第110話:残響のパルス
九月十六日、土曜の深夜一時。
俺は自室のPCで、匿名掲示板のスレッドをスクロールさせていた。
インディーズ音楽板に乱立する『【白黒】beat less ★17【六千人】』。数字は一週間前より五つ増えている。
301:名無しさん@お腹いっぱい。
知り合いの山口県民に頼んで、アドレス借りて登録してみたけどダメだった
315:名無しさん@お腹いっぱい。
>>301 そりゃそうだろ、紙に書いてある本人のアドレスから送らないと弾かれるんだよ
319:名無しさん@お腹いっぱい。
じゃあ紙に名前書かれてる奴を特定して、そいつのメール乗っ取ればいいのか
322:名無しさん@お腹いっぱい。
>>319 それやったら普通に犯罪だろ、お前
俺は画面から目を離し、椅子の背に体重を預けた。
告知を見た人間が、紙に書いたのと同じアドレスから、自分の名前を送る。その二つが紙の記載と一致した時だけ、登録が通る。
登録できるのは、亀山公園で回収した紙の上に、名前とメールアドレスの組がすでに存在している人間だけだ。存在しない組を、外側から作ることはできない。
そして、他人の名前とアドレスを両方知っていても、それだけでは一件も通せない。そのアドレスの受信箱を持っていなければ、送信そのものができないからだ。
抜け道がないのではなく、抜け道を探した人間が、必ず犯罪の一歩手前まで行き着く。志村の組んだ照合の仕組みは、そういう設計だった。
だが、俺が読みたかったのは、そこではなかった。
スレッドをさらに下へ送る。
418:名無しさん@お腹いっぱい。
八月に山口行った奴、羨ましいとかじゃなくてもう憎い
423:名無しさん@お腹いっぱい。
六千人しかいないってマジ? もう増えないってこと?
427:名無しさん@お腹いっぱい。
>>423 あの日あの会場にいた奴だけらしいぞ。二度と増えない
431:名無しさん@お腹いっぱい。
呪いの紙じゃん。一生増えない六千人の名簿
俺は小さく息を吐いた。
呪いの紙、か。悪くない呼び方だ。
週明けの登校時、校門をくぐる生徒たちの間には、先週とは違う種類のざわめきがあった。
「なあ、お前、亀山公園で登録した?」
「したけど」
「俺の名前でもう一回、あのフォームから登録しといてくんない? 俺、あの日出し忘れちゃってさ」
「無理だろ。紙に名前がある奴しか通らないって聞いたぞ」
「……マジかよ」
俺は無表情のまま、その横を通り過ぎた。
あの日、会場にいて整理券を貼って提出した人間は、それだけで登録の権利を持つ。だが提出しなかった人間には、後から権利を作る方法がない。
彼らは、あの夏の一枚の紙が、二度と作り直せないものだったことを、今週になって知り始めていた。
教室の隅で、MDプレイヤーを囲む男子生徒たちがイヤホンを回し合っている。
「……なあ、昨日の夜、掲示板の職人がストリーミングの音をぶっこ抜いたらしいぞ」
「無理だろ。あれ保存できないようになってるんだから」
「それがよ。誰かがPCの音を直接キャプチャしてMP3に変換したファイルをあげたんだ。今、学内の連中が必死になって自分のMDに転送してる」
俺は教科書の隅に化学の反応式を書き込みながら、その会話を脳内に記録した。
あえて保存できない形で置いた。こじ開けられるためだ。
完全に守るつもりなら、方法はいくらでもあった。だが完全に守られた音は、ただ配られた音になる。手を汚さずに手に入るものを、人は「手に入れた」とは思わない。
それを力技でこじ開け、自分たちの手で複製し、仲間内へ配る。彼らは自分の手を汚した分だけ、その音源を「奪い取ったもの」として扱う。
「……アキラ」
隣の席のともが、イヤホンを片方外して差し出してきた。流れてきたのは、蔵で録った『She Loves You』だった。
「随分クリアだな。どこで手に入れた」
「掲示板の隠しリンク。誰かがノイズ除去してから上げ直してるらしい」
ともは俺の反応を値踏みするように、じっと目を見てくる。
彼らは信じたいのだ。この音が、公式に配られたものではなく、大人の目を盗んで手に入れた禁忌であると。俺が手を離してみせた瞬間から、それには「盗品」という付加価値がつく。
「……広がるのが、早すぎるだろ」
俺は口角をわずかに上げ、イヤホンを受け取った。
その日の放課後、部室に木村なおが来た。
バインダーを脇に抱え、まっすぐ長机の前に立つ。財団の職員としての顔だった。
「二条くん。本田くんから聞いたんだけど、HPの問い合わせに変なのが混じってるんだって?」
「見ましたか」
「見せてもらったわ。……『登録者のアカウントを買いたい』『名簿ごと譲ってくれれば相応の額を出す』。差出人の署名は、聞いたことのない会社名が二つ」
なおは眼鏡の位置を直し、しばらく俺の顔を見ていた。
「志村さんのシステムには、業者は手を出せない。あそこは彼が守ってる」
「ええ」
「問題は、そっちじゃないでしょ」
彼女はバインダーを長机に置いた。
「あの紙、誰のものになってるんだっけ」
なおの視線が、スチール棚の最下段へ向いた。
棚板を湾曲させている、二十四キログラムの段ボール箱。
「その紙が、電子データベースの照合元よね。志村さんのシステムも、全部その箱の中身と突き合わせてる」
