《二十三》高僧と尼
伯安が言った通り、半刻過ぎると男は目を覚ました。
焦点の合わない目で見上げ、知らない顔に囲まれていることに気づくと息を呑む。
「話せるか。」
「…ここは。」
「媚香楼って妓楼だ。」
男が唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
「知ってるか?」
「…俺みたいなのはこういうところに用はないさ。」
そう言いつつ目には動揺がある。
「なんでここに閉じ込められてた。」
「知らん。」
「お前、あと少しで殺されるところだったと思うぞ。」
男はじっと思遠の顔を見つめると身体を起こそうとする。
思遠は支えてやり、捕らえた男のほうに顎をしゃくるようにする。
「あいつにな。知った顔か?」
「…いや。…寺で見かけたことはあるな。」
男は眠そうな声で言う。
殺されかけたと聞いてもあまり取り乱さない。
「寺?」
「崇善寺っていうが誰も名前は覚えてねえな。西市北の醴泉坊にある異教寺みたいなところさ。俺はそこで雑用をしてる。」
「どんな仕事だ。」
男は少し考える。
「庶務ってやつかな。…法会の準備やら、経典の管理とか掃除とか。参拝者や僧侶たちに必要なものの買い入れとかな。なんでもやる。」
「あいつはどういう状況で見かけた?」
「…あいつが現れると、媚香楼で事故があったり、仲間がいなくなるんだ。」
事故というのは身投げ事件のことだろう。
「どういうことだ?」
「…あいつが来て、仕事の斡旋だって言われて連れて行かれるんだが、それきり皆、消息が分からなくなる。俺も寺で仕事だと呼ばれて、出された茶を飲んだら、あとは知ってのとおりさ。」
男はずっとぼんやり話していたが、ようやく頭がはっきりしてきたようだ。
捕まった男をじっと見据える。
「俺たちは働けなくなって食い詰めた奴らの集まりでさ。崇善寺に集められて奉仕するかわりに飯と雨露のしのげる寝床を貰ってた。」
淡々と彼は説明する。
「俺は兵士だった。逃亡を企ててその後は転落人生さ。」
「その手の甲のは刺字を消そうとした跡か。」
「自分でいちいち消しはしないさ。手の甲に消した跡があればどのみち大体のことはわかってしまう。あいつがやったんじゃないのか、俺を殺そうとしたんなら。」
男は熱のない目で捕まった男を見やる。
「まあ、軍営からの逃亡は本来は死罪だから俺は運が良かったんだ。…なんだかんだで刑期が終わっても故郷に帰れず、道中裏稼業をやって作った金で镹安に流れ着いた。」
逃の字のある者というのはどこも雇うのを躊躇する。きつい力仕事ぐらいにしか使ってもらえないが、その時、男は怪我が元で身体を壊し、職にありつけなかったという。
「そんな感じの奴らばかり、川岸でたむろしてたら職と住む場所を世話してやるっていう。それでついて来た。俺と同じようなやつらが定期的に連れられてきてたな。」
男は多少読み書きができ、庶務を手伝うことになったそうだ。居候の者たちのなかでも一番長い、と言った。
「一緒に連れられてきたやつらはいつの間にかいなくなってる。一番酷かったのは…六、七年ほど前になるかな。何十人もいなくなった。治水工事に駆り出された、って話だったんだが、戻ってきたやつはいねえ。」
「顔を覚えてるか。」
「ああ、特徴ぐらいは。…一緒に同じ釜の飯食った仲だからな。」
思遠は部下に分厚い帳面を持ってこさせる。
「これを見ろ。」
そこにはたくさんの男たちの絵姿が挟み込まれていた。
金河の南岸にいた瀚黎を装った伏兵たちと思われる。
あのとき武徳司は検視までしたらしい。戦場では異例のことだ。
当時、靖王が思遠を通じて指示していたらしい。
