第103話:二十六の兵卒と仕分け大作戦
翌日、俺は軽音部室の長机で教科書を開きながら、昨夜の一件を考えていた。
塾に通うことで、薫たちと会うための時間を法的に、かつ大義名分を持って確保するつもりだった。だが、親父が突きつけてきた条件は「次の試験で学年二十位以内に入るべし」という、なかなか跳ね上がったハードルだった。
この世界に馴染んで、もう三年になる。
なぜか音楽の知識も含め、かつてあちら側で生を終えた時までの記憶は鮮明だ。これまでは学校の授業をただ聞いているだけで、自動的にかつての復習になっていたため大した労力もいらなかったが、これからはそうもいかないだろう。何しろ、かつての学生時代、俺は一度だって三十位以上の壁を越えたことなどなかったのだから。
「おい、アキラ。何たそがれちゃってんの」
ガラリと部室のドアが開き、開口一番、薫が部屋に入ってきた。
手元を見つめたまま動かない俺の様子が、奇妙に映ったらしい。
俺は教科書の手触りを確かめながら、昨夜、実家のリビングで繰り広げられた親父とのやり取りを、感情を交えずに淡々と話した。
話を聞き終えた薫は、あきれたように鼻で笑ってパイプ椅子を引き寄せた。
「俺もな、叔母さんには相当小言を言われたがな。ただ、俺の場合は山高に入ったってだけで奇跡だと思われてるからな。それ以上のことを今さら求められるようなことはないよ」
「良いですよね。もともとのハードルが低くって」
俺が視線を教科書に戻しながら呟くと、薫の眉間が一瞬で跳ね上がった。
「なんだと」
「まあまあ」
一触即発の空気を察して、奥の席から博士が苦笑しながら手を振って間に入った。
「で、アキラ。例の六千枚の件、どうなったんだ?」
博士の視線が、最下段の棚板を物理的に湾曲させている二四キログラムの段ボール箱へと向く。
俺は一瞬、言葉を詰まらせて黙り込んだ。
昨日、市民会館からの撤収を終えた後ですぐに財団へ電話を入れるつもりだったのだ。だが、帰宅直後に始まった親父のあの説教と交渉のせいで、完全に意識から抜け落ちていた。
「まだだ。連絡はできていない」
俺がそう答えた瞬間、タイミングを見計らったかのように部室のドアがノックされ、勢いよく開かれた。
「――失礼するわよ。市民会館の事後処理の件で確認に来てみれば……何よ、その物騒な紙の山は」
入ってきた文化振興財団の木村なおは、部屋を見渡すなり、スチール棚を占拠している大量の段ボール箱に目を留めて眉をひそめた。亀山公園でファンクラブ登録のテントを出していたことは彼女も知っている。それが未処理のまま放置されている状況を、一瞬で察した顔だった。
俺は教科書を閉じ、振り返った。
「ちょうどいいところに来てくれました。これ、財団のマンパワーでデータ化を――」
「……あのね、二条くん。勘違いしないで」
なおは俺の言葉を冷たく遮り、明確な拒絶の光を宿した目で睨みつけてきた。
「財団のスタッフは、あんたたちのファンクラブ名簿を作るための奴隷じゃないのよ。こんな殴り書きの山、一件ずつエクセルに手入力してたら何日かかると思ってるわけ?」
腕を組んだ彼女の視線は、事務処理という「現実」を知る大人特有の冷たさを帯びている。
アキラは視線を崩さず、静かに返した。
「やっぱり、大人組織のマンパワーでも厳しいですか」
「甘えんじゃないわよ。厳しいなら、頭を使いなさい」
なおはふんと鼻を鳴らし、ヒールの位置を直した。
「あんたたちの周りにいつも群がってる、あの大人数の身内のファンがいるでしょ。あの従順な山高生たちを使いなさい。手伝ってくれたら『次のミュージックビデオに出してやる』ってエサをぶら下げるのよ。あの市民会館の熱狂の後よ? 泣いて喜んで極秘で動く兵隊が、タダで手に入るわ」
アキラは表情を変えずに先を促した。
「具体的には」
「メールアドレスの頭文字はエーからゼットまで二十六文字。集めるファンもぴったり『二十六人』よ」
なおは人差し指を立て、スチール棚の段ボールをコンコンと叩いた。
