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第98話:檻の中の爆発、あるいは計算された狂乱

8月1日 8月2日 午前午後 2話ずつ投稿します。

午後十七時半。山口市民会館の大ホール。


千五百の固定席は、異様な人口密度と熱気で埋め尽くされていた。 本来ならクラシックコンサートで上品な拍手が響くはずの空間に、黒いTシャツや派手なファッションに身を包んだ汗だくの若者たちがひしめき合っている。豪奢な緞帳とシャンデリアの下で、彼らはまだ見ぬ音の正体を求めて息を荒くしていた。視覚と状況の圧倒的な矛盾が、そこにある。


俺は客席の最後方、PA卓の前に座り、マスターフェーダーに指を添えていた。


隣では、完全に調教済みの派遣スタッフ――佐村が、指示通りにコンプレッサーとイコライザーの数値を監視している。クラシック用のスピーカーを飛ばさず、限界の音圧を引き出すためのセッティングは完璧に終わっていた。


「……時間です。幕を開けろ」


俺の静かな指示で、重厚な緞帳がゆっくりと左右に引かれていく。


ステージの中央には、ギターを構えた薫と勝、ベースを抱えた智ちゃん、そしてドラムスローンに座る博士の姿があった。 千五百人の視線が一斉にステージへ突き刺さる。


カウントなし。 勝がアコースティックギターの乾いたストロークを鳴らし、薫がマイクを握りしめた。


――誰かの助けを渇望するような、悲痛で強烈なシャウト。


そのシャウトの瞬間、俺はPA卓のフェーダーを一気に、計算上の限界ラインまで押し上げた。


一曲目、『Help!』。 疾走するエイトビートと、アンプの回路が焼き切れる寸前まで増幅されたディストーションノイズが、千五百人の鼓膜を物理的に殴りつけた。


ただ力任せに鳴らしているわけではない。勝の右手が刻む、手首のしなりを極限まで効かせた鋭利なカッティング。さらに、ボーカルの隙間を的確に縫うリードギターの印象的な下降フレーズ。職人気質の彼が、狂騒の中でも一音の狂いもなく弾き出すその旋律が、単なるノイズの壁に明確な『歌心』を与え、弾丸のように真っ直ぐに客席へと突き刺さる。


「ウオォォォォォッ!!」


地鳴りのような歓声が爆発した。クラシック用のホールに押し込められていた群衆の理性が、たった一音で完全に決壊する。彼らは席から立ち上がり、拳を突き上げ、うねるように身体を揺らし始めた。


息つく暇も与えず、二曲目の『Come Together』へ雪崩れ込む。


ピアノで培った智ちゃんの正確無比な運指が、ベースの太い弦の上を滑らかに這い回る。指の腹で絶妙にミュートを効かせた粘り気のある重低音がホールの床を震わせ、そこへ勝の弾き出すブルージーなギターソロが絡みつく。弦を限界まで引き絞るチョーキングが、むせび泣くようなリードトーンとなって観客の脳髄を直接揺さぶっていく。


続く三曲目『センコー(仮)』の強烈なバックビートと日本語の剥き出しの怒りに、観客の熱狂はすでに臨界点を超えていた。


ただドラムを乱打しているのではない。博士が右足で踏み込む重いバスドラムと、スネアの間に細かく刻まれるゴーストノート。それが曲にえげつないほどの推進力グルーヴを与え、数千人の身体を強制的に揺さぶっている。


三曲目が終わり、曲間にわずかな静寂が訪れる。 熱に当てられた薫が、荒い息を吐きながらマイクスタンドを引き寄せた。


「お前ら、最高だぜ! ここはクラシックのホールなんかじゃねえ。お行儀よく座って聴いてる場所じゃないんだよ! ここは今日から、俺たちと、お前らだけのライブハウスだ! まだいけるだろ!? もっと、もっと声出せェッ!!」


薫の煽りに、客席から地鳴りのような歓声が上がる。彼は完全に自分の世界に入り込み、さらに熱い言葉を紡ごうと息を深く吸い込んだ。


俺は手元の時計を瞥見した。 持ち時間は三十分。このままMCが長引けば、完全入れ替え制という冷徹なタイムスケジュールに致命的な遅れが生じる。俺が舌打ちをし、佐村に巻きの合図を出そうとした、その瞬間だった。


ダッ、ダン!!


博士の叩き込んだ容赦のないスネアドラムのリムショットが、薫の言葉を物理的にぶった切った。


「……え?」


薫が目を丸くして振り返るのを完全に無視し、博士は満面の笑みで四曲目『Twist and Shout』の狂暴なカウントを刻み始めた。 事前の取り決め通り、時間が押した際の強制的な進行だ。


一瞬だけ間抜けな顔を晒した薫だったが、すぐに獰猛な笑みを浮かべ直し、マイクに噛み付くように絶叫した。


話を遮られたボーカルの苛立ちと、それをねじ伏せるリズム隊の容赦のなさ。 ただ声を荒らげているだけではない。喉を壊さんばかりのシャウトでありながら、薫の放つ音程ピッチの芯は一ミリも外れていない。完全に制御された狂気。それが逆に、予定調和を許さない生のロックの熱量として観客のガソリンに火をつけた。


ホールは、もはや制御不能の暴動寸前だった。


そして三十分が経過する直前、最後の曲『The Long and Winding Road』が静かに始まった。


これまでの爆音と狂乱が嘘のように、極限まで歪みを抑えたクリーントーンと、深く澄んだ旋律がホールを満たしていく。 狂ったように暴れていた千五百人の若者たちが、その圧倒的なメロディの引力に抗えず、魔法をかけられたように静まり返り、立ち尽くして音に聴き入っている。


完璧なクールダウン。興奮した群衆を安全に外の亀山公園へ誘導するための、冷徹な退場用のナンバーだ。


最後の一音が消え、万雷の拍手がホールを包み込んだ。


「……第一部、終了です。佐村さん、すぐに客を吐き出させて第二部の準備を」


俺はフェーダーを落とし、呆然とステージを見つめている佐村に声をかけた。


「あ、ああ……! すげえ、本当になんだよあいつら……」


佐村は震える手でインカムを操作し始めた。 ステージの上では、汗だくの四人が深いお辞儀をしている。


大人のシステムとインフラを完全にハックし、千五百人を檻に閉じ込め、限界の熱量で圧倒してから静かに外へ吐き出す。 俺はPA卓の影で、誰にも気づかれないように小さく口角を上げた。


かつての現場で幾度となく組んできた進行表。それをこの過酷な環境で一秒の狂いもなく完遂させた彼らの姿に、俺は完全な手応えを感じていた。

現在の構想では150話での完結を予定しております。推敲を重ねながら投稿しているため多少の話数増減があるかもしれませんが、最後までアキラたちの物語を見届けていただければ幸いです。

『ベートーヴェンのいない世界で』を、これからもよろしくお願いいたします。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

続きが気になった方は、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると励みになります。


「※本作品は山口市をモデルとしたフィクションです。作中に登場する実在の施設(YCAM、山口市民会館など)や団体、およびその運営方針等は、すべて物語上の架空の設定であり、現実のものとは一切関係ありません。」


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