第102話:成績の盾と、二十位の足枷
バンッ、と。
乾いた破裂音がリビングに響いた。
「これは、なんだ」
夕食後のテーブルに、父・真が丸めた雑誌を叩きつけた。
山口市内の店舗や駅で無料配布されている地域情報誌だった。乱暴に開かれたページには、『七夕ちょうちんまつり、山高生が市民会館で大歓声』という見出しとともに、ステージ上の俺たちの写真がデカデカと掲載されていた。かろうじて、奥でベースを弾く俺の顔が判別できるサイズだ。
台所から、エプロン姿の母がおろおろとこちらを窺っている。
「俺は、学業が本分だと言ったはずだな」
県庁で課長補佐を務める父は、ネクタイを緩めもせず、鋭い眼光で俺を睨みつけた。
「延べ六千人のコンサートだと? 歌手にでもなるつもりか」
感情を荒らげるわけではないが、その声には、自身が苦学の末に築き上げてきたエリートのレールを息子が踏み外すことへの、確かな怒りと恐怖が滲んでいた。
俺はテーブルの上の情報誌を一瞥し、静かに口を開いた。
「もちろん、覚えています。学業に影響のない範囲で行っていますから」
「そうは思えんがな。夏休みにこんなふざけた真似をして」
「一学期の中間、期末ともに、学年で三十番以内には入っています」
俺が淀みなく数字を出すと、父の眉間がピクリと動いた。
「今の山高で三十番以内なら、現役で九大が狙える位置です。お父さんが卒業した広島大は当然として、私学なら慶応にも行ける計算です。……もちろん、三年生までこの成績をキープできればの話ですが」
父の母校の名と、より上位の大学名を引き合いに出す。数字と成果を重んじる公務員の父には、これが一番伝わりやすい。
父は押し黙り、忌々しげに情報誌を指先で弾いた。
「……だとしてもだ。聞いたところによると、随分と騒々しい音楽をやったそうじゃないか。若者が熱狂して暴動寸前だったと噂になっている。クラシックならともかく、騒音を出すような不良の真似事は許さんぞ」
父が食い下がる。成績の数字だけでは、得体の知れない熱狂への生理的な嫌悪感を拭いきれないようだった。
俺が次の言葉を探そうとした、その時だった。
「お兄ちゃんたちの曲、そんなにうるさくなかったよ」
隣の和室のふすまがスッと開き、聞き耳を立てていた妹のさやが顔を出した。
「お前、あのお祭りに行っていたのか」
父が咎めるように目を向けると、中学二年のさやは悪びれもせずに頷き、テーブルのそばまでやってきた。
「うん、友達と見たよ。なんか、アフリカの太鼓みたいなリズムが入ってる曲でさ。一緒に前で歌ってた人はかなりがなってたけど、お兄ちゃんの演奏自体はいつもみたいに普通だったよ」
「……アフリカの太鼓だと? そんな野蛮な真似を」
父が不快げに顔をしかめる。だが、続く言葉で父の脳内にある『不良の騒音』というイメージが、少しだけ形を変えたようだった。
「……つまり、ボーカルの不良が勝手に騒いでいただけで、お前自身は裏でただの伴奏をしていただけだと言うのか」
父は、俺の行動を主犯ではなく「不良の騒ぎに巻き込まれた(伴奏させられた)だけ」と強引に解釈することで、自分自身の不安を和らげようとしているようだった。俺の弾いていたベースライン自体は、確かにクラシックの和声法則の延長でしかない。
「だとしてもだ」
父の表情からは険しさが抜け落ちていなかった。大人のエリートとしての勘が、息子が安全な場所にいると安易に納得することを拒絶しているようだった。
「あのような騒ぎの場にいたことには変わりない。それに、家で勉強している様子もないじゃないか」
父の追及に対し、俺はすかさず本題を切り出した。
「だから、二学期以降の成績を確実にするために、塾に行きたいと思っていたんです」
「……塾?」
バンド活動の追求を予想していた父が、意表を突かれたように目を見開く。
「駅通りの水上塾です。あそこは夜遅くまで開いていて、塾生は自由に自習室を使えます。教えているのも山大の学生が多くて、質問もしやすい環境だと聞いています」
俺が本当に欲しているのは塾での成績向上ではなく、親の干渉を受けずに動ける夜の自由な時間だ。放課後の部室や休日の蔵だけでは、もはや時間が足りない。一人で静かに新たな曲の設計図を書き起こし、次の展開を構築するための場所が必要だった。
「……そうか。お前が自ら進んで塾へ行くと言うのなら、反対はしない」
父が静かに頷いた。俺が内心で目的の達成を確信した、次の瞬間だった。
「だが――」
父の眼光が、再び鋭く俺を射抜いた。
「塾の自習室まで使って勉強するというのなら、当然、結果はさらに上を目指せるはずだな。……今後は、学年で十五位以内にいる限り、活動を認めてやろう」
(……十五位、だ?)
俺は表情を一切崩さなかったが、脳内では超高速でスケジュールの帳尻を計算していた。
県内トップの山高で十五位以内。その位置を維持するために必要な勉強量と、夜の自習室で一人曲作りに没頭するための時間を天秤にかける。……駄目だ。物理的に睡眠時間が削られすぎ、どちらかが必ず破綻する。
俺は沈黙の隙間を縫い、声のトーンをわずかに落として切り返した。
「……二十位以内、ではどうですか」
ギリギリの防衛ラインへの損切り。大人の公務員相手に、明確な数字の交渉を仕掛ける。
父は値踏みするように俺を見つめ、やがてゆっくりと顎を引いた。
「良いだろう。分かったな。もし二十位以内に入らなければ、お前のその楽器は私が預かる」
反論を許さない、絶対的な通告だった。
俺は「……承知しました」とだけ短く頭を下げ、冷えた麦茶のグラスを手にした。
夜の自由な時間は確保できた。だが、喉の奥にはひどく苦いものが残っていた。
妹の無自覚な援護射撃を利用し、大人の論理で親を騙し討ちにしたつもりだったが、結果として突きつけられたのは「二十位以内」という容赦のない足枷と、楽器の没収という最悪のリスクだ。純粋に息子の将来を案じる父の不器用な愛情を逆手に取ったことへのチクリとした胸の痛みとともに、俺は改めて、目の前にいるエリートという生き物の手強さを噛み締めていた。




