《二十二》囮
そして、すぐ朝がきた。
国子監へ向かう馬車の中の面々は皆、ぼろ雑巾のように疲れが滲み出ている。とはいえ誰に見られるわけでもないのに、そう崩れていない。
彼らは外では疲れなど知らないかのようにふるまい、かわらず国に忠実で勤勉である。いつものことながらそのことに驚く。やはり育ちか、と慧はある意味尊敬の目で見てしまう。
思遠に以前ぽろっと漏らしたら盛大に呆れられてしまったが。
曰く、名家に生まれ育った奴っていうだけで、そんなに褒めたものでもない。お前がそう思うのなら、たまたま、殿下の周りがそうなだけだ。まっとうな奴は数が少なくともどこにでもいるさ。
――慧と思遠では責任の範囲が違う。見えているものも違う。
まあ、確かに。明月楼の客にもろくでなしはそれなりにいた。
水至って清ければ則ち魚なし※
という言葉はあまりにも有名だ。人間だからちょっとしたずるをしたり、疲れて怠けたい時もある。
それでも慧は上に立つ者の精神は高潔であってほしいと願う。
できることなら。
「では終了後、寮で。」
「いってらっしゃいませ。」
慧だけ方向が違うので彼らを見送り、算学の学舎に向かう。
「おはよう、計都。」
姜䪭が立っていた。
今朝もとても愛くるしい。
昨日一日のむさくるしさを思えば心洗われるようだ、と慧は眩しく思ってしまった。
「…韶音さま。おはようございます。」
「なんだか疲れてる?クマができてるわよ。」
「ああ、最近立て込んでいて。…殿下や子容さま、思遠さまも皆さま忙しいから仕方ないです。」
姜䪭の瞳がきらりと光ったが、慧は疲れすぎていて不用意なことを言ったことに気づかなかった。
なんせ寝られた時間は半刻ほどだ。それも異変があったときすぐ気づけるように熟睡はしていない。
戦場なら気が高ぶっているから二三日それでもどうということはないが、都では身体も怠けてくるらしい。
「あとで寮に薬湯を届けるわ。…科挙の放榜があったわね。すぐ月灯閣馬球の宴よ。」
姜䪭の声に意識が呼び戻される。
「ああ、そんなのもありましたね。」
科挙の放榜――及第者の発表のことだ。
靖王府の面々が例の銃の件に駆けずり回っている間に、二月はじめに礼部で行われた。
殿試※を行うようになってから、州試や省試※の日程が前倒しになり、放榜後は国を挙げて様々な祝賀行事が行われる。礼部の下官は猫でも借りたいぐらいだと嘆いていた。相当忙しいことだけは分かる。皇族である靖王もそれら行事に臨席せねばならず忙殺されている。
その様子を見て、例の銃の件を急いでいた理由が分かった。とにかく今、時間がない。
そして、月灯閣馬球の宴ももちろん国家行事である。
「靖王府からも組を出すんでしょ。」
「まだ何も決まってないなあ。」
「ちゃんと子容を出してよ。」
慧はつい笑ってしまう。
想い人の勇姿が見たいのか。
姜䪭は当然、南国公家の息女として出席するだろう。
ああいう場は名家の婿探し嫁探しの場としても機能しているようだが、姜䪭は気にしないらしい。
南国公はともかく、奥方は姜䪭の嫁ぎ先を探している、という話が耳に入ってきていた。
(気にいらない男との縁談が進まなきゃいいけど。)
子容――衍が姜䪭をどう思っているのか知らない。
距離を詰められすぎないよう気を配っているのは分かるが、冷たく拒絶しているわけでも気にかけていないわけでもないように思う。
それでも現在、衍は宦官である。苦労するのを分かって娘の親がみすみす許すだろうか。
南国公は磊落な性格のお人とみたが、それとこれとは別だろう。
「…韶音さまがご希望と伝えてはおきます。」
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午後、媚香楼にて。
あらかじめ思遠が手配させていた部屋に案内される。
「この妓楼は初めて来た。」
「左様ですか。私もです。」
「四郎ならそりゃそうだろう。」
寧王も靖王も、長椅子にそれぞれゆったり腰掛けている。
「計画通り、囮に食いついたようですね。」
軍匠長を囮にし、ここしばらく何度か隙を作らせ、今朝あえて監視から外させた。
危険な任務だが軍匠長は武徳司の暗衛である。
以前から周辺で様子を探っていた男たちが動き出した、と別につけている暗衛たちから逐一報告が上がってくる。
そろそろ妓楼の昼の営業も始まる。
あと少しもすれば役者と舞台がすべて整う。
「腹が減らないか。」
「兄上…あとにしてください。」
紅紅と明月楼の鴇母が来た、と思遠の配下が知らせに来、変装した二人と荷物持ちの男衆一人が姿を現した。
「ご苦労。知らせていた通り、紅紅と夜珠はここの控えの間で支度してもらう。」
「かしこまりました。では。」
四半刻ほどで、妓女姿の支度が出来上がった。
