第107話:十九位の防衛線と、白黒の熱狂
今日 8月6日 明日 8月7日 山口は提灯祭りです。
お近くの方は、どうぞ きれいですよ。
夏休み明けの実力考査の総合順位は、『十九位』だった。
掲示板に張り出されたその数字を無表情で確認し、俺は小さく息を吐いた。尾田先輩から教わった化学のモル計算で稼いだ数点がなければ、確実に弾き出されていた。
これで親父から突きつけられた「二十位以内」という容赦のない絶対防衛線を、首の皮一枚で死守したことになる。だが、安堵している暇はない。数週間後には二学期の中間考査が控えているし、その前に処理すべき実務が残っていた。
夏休み、六千人の個人情報を仕分けてくれた二十六人の女子生徒たちへの『報酬の支払い』だ。
週末。土壁の蔵には、約束通り集まった二十六人の女子生徒たちの熱気が充満していた。
定位置でギターのチューニングをする薫や勝、ドラムスローンでスティックを回す博士。
そして俺の目の前には、映画部の腕章をつけた見慣れない一年生の男子生徒が、三脚に固定したビデオカメラのファインダーを覗き込んでいる。その後ろでは、日芸の出願を終えてどこか腹の座った顔つきになった尾田先輩が、腕を組んで静かに見守っていた。
「皆さん、今日はただ俺たちの演奏を聴いて拍手してもらうわけではありません」
俺はベースを肩にかけ、目の前に並ぶ二十六人の女子生徒たちに静かに語りかけた。
「少し無茶なお願いになりますが……俺たちの音に合わせて、髪を振り乱して泣き叫ぶ『熱狂的なファン』を全力で演じてほしいんです」
「な、泣き叫ぶなんて……カメラの前でちゃんと演じられるかな……」
前列にいた女子生徒の一人が、不安そうに顔を見合わせる。
だが、すかさず別の女子生徒が熱っぽい声で口を挟んだ。
「できるよ! だって、私たちも『beat less』のみんなと同じ映像に残れるんだよ? ずっと一緒に映る『共演者』になれるなんて、絶対やりたい!」
「……ええ、その通りです」
俺は静かに頷いた。
「あなたたちはただの裏方じゃない。この映像を完成させるための、欠かせない『共演者』です。よろしくお願いしますね」
彼女たちの承認欲求と熱を肯定し、意図的に「異常な熱狂」の空間を構築する。それがこのミュージックビデオの狙いだった。
「本田くん、でしたね。カメラの設定、少し変えられますか」
俺は、ファインダーを覗いていた映画部の一年生に指示を出した。
「カラーではなく、すべて白黒モードにしてください。それから三脚は外し、少し離れた位置から、彼女たちの熱狂越しにステージを狙うようなアングルで回してほしいんです」
「えっ? し、白黒ですか?」
一年生が戸惑ったように顔を上げ、後ろの尾田先輩を振り返る。尾田先輩も怪訝そうに眉をひそめた。
「アキラ、なんでわざわざ白黒にするんだ? 手持ちカメラにしたら映像もブレるぞ」
「色という情報や安定した画面は、見る者の意識を散漫にさせます」
俺は淡々と答えた。
「必要なのは、彼女たちの制服の色や肌の質感じゃない。光と影のコントラスト。荒々しい動き。そして、理性を吹き飛ばされた群衆の剥き出しの熱気だけです。少し引いた位置から撮ることで、この異常な空間全体を一つの『ライブ』として記録したい」
かつて、一九六〇年代に世界を熱狂させた四人の若者の記録映像。ブラウン管越しに流れるその白黒映像には、カラーよりもはるかに凄まじい、時代を超越した「狂気」が焼き付いていた。それをこの二〇〇六年のネットの海に、人工的に再現して投下する。ただの宣伝ではない。これは視覚的なプロパガンダの設計図だ。
「……なるほど。無駄な情報を削ぎ落として、現場の『熱量』だけを画面に定着させるってことか」
尾田先輩が唇の端を吊り上げ、一年生の後輩の肩を叩いた。
「アキラの言う通りにしろ。設定をいじって、手持ちに切り替えろ」
「は、はい!」
一年生が慌ててカメラのダイヤルを回し、三脚からカメラを外す。
盤面は整った。俺は薫たちを振り返り、小さく顎を引いた。
「曲は『She Loves You』。……先輩たち、遠慮はいりませんよ」
俺の言葉を受け、薫がマイクスタンドからマイクを引き抜き、女子生徒たちのすぐ目の前、手が届くような至近距離まで歩み寄った。
勝もギターを構えながら、不敵な笑みで彼女たちを覗き込む。
「……無理に演じようとしなくていいぜ」
薫が、目の前の女子生徒たちの目を見つめながら、低く掠れた声で囁いた。
「ただ、俺たちの目を見て、俺たちの音を真正面から食らってみろ。……いつも通りにな」
薫が獰猛な笑みを浮かべる。
ワン、ツー、スリー、フォー!
博士の叩き出す容赦のないエイトビートと、アンプの回路が焼き切れる寸前まで増幅されたディストーションの不協和音が、蔵の土壁をビリビリと震わせた。
至近距離で放たれる圧倒的な音圧。そして、すぐ目の前で自分たちだけを見つめて歌い、ギターを掻き鳴らす薫と勝の、剥き出しの色気と熱量。
演技など、最初から必要なかった。
至近距離でダイレクトに音と視線を浴びせられた女子生徒たちは、瞬時に理性を溶かされ、本能の底から感情を暴発させて完全に『やられて』しまったのだ。
「キャアアアアアアアッ!!」
演技を超えた、鼓膜を劈くような女子生徒たちの悲鳴が上がる。
狭い蔵の中に、汗と熱気が一気に充満する。俺はベースの太い弦を引きちぎるように弾きながら、押し寄せる歓声と熱狂の波を全身で受け止めていた。
泣き叫ぶ少女たち。汗を飛ばしてシャウトする薫。少し離れた場所から、群衆の隙間を縫うように手持ちカメラがその狂乱を追っている。
白黒のフレームの中に切り取られたそのライブ空間は、どこにでもある地方都市の風景から完全に切り離され、狂気と熱狂だけが支配する絶対的な「伝説の記録」として、今まさに完成しようとしていた。




