第104話:密室のアルペジオと、冷徹な撤退
塾の入ったビルの前、九月の夜気はすっかり生ぬるくなっていた。
手元のガラケーの液晶を睨みながら、俺は木村なおの番号を呼び出す。コールは四回で切れた。
「……もしもし、アキラ? どうしたの、こんな時間に」
「すみません、なおさん。少し相談があるんですけど、今から会ってもらえませんか」
「今から? もう夜の八時よ」
「YCAMや他の場所では、ちょっと話しづらい内容なんです」
受話器の向こうで、なおが息を呑む気配がした。
「そうね……。今どこにいるの?」
「駅前の塾の前です」
「じゃあ、そこから少し歩いたところにあるコンビニの前で待ってて。車で行くわ」
断られる可能性は、考えていなかった。この半年、俺が持ち込んだ厄介事を、この人が断ったことは一度もない。
* * *
十分もしないうちに、ヘッドライトが道の先に現れた。なおの運転する白い軽自動車だ。
助手席のドアを開けて滑り込むと、車内には冷房の風が満ちていた。ダッシュボードには財団の駐車許可証。後部座席には、まだ封の切られていない書類の束が積まれている。
残業から、そのまま来たらしい。
「すみません、遅い時間に呼び出してしまって」
「いいわよ。それで、どこで話そうかしら」
「維新公園の前のマックなんてどうですか」
* * *
マクドナルドの駐車場に車が滑り込み、蛍光灯の下のボックス席に落ち着く。
紙コップを両手で包み込みながら、俺は本題を切り出した。
「実は、あの六千件のメールアドレスをBCCに入れて、一斉に送信してみたんです。そうしたら途中で画面が固まって、それきりメールが使えなくなって。プロバイダに問い合わせたら、スパムメールの配信行為に該当するって言われて、アカウントを止められました」
なおは絶句した。コーヒーを口に運びかけた手が、途中で止まっている。
「あなた……六千件のアドレスを、そのままコピペして手動で送ったの? あきれた。でも、結果は当然よね」
「なんとかなりませんか。せっかくファンクラブの申し込みを書いてもらったのに、立ち上げられないんじゃまずいと思って」
「あなたねえ、音楽の組み立て方はあんなに凄いのに、実務に関してはあまり先のこと考えてなかったのね」
俺は背中を丸め、視線を落とした。
「俺たちには、手入力する人手も、弾かれない回線もありません。……木村さん、何かいい知恵はないですか」
なおは深い溜め息をつき、コーヒーのプラスチックの蓋を外した。その横顔に、トラブルを前にして引かない実務家の顔が戻り始めている。
「……そうね。うちの財団のネットワークを保守してる業者さんがいるの。いつも無理を言ってシステムを調整してもらっている人だから、その人に一度相談してみるわ。外部からの入力を自動で処理する仕組みを作れるか聞いてみる」
「ありがとうございます。なおさんに相談して、本当に良かったです」
「あら、高校生らしい素直な面もあるのね」
話は、それで終わった。
* * *
帰り道の車内は、静かだった。
信号待ちで、なおが不意に口を開いた。
「ねえ。前から訊きたかったんだけど」
「なんですか」
「あなた、どこで音楽を習ったの」
俺は、フロントガラスの向こうの赤信号を見たまま答えた。
「独学です」
「嘘」
短い否定だった。責めるでもなく、笑うでもない。ただ、事実として否定された。
しばらく、ウィンカーの音だけが車内に響いた。
「……学生の頃、少しだけバンドでボーカルをやってたことがあってね」
なおは、信号が青に変わるのを待たずに続けた。
「本気だったのよ。親と喧嘩して、大学もそれで選んだくらい。就職なんて考えたこともなかった」
「やめたんですか」
「二年生の夏に、一人だけ、桁の違う子がいてね」
彼女の指が、ハンドルを軽く叩いた。
「サークルの発表会で、その子の後ろの順番だったの。ステージの袖で聴いてて、自分の番が来る前に、もう分かっちゃったのよ。ああ、これは越えられないやつだ、って。……その日のうちにやめたわ。楽器も売った」
信号が変わり、車が滑り出す。
「べつに、悲しい話じゃないの。分かってよかったと思ってる。三年生からちゃんと就職の勉強して、財団に入って、今それなりにやってる」
なおは前を向いたまま、少しだけ声のトーンを落とした。
「でもね。あなたの書いた譜面を最初に見た時、あの日のことを思い出したの。……だから訊いてるのよ。あれは、独学で書ける代物じゃない」
* * *
――説明できることは、何もなかった。
前世で三十五年かけて積んだものだと言えば、この人は正気を疑うだろう。だが、それ以外に、この問いに正しく答える言葉が存在しない。
俺は黙っていた。
なおも、それ以上は訊かなかった。
* * *
車は、駅前通りから二筋ほど外れた住宅街のマンションの前で停まった。
「うちにアコギがあるわ。その時の。売り損ねた一本だけ、残ってるの」
なおはエンジンを切り、前を向いたまま言った。
「一曲、弾いてみせなさい。それで納得するから」
「……上がっていいんですか」
「よくないわよ」
なおはシートベルトを外した。
「よくないけど、外じゃ弾けないでしょう」
* * *
八階の角部屋。
玄関を上がってすぐの短い廊下と、六畳ほどのリビング。ローテーブルの上に財団の封筒が積まれ、その脇にコンビニの袋がそのまま置かれている。カーテンは開いたままで、ベランダの向こうに駅前の灯りが見えた。