「最初にその紙の山を、アルファベット順に二十六個の束に仕分けさせるの。一般のファンには、ホームページかどこかで『登録がパンクしたからWEBのフォームで再登録しろ』とだけ案内を流しなさい。システムくらいはウチのサーバーに用意してあげるから。データが勝手にエクセルに並んだら、あとはその二十六人に、自分の担当するアルファベットの紙と画面を照らし合わせてコピペさせる。これなら情報の流出も最小限だし、あんたたちだけで終わるでしょ」
智が小さく息を呑んだ。目の前にある「絶望の山」が一瞬で二十六分割され、現実的なタスクへと解体される光景が、その表情に浮かんでいる。
アキラの口元が、わずかに、不敵に歪んだ。
「……さすが木村さん。話が早くて助かります。WEBのフォーム、なるべく早めにお願いします」
「……っ! 本当に生意気なガキ。急いで作ってあげるから、貸し一回だからね!」
なおは吐き捨てるように言うと、足早に部室を去っていった。ドアが閉まる音が小気味よく響く。
「木村さん、やっぱり凄い……。それに比べてウチの男どもは……」
智がため息混じりに呟くのを、アキラは聞き流しながら、すでに次の工程へと意識を切り替えていた。
なおさんが財団に戻ってフォームを構築し、一般ファン向けのユーチューブ動画を流してデータが集まるまでには、どうしても数日のタイムラグが生じる。
だが、その間にできること、いや、今すぐやっておかねばならない「泥臭い前準備」がある。
「智、なおさんの言う通りだ。山高の追っかけのリーダー格に直接連絡を入れてくれ」
「え? 追っかけの子たちに?」
「ああ。これは他人の名前と住所の塊だ。誰にでも触らせていいもんじゃない。口が堅くて、確実に動かせる身内の山高生だけで固める。手伝ってくれた二十六人には、次のMVの出演権を出すと伝えてくれ。彼女たちに人選を任せれば、一瞬で揃う」
智は納得したように深く頷くと、すぐにポケットから携帯電話を取り出し、素早い手つきでメールを打ち始めた。パケ・ホーダイの恩恵を受けた女子高生たちのネットワークは、時にどんな連絡網よりも迅速で、かつ正確に機能する。
「……送ったわ。MVの出演権がエサなら、秒で集まるはずよ」
智の言葉は予言通りだった。
放課後のチャイムが鳴り響いてから十分も経たないうちに、部室のドアが控えめに、しかし確実な力でノックされた。
「失礼します……!」
入ってきたのは、智から連絡を受けた追っかけのリーダーと、彼女が「絶対に他言しないで、仕事が実直にできる山高生」として厳選してきた二十四人の女子生徒たちだった。アキラと智、そして集まった二十六人。合計二十八人だけの、極めてクローズドな空間が完成する。
余計な私語は一切なかった。アキラから「各自、アルファベットを一文字ずつ担当し、六千枚の山から自分の文字で始まるメールアドレスの用紙を抜き取って仕分ける」という目的と手順が端的に説明されると、彼女たちの目の色が変わった。
「私、出席番号もエーから始まるし、じゃあ『A』の箱を担当するね」
「私は『M』の束を集める!」
それぞれが空の段ボール箱やバインダーを抱え、床や長机に陣取る。
そこからは、一分の無駄もない洗練された、しかし極めて原始的な「マンパワーによる生産ライン」が動き始めた。
「これ、ドコモのアドレスで『k』から始まってる! はい、Kちゃんよろしく!」
「これは『t』ね、私に回して!」
二四キログラムの紙の山が、二十六人の手によって次々と捌かれ、細分化されていく。
カサカサ、ペラペラという、紙が擦れ合う無数の音だけが、西日の差し込む部室を支配していった。智が鋭い視線で全体を監督し、仕分けのダブりや見落としがないか目を光らせる。
数日後に始まるであろう「データ突合」という決戦に向けて、六千枚の混沌は、二十六の整然とした兵卒の列へと姿を変えつつあった。
アキラはその熱気の中、静かに腕を組み、女子高生たちの驚異的な集中力によって「ただの紙の山」がシステムの一部へと組み替えられていく様を、冷徹に、そして確信を持って見つめていた。