「ええ」
「六千人分の名前とメールアドレスと、貼られた整理券番号。……電子の方は志村さんが守ってる。でも、その大元の紙は」
なおは箱を指さした。
「その箱、いくらになると思う」
俺は答えなかった。
答えは、すぐに出ていた。
六千件の、実在が確認された氏名とメールアドレス。しかも属性が揃っている。十代。特定の地方都市の、特定の二日間に足を運んだ人間。買い手にとって、これ以上に狙いを絞りやすい名簿はない。業者が欲しがっているのは、誰かに成り代わるためではない。そのまま売るためだ。
そして、金額よりも重いものが、もう一つある。
まだ登録していない人間にとって、あの紙は唯一の証明だ。箱が消えれば、その権利は二度と復元できない。あれは六千人の個人情報であると同時に、他人の権利の原本だった。
「鍵は」
「職員室の壁に掛かっています。放課後は誰でも借りられます」
「……そう」
なおは一度目を閉じ、それから低く言った。
「二条くん。あの箱、誰が預かってることになってるの」
智ちゃんが同じことを訊いたのは、先週だった。あの時、俺は木村さんに確認すると答えた。
今、その木村さんが俺に訊いている。
「……財団では」
「無理よ」
なおは即座に切った。
「財団の資産台帳に載せる根拠がない。市の事業でもない。YCAMのサーバーは志村さんの名目で通したけど、あれは電子の空き領域だから誰も見に来ないの。物理的なモノは無理。二十四キロの段ボール箱が財団の倉庫に置いてある理由を、誰にどう説明するの」
部室に、防音扉越しの遠い吹奏楽部の音だけが届いていた。
薫たちはまだ来ていない。長机にいるのは、俺と、集計表を握ったまま黙っている智ちゃんと、なおの三人だけだ。
「……アキラくん」
智ちゃんが、小さな声で言った。
「私、毎日、紙とWEBの登録を照合してる。……でも、あの箱、鍵もないし、部室に来る人みんな触れるよね」
彼女は集計表を胸の前で抱えた。
「もし中身が一枚でもなくなっても、誰が触ったのか、誰にも言えないと思う」
俺は棚の方を見た。
軋んだ棚板。荷造り紐。ゴム印の押された六千枚。
あれを作った時、俺が計算していたのは処理の効率だけだった。二十六人に分割し、アルファベット順に並べ、電子化する。二十四キログラムを、システムの一部へ組み替えることだけを考えていた。
組み替えた後、それを誰が守るのかを、俺は一度も考えていない。
「木村さん」
俺は顔を上げた。
「箱を置ける場所を探します」
「場所じゃないわよ」
なおは即座に切り返した。
「置く場所を決める前に、預かる人を決めなさい。……先に人を決めないと、置いた場所の持ち主が勝手に預かった人にされるの。分かる?」
俺は答えられなかった。
週末、俺はなおの車で市内の貸倉庫に向かった。
助手席で、財団の便箋に手書きした短い文面を読み返す。「保管委託に関する覚書」とだけ書いた一枚だ。日付、箱の中身の概要、そして預かる人間の名前を書く欄がある。
「……で、誰の名前を書くの」
ハンドルを握るなおが、信号待ちで俺を見た。
「木村さんの名前を、と思っていました」
「私?」
なおは短く笑った。だが、笑い方に力がなかった。
「財団の職員が、個人名で預かり物をするの。それ、あんたが思ってるより重いわよ」
「重い、というのは」
「もし後で何かあった時、財団は『関知していない私物です』で切れる。……切られるのは、私の名前だけになるってこと」
信号が変わり、車が動き出す。
俺は窓の外を見ながら、彼女の言葉を頭の中で並べ直した。単一障害点を作らないように、押印する者と、鍵を持つ者と、金を扱う者を分けてきたつもりだった。だが今回は、分けようがなかった。書類に載る名前は、一つしか要らない。
「……木村さん。断っても構いません」
「断ったら、どうするつもり」
「別の預かり先を探します」
「探す当てがあるの」
俺は言葉に詰まった。
薫の家は論外だ。学校は最初から選択肢にない。父に相談すれば、その場でおしまいだ。志村に頼めば、電子と紙の両方が彼一人に集まりすぎる。
残っているのは、なおしかいなかった。
貸倉庫の駐車場に車を停めると、なおはエンジンを切り、しばらくハンドルに手を置いたまま動かなかった。
「一つだけ、条件を言わせて」
「なんですか」
「箱の中身、これ以上増やさないで。今ある六千枚だけにして」
「……分かりました」
「それから」
なおはこちらを見た。
「何かあったら、湧き上がる前に私に言うこと。……後から知らされるのが、一番腹立つから」
俺は頷いた。
二人で段ボール箱を車から降ろし、貸倉庫の一区画に運び込む。段ボールの表には、なおの字で短く「保管品」とだけ書かれた紙が貼られた。バンド名も、ファンクラブの名も、どこにもない。
覚書に、なおがボールペンで名前を書いた。
二条アキラ、木村なお。二つの名前だけが、あの紙の重みを分け合うことになった。
「……これで、いいのね」
「はい」
「じゃあ、貸し二回」
なおは書類を丸めて小脇に挟み、先に倉庫の外へ歩き出した。
俺はシャッターを下ろす前に、もう一度箱の方を見た。
鍵のかかる場所に置かれた六千人の名前は、これでようやく、誰かの責任として存在することになった。
今日 13時 閑話1本入ります。