電気をつけたあと、なおは玄関のチェーンをかけなかった。鍵も回さなかった。
俺は、それを見なかったことにした。
「そこ、座って。……お茶とか出ないから」
「結構です」
クローゼットの戸が開き、奥から黒いギターケースが引き出される。上面に埃の層。ステッカーを剥がした跡が、四角く二つ白く残っていた。
俺はケースを開け、アコースティックギターを取り出した。張られたままの弦が、うっすらと錆びている。指板は低音側の三フレット付近が窪んでいた。売り損ねた一本、という言い方は嘘だ。この個体は、売れる状態ではなくなるまで弾かれている。
親指で弦を弾く。狂ったチューニングが、硬い音で返ってきた。
ペグを回す。無言のまま、六本を順に合わせていく。なおは立ったまま、その手つきを見ていた。座らなかった。
「……何を弾くの」
「この世界には、まだない曲です」
* * *
弾き出したのは、『僕はここにいる』。
別の世界で一時代を築いた男の曲だ。当然、この世界には存在しない男の、存在しない楽曲。
原曲の温度をそのまま持ってきても意味がない。甘さを削り、乾いたアコギ一本で立つ形にその場で組み替える。この時代のどの教則本にも載っていない和音が、二小節に一度、混ざった。
閉め切った部屋に、生音が回る。エアコンの駆動音が、そのすぐ下にあった。
なおは、クローゼットの戸に手をかけたまま動かなかった。戸の縁を握った指だけが、白くなっている。
彼女は音楽をやめた人間だ。やめられるだけの耳を持っていた、ということでもある。
――僕は、ここにいる。
題名が、そのまま曲の核だった。自分がここにいるという、それだけの主張。
俺は、それを他人の名前で弾いている。
最後のフレーズを弾き切った。最後の一音が、部屋の空気に溶けて消える。
「……信じられない。あんた、本当に十五歳なの」
絞り出すような声だった。語尾が、わずかに震えていた。
「四月で十五になりました」
俺は弦をクロスで拭き、ギターをケースに戻した。
「チューニング、狂ってました。合わせておきましたから」
なおは、何も答えなかった。
* * *
「……今日は、これで帰ります」
「えっ……」
俺が学生鞄を手に取ると、なおは虚を突かれたように顔を上げた。
「WEBフォームの件、お願いします」
俺はドアノブに手をかけ、振り返った。
「六千人分です。俺たちだけでは、どうにもなりません」
なおは、何も言わなかった。
「……車、出すわ。送っていく」
「いえ、塾の前に自転車を置いてあるので」
俺はそれだけを言い残して、ドアを開けた。
* * *
背後で、ドアが閉まる金属音。
八階の外廊下を吹き抜ける九月の夜風は、部屋の中の熱に比べれば十分に冷たかった。
俺はエレベーターのボタンを押し、一階へと降りていく。
説明はしなかった。
できなかった、と言った方が正しい。
――利用している。
その自覚は、あった。
だが、この街で、俺たちの音を全国に届けられる大人は、あの人以外にいない。
* * *
夜道を自転車で走りながら、俺はさっきの車内のやり取りを反芻していた。
「嘘」と、あの人は言った。
この二年、俺のアナクロニズムに触れた大人は何人もいる。だが、そのほとんどは「天才」という便利な言葉で処理して、それ以上考えるのをやめた。
あの人だけが、そこで止まらなかった。
そして、止まらないまま、それ以上は訊かなかった。
――訊かれても、答えられないのに。
答えられないことを、なぜか、分かっている人のようだった。
ペダルを踏み込む。九月の夜風が、耳の横を流れていく。
* * *
一方、閉ざされた部屋の中で。
ドアが閉まったあと、木村なおはチェーンをかけた。それから、床に置かれたままのギターケースをしばらく見ていた。
十五歳。独学。この世界のどこにも存在しない進行。
どれか一つでも嘘なら、話は簡単だった。だが、あの手つきは嘘をつけるものではなかった。
――あの日、自分が越えられなかったもの。
それが、いま、自分の部屋で、埃をかぶった一本で鳴らされた。
悔しいと思うべきなのだろう。だが、こみ上げてきたのは、まったく別の感情だった。
あの子は、あれを持っていながら、誰にも説明しない。説明できないのかもしれない。そして周りの大人は誰も気づかず、ただ「生意気な高校生」として扱っている。
それを知っているのは、たぶん今、自分だけだ。
「……ずるいわよ、本当に」
誰もいない部屋でこぼれ落ちた独り言と共に、なおはゆっくりと携帯電話を取り出した。
あの手に負えない子供を満足させるための、強固なインフラ。自分が知る限り、市内で最もその手のシステムに精通している男の顔が、脳裏に浮かんでいた。
時計は、十時を回っている。
この時間に業者へ私用で電話をかける理由を、彼女は自分でもうまく説明できなかった。明日の朝でいい話だ。財団の業務としてなら、むしろ明日にすべきだった。
それでも、彼女はアドレス帳から『株式会社ナット・志村』の名前を呼び出し、発信ボタンを押した。
「※本作品は山口市をモデルとしたフィクションです。作中に登場する実在の施設(YCAM、山口市民会館など)や団体、およびその運営方針等は、すべて物語上の架空の設定であり、現実のものとは一切関係ありません。」




