第109話:十万回と、六千の壁
三日で、再生数は十万を超えた。
俺は自室のPCで、カウンタの数字だけを数日おきに確認していた。
最初に食いついたのは国内の匿名掲示板だ。六月の五重塔の映像で一度火がついた界隈が、そのまま横滑りするように流れ込んできた。
四日目、コメント欄の言語が混じり始めた。英語。ドイツ語。読めない文字列。
五日目には、公式HPの問い合わせフォームが機能を止めた。
「アキラさん、これ、見てください」
放課後の部室で、本田がノートPCを長机に置いた。
転送されたメールの一覧が、画面の下端まで途切れずに続いている。
「どれくらいですか」
「……数えてません。開いた分だけで、画面が終わりません」
俺は画面をスクロールさせた。
差出人の欄には、地名も国名も分からない英数字の羅列が並んでいる。
件名は、四カ国語で、ほとんど同じことを訊いていた。
この曲はどこで買える。
次はどこで演奏する。
どうすれば会員になれる。
俺は三つ目の一群だけ、指を止めて眺めた。
「返信は」
「してません」
「結構です。しなくていい」
俺が答えると、本田は少し驚いた顔をした。
「いいんですか。……こんなに来てるのに」
「返せば、返せる相手だと思われます」
その週の校内は、六月とは様子が違っていた。
六月の時は、五重塔の前に立っていたのが俺たち自身だったから、騒ぎは俺たちに向いた。今回はそうならなかった。
廊下で回されている携帯の小さな画面を、生徒たちは笑いながら覗き込んでいる。
「なあ、これうちの制服だろ」
「絶対そうだって。てか誰か分かる?」
「分かんねえよ。誰も分かんねえ」
誰も分からない、というのが正解だった。
内側では特定され、外側では特定されない。俺が引いた線は、いまのところ想定通りの位置にある。
部室の隅の長机で、智ちゃんがノートPCの画面を長机に置いた。志村が組んだ受付システムの管理画面だ。
「アキラくん、志村さんのシステム、ちゃんと回ってる。エラーも落ちも出てないって」
「弾かれた分は」
「けっこうあるよ。紙に載ってないアドレスから送ってくる人と、アドレスは合ってるのに名前が違う人」
俺は画面を受け取り、上から下まで確認した。
告知を見た人間が、応募用紙に書いたのと同じアドレスから、自分の名前を送る。
差出人のアドレスと、本文の名前。その二つを、亀山公園で回収した六千枚と突き合わせる。両方が一致しなければ、登録は通らない。
送られてきた名前は、そのまま台帳の文字になる。手書きを読み違える余地がない。
夏に二十六人がやったのは仕分けまでで、文字を起こすのは本人にやらせる。それが一番速く、一番正確だった。
受信箱は本人の手元にあり、名前とアドレスは紙の側にある。片方だけでは抜けられない。
「じゃあ、なりすまそうとしてる人もいるってことか」
「みたい。掲示板で『登録者の名前とアドレス知らないか』って訊いてる人もいるらしいよ」
「無駄です」
俺は画面から目を上げた。
「名前とアドレスの両方を知っても、そのアドレスの受信箱がなければ、一通も送れません。……知るだけでは、何もできない設計です」
志村の組んだ電子の要塞は、想定通りに機能していた。
尾田先輩が個人プロバイダで六千件のBCCを送って一瞬でアカウントを凍結された、あの夏の失敗は、もう過去のものだ。
智ちゃんは頷いたが、ペンの先を画面の上で止めたままだった。
「……ねえ、アキラくん。この六千人以外って、どうやったら入れるの」
「入れません」
「え」
「入る方法がありません」
俺は画面をノートPCごと長机に置いた。
「会員番号は、八月六日か七日に、あの会場にいた人間の整理券番号です。追加で発行することはできない。あの二日間は、もう終わっています」
智ちゃんが、口を半分開いたまま俺を見た。
「じゃあ、あのメールの人たちは」
「一生入れません」
部室が、少し静かになった。
ギターの弦を張り替えていた勝が手を止め、ドラムスローンでスティックを回していた博士が振り返る。
パイプ椅子に深く座っていた薫だけが、面白そうに口角を上げた。
「……おい。それ、わざとだろ」
「結果です」
「嘘つけ」
薫はギターのネックを肩に担ぎ、鼻で笑った。
「入れねえって分かったら、そいつら余計に欲しがるぞ」
俺は答えなかった。
その夜、自室でメールの転送分をもう一度開いた。
二百通ほど読んだところで、文面の一つに指を止めた。
登録者のアカウントを買いたい、と書いてあった。
金額が書かれている。日本円に換算して、俺の一年分の小遣いよりも多い額だった。
その下の一通も、似たことを書いていた。
俺はPCを閉じ、しばらく机の木目を眺めていた。
物としての半券は、誰の手にも残っていない。だが登録という状態そのものには、値段がつき始めていた。
翌日の放課後、俺は部室のスチール棚の前に立った。
最下段の棚板を物理的に湾曲させている、二十四キログラムの段ボール箱。
夏の間、二十六人の手でアルファベット順に仕分けられた六千枚の応募用紙だ。
貼られた整理券。番号。手書きの名前。商店街で押された店のゴム印。
あの紙が、六千人の会員資格を証明できる唯一の原本だった。
電子のデータベースは、あれを写したものにすぎない。志村が用意した専用サーバーも、政治的な導線も、すべてこの箱を写した先の話でしかない。
俺は棚に手をかけた。
建て付けの悪い引き戸のような音を立てて、棚板が軋む。
鍵はない。この部室の鍵は職員室の壁に掛かっていて、放課後は誰でも借りられる。
俺はしばらくその箱を見ていた。
それから、何もせずに手を離した。
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