閑話:都合のいいガキ
財団の事務室に、蛍光灯の音だけが響いていた。
九時を過ぎて、他の職員はもう誰もいない。なおは、机に広げたファンクラブ登録システムの仕様書を睨みながら、赤ペンで一つ一つ、チェックを入れていた。
六千人分のメールアドレス。WEBフォームの発注。サーバーの空き容量の確認。どれも、財団の本来の業務とは、何の関係もない仕事だった。
「……本当に、大人を都合よく使うガキ」
誰もいない部屋で、なおは、独り言をこぼした。
* * *
思い出すのは、二週間前のことだった。
あの夜、なおの方から、確認したいことがあると言って、あの子を、自宅マンションへ連れて行った。
押入れの奥で埃をかぶっていた、学生時代のアコースティックギター。売り損ねた一本を、なおは、居間のソファの前まで運んで、あの子の前に置いた。
「一曲、弾いてみせなさい。それで納得するから」
独学だと言い張る音楽の出所を、確かめたかっただけだ。それだけの用件だった。
あの子は、迷わず、ケースを開けた。狂ったチューニングを、指先だけで、正確なピッチに合わせていった。その手つきに、なおは、最初、少し驚いた。
弾き出された曲は、聴いたことのない旋律だった。
なおは、ソファの手前に立ったまま、動けなくなった。
――独学で、書ける代物じゃない。
あの日、そう確信した。今も、その確信は、揺らいでいない。
* * *
問題は、そこから先だった。
あの夜、あれだけのものを見せておいて、あの子が最後に言ったのは、こうだった。
「WEBフォームの件、よろしくお願いしますね」
なおは、あの一言を、今も、忘れられずにいる。
人智を超えた何かを、居間で見せつけておいて、要求するのは、六千人分のファンクラブ登録システムの構築だけ。感傷も、説明も、一切ない。ただ、事務作業の依頼だけを置いて、あの子は、玄関から帰っていった。
――道具として、使われた。
最初は、そう思った。あの演奏は、なおを納得させ、なおの技術と労力を無償で引き出すための、計算された一手だったのではないか。そう疑うだけの根拠は、十分にあった。この子は、校長を丸め込み、市役所の課長にまで頭を下げさせてきた。木村なおという財団職員一人を懐柔するくらい、この子にとっては、造作もないことだろう。
だが、その疑いは、完全には、収まりきらなかった。
もし、計算だけなら。あの一曲を選ぶ必要は、なかったはずだ。もっと簡単な、聴かせるだけで十分な曲は、いくらでもあったろう。それなのに、あの子は、あの曲を弾いた。誰も知らない曲を。この世界に存在しない曲を。
あれは、ただの証明だったのか。それとも、別の意味があったのか。
なおには、判断がつかなかった。
* * *
昼間、財団の窓口業務をこなしている最中に、ふと、あの子のことを考えている自分に気づくことが、増えた。
書類にハンコを押しながら、ここ数日、そういうことが、何度もあった。
あの子は、今頃、学校で何をしているのだろう。塾には行っているのか。ちゃんと、食事はしているのか。――考えたところで、なおに確かめる術はない。だが、考えること自体は、止められなかった。
窓口に来た市民の相談を処理しながら、なおは、自分の思考の脇道に、少し呆れていた。
あの子は、財団にとっての、ただの厄介な案件のはずだった。市の予算を使わせ、大人を巻き込み、危うい橋を平然と渡らせる、危険人物のはずだった。
それが、いつの間にか、業務の合間に、その顔を思い浮かべる相手になっている。
* * *
水上塾の近くのコンビニから、あの子が電話をかけてきたのは、その週の半ばだった。
用件は、いつも通り、事務的なものだった。WEBフォームの進捗確認。ただ、電話を切る前に、なおは、つい、余計な一言を挟んでいた。
「……ちゃんと、寝てるの、あんた」
「寝ています」
「嘘」
短い否定に、あの子は、少し黙った。
「……最近、少し、削っています」
「削りすぎ、禁止」
なおは、そう言って、自分でも、驚いた。それは、財団職員が、担当する案件に向けるべき言葉ではなかった。
電話の向こうで、あの子が、小さく、笑ったような気配があった。
「善処します」
電話を切ったあと、なおは、しばらく、受話器を見ていた。
――なんで、あんなこと、言ったんだろう。
六千人のファンの誰にも、あの子は、こんな言葉をかけられる立場にいない。守秘義務も、業務の範囲も、とうに超えている。それでも、口が、勝手に、動いた。
* * *
その夜も、こうして、仕様書とメールアドレスの仕分け表を前に、なおは一人、残業をしていた。
自分から申し出た仕事ではない。だが、頼まれれば、断れなかった。あの夜、あの居間で見せられたものが、なおの中で、まだ、処理しきれずにいるからだ。
――便利屋扱いも、いいところね。
赤ペンを置いて、なおは、肩を回した。
あの夜のことを、あの子は、一度も、口にしていない。まるで、なかったことのように、翌日も、その翌日も、同じ調子で、書類の話だけをしにやってくる。
――あんた、あれから一度も、あの夜の話をしないわね。
その一文が、喉元まで、出かかっている。
だが、口にすれば、返ってくる答えは、たぶん、こうだ。
「何の話ですか」
あの子なら、平然と、そう言うだろう。なおが勝手に、何かを気にしている側に見えてしまう。それだけは、避けたかった。
だから、なおは、その質問を、今夜も、飲み込んだ。
* * *
書類の山を、なおは、もう一度、睨んだ。
六千人。二十六人の女子高生。財団の若手職員一人分の残業時間。すべてが、あの子の描いた設計図の上で、正確に動いている。
その設計図の外に、あの夜の演奏だけが、ぽつんと、置かれたままだった。
目的も、意味も、説明されないまま。
なおは、ペンを取り直した。
答えが出るまで、この仕事を、投げ出すつもりはない。実務でどれだけ使われようと、あの一曲の意味が分かるまでは、なおの側にも、退く理由がなかった。
――負けず嫌いなのは、あんただけじゃないのよ。
なおは、小さく、そう独りごちて、次の書類に手を伸ばした。
だが、赤ペンを動かしながらも、頭の隅では、また、あの子のことを考えていた。
次に会うのは、いつだろう。塾の帰りに、寄るだろうか。それとも、また電話だけで済ませるだろうか。
考えても、仕方のないことだった。だが、なおは、その仕方のなさを、今夜も、止めることができなかった。
蛍光灯の音だけが、また、部屋に響いていた。