男は絵姿を前に目を見開き、歯を噛み締めている。
頻繁に戦のある鎮州の兵士でなくても、記録された絵姿の多くが死に顔だとわかるはず。
男は、ゆっくり頁を繰り、絵姿を確認していく。
やがてため息を一つつくと投げ出すように言った。
「…間違いない、皆、寺にいた者たちさ。」
「では、これは。」
思遠はさらに数人分の絵姿を見せる。
それは身体のみの特徴が描かれている。
「この者たちはわかるか。…顔はわけあって失われている。」
「…。」
薄々感じていたことを目の当たりにしたからだろう、男はすぐには頷くことしかできなかった。
思遠は寺に潜入するための準備を早め、人員を追加で投入するよう部下に指示する。
その様子を男はぼんやり見つめたまま、つぶやいた。
「あいつらは…死んだのか?」
靖王は目を伏せる。
「生死は半々というところだ。当時、状況がおかしかったゆえに、密かに記録を取らせた。死んだ者は検視後、現地で簡単に埋葬をしている。生け捕られたものもいるが声を奪われており、読み書きもできなければ証言を得ることができない。今は詔獄の牢に入れられている。」
「…。」
「そなたが彼らの友だったのであれば、寺の内部について話してはくれないか。その死と苦労を無駄にしないためにも。」
「…。」
迷いが見える男に靖王は微笑みかける。
おそらく男は、事件に関わってはいない。だが、知りすぎているため、ついでに消すことにされたのだ。
「…せっかく命が助かったのだし。」
もう一回木箱に入るか?と言っているようにも取られかねない笑顔と台詞だ。彼が誤解されがちなところである。
慧だって靖王はやっぱり少し悪人だと思うのだから。あまり知らない間柄だと脅しにしか思えない。
男が正しくとってくれればよいが。
しばらくして男は口を開いた。
「…執務室に寺男たちの名簿がある。見れば特徴を絵姿と照らし合わせできるはずだ。」
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楼主を尋問したところ、軍匠長の引き渡し予定は案の定、例の異教寺――崇善寺で戌の正刻、とわかった。
媚香楼の鴇母を介し、楼主が連絡係に使っていた者を呼び出す。
難しいことはわからない男なのです、と鴇母は言う。
彼は楼主からの伝言だといえば特に疑わない。受取人らに疑いをもたせず、だいたい次のように伝えてくれた。
少し問題があったが対象の身柄は確保した。
用心のため場所のみ変更し、西市の茶荘で受け渡す――。
茶荘の捕物は思遠に任せ、並行して靖王と衍、慧は『高僧と弟子たち』に化けることになった。
崇善寺に乗り込む前に、皇帝の末弟、紀王の王府に顔を出すという。
もはやバタバタしすぎて訳がわからなくなりかけるが、ここで僧の姿に着替え紀王府の馬車に乗り換えるのだそうだ。
紀王は、宦官粛清事件の後、後宮を出された靖王を預かっていた人物である。
それはそうと、靖王府や興嘉宮、紀王府でも、天竺帰りの美僧たちの雑講が人気を博している、という噂で持ちきりだ。
女官や侍女たちが寄ると触ると噂をし、色めきたっている。
坊主の話か、と興味がないので聞き流していた。よくよく考えればこれは、靖王と衍が化けるための仕込みだったのかと思い当たる。
自分で美僧などとは大した自信だ、と思ったが、実際、紀王府でその姿で靖王と衍が歩いた日には黄色い歓声がやまなかった。尼僧姿の慧は敵意のこもった目でみられ、崇善寺に行く前からげんなりしたものだ。
そういえば最近二人は夜な夜な経をあげている。静懿妃の命日があったからかと思ってたら、この為にも練習していたらしい。こういうところを指して、寧王はくそ真面目と言うのだろう。
