閑話:番号と名前
株式会社ナットの事務所は、山口駅から北へ十分ほど歩いた雑居ビルの三階にある。
夜十時。社員は全員帰っていた。志村は自分の席で、黒い画面に白い文字列を流していた。
YCAMの基幹サーバーの保守は、この会社が請けている。その空き領域の一角に、九月から妙なものが同居していた。会員だけが入れる視聴ページ。ダウンロードのリンクを置かず、直リンクを隠したまま、映像だけを吐き出す作り。市会議員と商工会議所を経由して、行政の側から「若者のメディアアート事業」という名前をつけてもらった、極めて形式の整った私設ファンクラブだ。
志村はアクセスログを日付で切り、会員番号ごとに集計するスクリプトを走らせた。定期点検の一環にすぎない。
結果が出た瞬間、手が止まった。
六千の番号のうち、五千九百九十九は一桁か二桁の再生回数だった。
一つだけ、四桁だった。
「……なんだこりゃ」
志村はマグカップに手を伸ばし、コーヒーが冷え切っていることに気づいて、そのまま置いた。
* * *
その番号を、掲示板で検索してみた。何も出なかった。
次に、オークションサイトを開いた。
検索窓に、バンド名を入れる。
出た。
『【超レア】beat less ファンクラブ 視聴ページ ご案内します』
現在の入札額、一万三千五百円。残り時間、二日。入札件数、十一。
説明文には、こう書かれていた。八月に亀山公園で整理券を受け取った本人です。視聴ページのアドレスと、登録に使った番号をお教えします。二度と会員になれない六千人の一人です。よろしくお願いします。
志村は椅子の背にもたれ、天井の蛍光灯を見上げた。
三十年、この土地でネットワークを触ってきた。企業のサーバーが乗っ取られたことも、市の職員が私物のUSBで顧客名簿を持ち出したこともある。だが、高校生の作った仕組みに値段がついているのを見たのは、これが初めてだった。
タバコに火をつける。
仕組みそのものに穴はない。番号と名前の組が紙の上に存在する人間しか登録できないという入口の設計は、彼自身が組んだものだ。だが、いったん中に入った人間が、自分の鍵を他人に貸すことまでは止められない。鍵屋が悪いわけではない。それは、鍵を持つ人間の問題だ。
――だが、この鍵は六千本しかない。
一本が複製されるたびに、六千という数字の意味が薄まっていく。あの高校生が、あれだけ手間をかけて閉じた扉の価値が。
志村はキーボードに手を戻した。
* * *
対策は、すぐに形になった。
視聴ページに入る前に、整理券番号と氏名の入力欄を置く。送信された組を、貸倉庫に眠っている六千枚の紙を写したデータベースと突き合わせる。片方だけでは通らない。この照合は、登録フォームの時点でとっくに実装してある。使い回すだけだ。
そこまでは十五分で書けた。
問題は、その先だった。
番号と名前をまとめて売られたら、どうする。
志村はしばらく画面を見ていた。それから、セッション管理のテーブルを一つ足した。
一つの番号につき、同時に通せるのは一人だけ。誰かが視聴している間、同じ番号での接続は弾かれる。
これで、売買は成立しなくなる。買った側は、売った側が見ている間は入れない。五十人に売れば、五十人が互いを弾き合う。文句は買い手から売り手へ向かう。こちらは何もしなくていい。
志村は満足して、一度伸びをした。
そして、伸びをした姿勢のまま、動きを止めた。
* * *
――ログが残る。
同じ番号で異常な数の接続が試みられれば、それは記録される。番号が分かれば、データベースから名前が引ける。名前が引ければ、住所も引ける。あの箱の中に、本人の字で書かれた紙が一枚ある。
この仕組みを入れるということは、売った人間を必ず特定できるようにするということだ。
志村はタバコを灰皿に押しつけた。
時計を見る。十時四十分。高校生に電話をかける時間ではない。
だが、あの子は出る。
* * *
『……はい』
二回のコールで、声が返ってきた。
「志村だ。夜分にすまん」
『いえ』
「オークションに、お前んとこの会員が出てる。番号とアドレスを売ってるやつがいる」
『そうですか』
驚いた気配がなかった。
「知ってたのか」
『予想はしていました。入札は入っていますか』
「十一件。今のところ一万三千五百円だ」
『思ったより安いですね』
志村は、受話器を持ち直した。
「対策は組める。視聴の前に番号と名前を入れさせて、突き合わせる。それから、一つの番号で同時に一人しか通さないようにする。売っても、売った本人と買ったやつが互いを弾くだけになる」
『それでいきましょう』
即答だった。
「……待て。最後まで聞け」
志村は言葉を選ぼうとして、結局、そのまま言った。
「この仕掛けを入れると、売ったやつが誰か、分かるようになる。同じ番号で異常なアクセスがあれば、ログに残る。番号から名前が引ける。……お前が作らせたデータベースは、そういうものだ」
電話の向こうが、少しの間、無音になった。
道路を走る車の音も、家族の声も、テレビの音も入ってこない。この子はいつも、こういう静かな場所から電話に出る。
『ええ』
「……ええ、じゃない。分かってて言ってるのか」
『はい』
志村は目を閉じた。
「相手は、うちの子供と同じくらいの歳かもしれんぞ」
『かもしれません』
「それで、どうする気だ」
『まだ決めていません』
嘘ではなさそうだった。だが、決めていないというのは、決める権利が自分にあると思っているということでもある。
「……分かった。朝までに入れておく」
『お願いします。……志村さん』
「なんだ」
『ありがとうございます』
電話が切れた。
* * *
実装そのものは、二時間で終わった。
テストを通し、動作を確認し、ログのローテーションを設定する。窓の外が薄く白み始めていた。
最後に、志村は該当する番号のアクセス記録だけを抜き出し、テキストファイルに書き出した。
名前は引かなかった。
引こうと思えば、コマンド一行だった。だが、指を止めた。
ファイルをメールに添付し、本文に一行だけ書いた。
「番号だけ入れておく。名前を引くかどうかは、そっちで決めろ」
送信ボタンを押してから、志村は椅子に深く沈み込んだ。
三十年で、こういう指示を出す人間を何人か見てきた。役所の課長、地銀の部長、建設会社の専務。全員、四十を過ぎていた。全員、部下が何人もいた。
あの子には、部下がいない。バンドの仲間と、財団の事務員と、この老いぼれしかいない。
* * *
木村なおに報告すべきだろうか、と思った。
窓口は彼女だ。財団の名前で立ち会いもしている。伝えるのが筋ではある。
だが、伝えれば彼女はまた一つ、名前を背負うことになる。貸倉庫の覚書に書かせたばかりだ。
志村は携帯電話を手の中で回し、結局、机の上に置いた。
学生の頃に音楽をやっていたらしい、という話を、いつだったか本人から聞いた覚えがある。どこまで本気だったのかは訊かなかった。訊くような雰囲気でもなかった。
その彼女が、あの子を連れてきた。
「……木村ちゃん」
誰もいない事務所で、志村は呟いた。
「とんでもないもん、拾ってきたな」
サーバーは、何事もなかったように動き続けている。
朝の六時。六千人のうちの何人かが、今日から、番号と名前を入力しなければ扉を開けられなくなる。
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