第106話:化学式と、映像のポートフォリオ
九月上旬。夏休み明けの実力考査を数日後に控えた放課後の軽音部室で、俺は長机に広げた化学の参考書を前に、深くため息をついた。
無機化学の反応式と、物質量のモル計算。
音楽の和声法則や、大人の利権が絡む盤面のロジックなら、一瞬で最適解を導き出せる。だが、この無味乾燥な記号の羅列と暗記のルールだけは、どうにも脳の処理領域に馴染まなかった。
しかし、親父から突きつけられた『学年で二十位以内』という容赦のない絶対防衛線を死守するためには、この退屈な記号のパズルを乗り越えなければならない。
シャーペンの尻でこめかみを叩きながら、数式と睨み合っていると、防音扉が遠慮がちに開いた。
「……アキラ、いるか?」
ひょっこりと顔を出したのは、映画部の三年生、尾田先輩だった。首からいつものビデオカメラを下げているが、その表情はどこか思い詰めたように硬い。
「先輩。どうしました」
「いや、少し相談があって……って、お前、化学やってるのか? 珍しいな」
尾田先輩は机の上の参考書を覗き込み、俺が書き損じてバツ印をつけた計算式を見て、小さく笑った。
「なんだ、アキラでもこういう計算でつまずくことあるんだな。……ここはモル質量から先に体積を割り出せば、一発で約分できるぞ」
先輩が手近な赤ペンを取り、ノートの隅にササッと補助線を引いて数式を書き足す。すると、複雑に絡み合っていた数字が嘘のようにシンプルな形に収束した。
「……なるほど。そういう手順ですか」
「映画のフィルムのコマ数計算みたいなもんだよ。全体量を先に把握すれば、あとは割り算だ」
さすがは県内トップの進学校で三年生まで生き残っているだけはある。俺は素直にペンを置き、助け舟を出してくれた先輩に向き直った。
「助かりました。……それで、相談というのは?」
俺が本題を促すと、尾田先輩は少しだけ気まずそうに視線を泳がせ、やがて腹をくくったように口を開いた。
「ああ。実は、ホームページの管理と、これからのYouTubeの動画編集を……うちの映画部の一年生に引き継がせようと思って」
「引き継ぎ、ですか」
「俺も、もう三年の秋だ。……本格的に、受験体制に入らなきゃならない時期でさ」
尾田先輩の言葉に、俺は静かに頷いた。
彼がこれまで、どれほどの情熱と時間を費やして俺たちの映像を撮り、インフラを整備してくれたかは理解している。だが、彼にも自分の人生がある。
「分かりました。後輩の方を紹介してください。引継ぎの手順はこちらで組みます。……ちなみに先輩は、どちらの大学を目指しているんですか」
「……日本大学芸術学部。そこの映画学科だ」
日芸。親は地元の国立に行けとうるさいが、家は比較的自由が利く方で、どうしても映像の勉強がしたいのだと先輩は照れくさそうに笑った。
「一般入試ではなくて、自己推薦のAO入試を狙っているんですか」
「ん? ああ……一昨日、郵便局から簡易書留で送ってきた。もう賽は投げられたってやつ。だから今は結果待ちで生殺し状態だよ」
尾田先輩は軽く肩をすくめて見せたが、その言葉の端々には「書類はちゃんと届いたか」「一次で落とされないか」という、リアルな受験生特有の焦燥感が滲み出ていた。
「……ほら、お前は余計な心配してねえで、この『モル濃度』の問題解け」
誤魔化すように俺の参考書を指差す先輩の横顔には、自分の未来を懸けた最初のサイコロを振り終えたばかりの、ヒリヒリとした緊張感が漂っている。
「俺なんかの実力で、評価されるかどうか……」
自信なさげに呟く先輩の言葉に、俺は静かにペンを置き、参考書を閉じた。
「……先輩。心配しすぎですよ」
俺は決して上から目線にならないよう、声のトーンを抑え、ただ一つの客観的な事実として先輩の目を真っ直ぐに見返した。
「他の受験生の中に、大人のマスコミすら入れなかった熱狂の裏側に密着し、一本のドキュメンタリー映画として完成させたマスターテープを持っている人間が、一体何人いると思いますか」
「え……」
「それに、俺たちのYouTube動画です。先輩がカメラを回し、編集してネットに上げた動画が、現在進行形で数十万回の再生を叩き出し、世界中の人間をこの街に引き寄せる原動力になっている。……これ以上のポートフォリオなんて、そうそうないはずです」
尾田先輩が、ハッとして息を呑んだ。
「高校の文化祭の枠を越え、実社会に直接影響を与えた映像ディレクター。それが、今の先輩の客観的な評価です。その実績と映像の束を出願したのなら、結果を恐れる必要なんてありません。俺たちの存在を、先輩のキャリアのために存分に使い倒してください。……化学の解き方を教えてもらった、ささやかなお礼ですよ」
尾田先輩はしばらく呆然と俺を見つめていたが、やがてその目に、確かな自信と野心の光が戻ってくるのが分かった。
「……お前ってやつは、本当に……」
先輩は深く息を吸い込み、首から下げたビデオカメラをギュッと握りしめた。
「分かった。……引継ぎが終わるまで、もう少しだけ俺のカメラに付き合えよな」
「ええ。最高の画を撮らせますよ」
俺は静かに頷き返した。
退屈な記号の羅列よりも、俺たちの放った熱量が、こうして確実に周囲の人間の人生を切り開き、次の盤面へと接続されていく。その静かな手応えを感じながら、俺は再びモル濃度の計算式へと向き直った。
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