この大亮国の皇子ともあろうもの、配下や武徳司にでも任せておけばいいものを。もし知られれば、節操のない、と重臣たちからお叱りを受けそうだ。しかし、靖王は一気にかたをつけてしまいたいのだ。これから春に向けて行事で身動きが取れなくなる。
それにしても。
一日で妓女から尼、煩悩を一身に受け止める存在から俗世を離れた存在へ。演技の振り幅が激しすぎる、と慧は半目になり内心苦笑する。
主は本当に人使いが荒い。
だが本人自ら高僧に化けて潜入するというのだから、主がそのつもりで衍も同行するなら、慧にはついていくほかない。
僧姿の方がいいのではと言ったのだが、靖王が首を縦に振らなかった。
榛色の瞳の女たちを誘拐した者がこの寺の前を引き渡し場所としていただろう?と笑った。もしやお前という囮に食いついてくれるかもしれん。やってくれるか、といい、別の侍衛を一人つけてくれることになった。
あの眠っていた男は、寺の誰が流民を受け入れる係だったかなど、詳細に話した。おそらく長らく不審に思ってはいても、世話になっている身で考えないようにしていたのだろう。自分も危ない目に遭い、驚くほどすべてがつながっていったらしい。
男は、帳簿などの場所を証言した。多額の資金が寺に集められていたことも判明した。
聞けばこの寺は外観は異教寺だが、実態は仏教の一派であるらしい。
靖王は寺の名が再び出た時点で根回ししていた。皇弟・紀王の帰依する高僧に協力を頼み、法会の共催を名目に潜入することになった。本来はそれからの調査のつもりだった。
だが今日は囮の軍匠長の引き渡しがある。
約束の戌の正刻までに、こちらの調査を何とかしたい。法会まであと半刻あまり、そこから戌の正刻まであと二刻というところだ。
「殿下、意外に徳の高いお坊さんの役、はまってますねえ。そうやって衍と並んでると後光が差すようですよぉ。」
思遠がからかうように言った。慧もつい生暖かい目で見てしまう。
こんなのが仏教界に現れたら、みんな諸手をあげて慎みや禁欲をかなぐり捨てるかもしれない。
「うるさいぞ、思遠。」
「不敬な。意外に、は余計だな。」
衍と靖王は同時に思遠に抗議する。
「…とりあえず喉が渇いて腹が減っているがな。それと、さすがに眠い。」
支度の合間に少し素食※の包子などを口にしたきりである。
さすがに僧を装うのに生臭ものや大蒜の匂いをさせるわけにもいかない。
情報によるとこの寺は女人禁制などはなく、ほかの面でもあまり教義は厳しくはないようだが。
「煩悩まみれじゃないですかぁ。じゃあ…痛っ!」
「黙れ。」
思遠が息を継いだところで、衍が容赦なく手にした扇子で殴った。
とてもいい音がした。
「まだ何も言ってないだろ。」
「何か続けようとしたろ。」
思遠は頭をさすりながら靖王に言う。
「雑講や法会なんて開いたら、老若貴賤、無駄に群がってきそうですよ。」
「まあな。」
どうせこの調子でその案はいいな、とか言ってどんどん進めた挙句に今、ここ、なのだろう。
思遠と別れ、崇善寺の門に降り立つと奥から僧や寺男が現れる。
馬車が紀王府のものであることをちらりと確認して慇懃に出迎えた。
「ようこそおいでに。」
「大慈寺の者でございます。帰依なさっている紀王殿下のご紹介により参りました。」
慧が適当に口上を述べる。
もちろん大慈寺と紀王には話を通してある。
紀王は皇帝の末弟にあたり、まだ三十半ば過ぎだ。好奇心がくすぐられてしまったらしく、彼も来たがったのだが、さすがに靖王と側近に止められていた。崇善寺については、怪しい感じがするのだ、と言っていた。
それはつい最近のことで、捜査のためでもある。
