を覗き込んだ。缶コーヒーを持つ俺の手の甲に、冷たい指先が触れる。
「――十五位になったら、付き合ってあげる」
自販機の駆動音が、やけに大きく聞こえた。
「……本当ですか」
自分でも、間の抜けた声が出たと思った。
なおは吹き出した。指を離し、コートのポケットに両手を突っ込む。
「さあ。どうかしらね」
「木村さん」
「なに」
「……冗談ですよね」
「あんたが十五位に入ってから訊きなさいよ」
なおは背を向け、車の方へ歩いていった。テールランプが駐車場を出て、駅通りの光の列に紛れて見えなくなる。
* * *
自転車を漕ぎながら、俺は頭の中で日数を数えていた。
次の考査まで、およそ八週間。化学の演習量を三倍にするには、部室に割いている時間を週に四時間削るしかない。志村とのやり取りは智ちゃんに回せる。倉庫の件は年内に動かない。大村ディレクターの件だけは、俺が出るしかない――
――計算を、始めている。
俺は一度だけ、ペダルを踏む足を止めた。
十一月の夜気が、首筋を撫でていく。
三十五年生きた頭が、二十二位から十五位までの七つ分を、どう埋めるかを本気で組み立てていた。