だが、ことが明らかになれば、紀王は怪しい寺にお墨付きを与えていたと、影で誹られることにもなりかねない。
それでも紀王は、全く意に介していない。
そういうところは靖王の性格に大いに影響している、と慧は思う。
「お待ちしておりました。」
中年の僧は、靖王と衍に目を瞬いている。
後ろにいる尼僧姿の慧を目にとめると意味ありげに二人に笑いかけた。
何を想像しているのか透けて見えるぞ、とその視線に怖気を振るう。今回は男女どちらに取られてもいいように、かなり中性的に仕上げている。
どうせ慧の事を愛玩物だとでも思っているのだろう。この中年の僧、僧形は仮の姿かもしれん。うん。
じっとみていると、彼は何かに気づいたようだ。
後ろに控える寺男に何事か指示している。寺男はちらりと慧を見ると、下がっていった。
それを横目に衍は靖王を紹介する。もちろんでっち上げだ。
「師父※は後ほど参りますので、我々が先にご挨拶をと参りました。こちらは師父、澄玄の一番弟子でございます。」
衍の口上を受けて靖王が合掌をする。
「お噂はかねがね。皇族出身の徳の高いお方で最近天竺から戻られたとか。」
「紀王殿下共々、こちらの慈善活動にいたく感じ入っておりましてね。本日法会を共催することをご快諾いただき感謝しております。」
靖王は、如才なく応える。
「紀王殿下のご紹介で、皆さまをお迎えできますことは大変名誉なことでございます。お取り次ぎいたしますのでどうぞこちらへ。」
中年の僧が促し、一行は門内に足を踏み入れる。
「…かかったようです。物証を探して参ります。」
慧は、靖王と衍に密やかに声をかけた。
「あの僧たちは妓楼と同じ香の匂いがする。気をつけろ。何かあれば合図を。」
「は。では。」
既に寺内部の灯籠の影や柱の陰に暗衛たちを潜ませてある。
「あのう…厠はどちらに。」
古典的だが腹を下したふりである。
読経に集まる僧たちもそろそろ到着しはじめ、あと四半刻もすれば続々と客も野次馬も集まる。
辺りに潜む暗衛たちに合図を送る。
慧は案内された厠に入ったと見せかけて、尼僧の仮装を動きやすい装束に変え、最後にここの寺男の衣を羽織る。
窓から裏手に誰もいないことを確認すると本堂横の執務棟に入る。
今日は法会の準備で出払っている可能性が高いと、あの殺されかけた眠り男が言っていた。
鍵はかかっていない。
慧は部屋に滑り込む。
香煙が立ち上っている。
媚香楼の香と同じ香り。
鼻を押さえて進む。
隠し部屋があると言っていたが、この奥だろうか。
確かに外観と柱の数が合わない。
聞いていた仕掛けの位置を探す。
目印のものが見つからない。
男も実際入ったことはないので聞いた話だが、と断ってはいた。
緑の置物で飾り棚にある、ということだったが、それがいくつもあるのだ。
一つだけ固定された置物を回すと閂が抜ける仕組みだと言っていた。
――片っ端から試し、やっと見つけた時にはかなりの時間が経過していた。
飾り棚は扉のように両開きになっている。
中は書棚が置かれおびただしい数の書類が。
先ほどまで誰かいたのか、香炉から煙が立ち上っている。
香りは入り口のものとは違う。嫌な感じだ。一応消しておき、すぐに目的の帳簿や寺男の名簿を探すことにする。
男の言っていた場所にも相当数の書類があり、これも手当り次第見ていく。
と、ふと目が霞んだ気がした。
何か混ぜものをした香煙が既に部屋に充満していたらしい。
鼻を押さえたところでずっと息をしないというわけにもいかない。多少は吸い込んでしまっている。
急がなければ。
そして。
ようやくいくつかの物証を探し当てた時。
――別の隠し扉が開いた。
※素食
動物性のものを使わない料理。精進料理。
※師父
師匠のこと。