中級妓楼らしく紅紅好みの派手な拵え。
しかし。
このすかすかの残念な胸元はどうにかならんのか。自分のような者には難しい衣装である。紅紅のような豊かな曲線と柔らかさを持たず、闘鶏のような身体なのだからと思う。
できるだけ襦の打ち合わせが深く重なるようにし、調整していると、鴇母がいい感じに直してくれた。
「できましたわ。」
「気合が入ってるな。」
「腕によりをかけまして。」
鴇母がにっこりと笑い、どうぞよくご覧に、と妓楼の客にするように芝居がかった様子で促す。
「美しく着飾ることは女にとって鎧と同じでございます。ねえ、夜珠。」
「…。」
慧にとっては、鎧を着ている落ち着き感は全く感じられないので賛同しようもなく、それで黙っている。
水場に戻れない亀の気持ちを語るなら、こういう感じではないかと思う。
「着飾らせるとそういう顔するのは習性なのかな。困った奴だ。」
靖王は人を野生の獣みたいに言う。
腹が立つが、自分も散々、心の中で靖王を同じように扱っている手前、かえって藪をつつくことになりそうで反論はやめておいた。
「もうそんな顔して。さあ、行くわよ。」
慧はこの妓楼に入ってから妓女・円円の動向をうかがっていた。
媚香楼の鴇母が部屋を巡回するのに、ついでに新入りを伴っている風を装った。廊下から注意を引かないよう様子をうかがってみたが、円円から鴇母に助けを求めるなどの動きはなかった。
円円は鴇母よりよほどこの事件に関わっている。
もう十分様子は見た。円円の選択がどちらかわかれば、これ以上無理に接触する必要はない。
もし脅されているならと思ったのだが。
これでこちらも計画を進められる。
そう、各所で計画が進んでいる。
そろそろ網にかける頃合いだ。
その部屋の様子を聴いていた靖王が合図をし、皆配置につく。
妓楼で盗み聞きとは、若干悪趣味だが、昼で非常事態だ。機会を読み間違えれば命が失われる。
動きがあった。
楼主が楼閣の最上階の角部屋に入っていく。この部屋が円円の部屋らしい。陳軍匠の接触者と会っていた声に特徴のある男が、入れ違いに階段を上がってきて、反対側の角の部屋に入った。
これを皮切りに。
男たち――おそらく馬軍匠の周辺で軍匠たちに接触していた二人が、囮の軍匠長を連れてきて、円円の部屋へ。
円円の部屋と反対側の角部屋をつなぐ回り廊下は、陳軍匠とされる者の転落事故があった場所と同じだ。
軍匠長が円円の部屋に入って四半刻足らず。
影が高楼の手すりにまとわりついたかと思えば衣を翻して―――
何か大きなものが潰れるような音がした。
慧たちは階段から回り廊下に走り寄る。
下から響く悲鳴。と同時に。
高楼の廊下で、のどを締め付けられるような女の、甲高い叫び声が響き渡る。
妓女・円円の部屋の扉が静かに内側から開き、何者かが左右をうかがっている。
紅紅にはそれが接触者の男たちだと確認できたのであろう。
階段下に潜む者たちに合図を送る。
接触者の男たちは、廊下には叫ぶ妓女たち以外に誰もいないことを確認しているようだ。酒に酔ったのを支えている体を装い、ぐったりした様子の軍匠長を運び出そうとする。
そうかと思えば反対側の部屋から焦ったように誰か出てきた。
道に面した方を指し叫ぶ。
「おい!おかしいぞ!俺たちはまだ落としてない!」
特徴ある声だ。
そこへ一気に屋根から階段から天井裏から、武徳司の者たちが取り囲み、刀を突きつける。
「な…。」
「中にいる妓女と楼主も捕らえろ。」
楼主は露台から逃げようとしていたが包囲していた者に捕まった。
慧と紅紅は騒ぎを避け、階下に戻った。
ちょうどよい頃合いで思遠が戻ってきて声をかける。
「一網打尽だ。角の部屋へきてくれ。」
「うまくいってよかったですね。」
軍匠長は無事救出され、酒と薬の影響は少しあるものの、問題はないと思遠は言う。
「媚香楼の鴇母のおかげだな。」
慧と紅紅の喉はしわがれてしまっていた。
「すごい声だな。…ご苦労。」
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反対側の部屋の木箱には眠る男が隠されていた。
呼びかけても起きないが脈はあり、息もある。
彼には陳軍匠の時と同じ鎮州での軍歴を表す刺字が手の甲にあった。
逃亡兵を表すものも入っている。
ただこれも以前の事件と同じに、火傷になっていて判別しづらい。
捕らえられた男は頭巾を脱がされて後ろ手に縛られている。
この男は、ここに長期に逗留していて西の商人を装っており、人間もすっぽり入りそうな木箱をいくつも持ち込んでいた。
「妓楼では濃く香をたく者も多いと聞くが、この部屋の香の匂いはきつすぎるな。」
寧王は靖王に同意を求めた。
「ええ。この階に上がった瞬間、違和感がありました。――香りの向こうには、嗅いではいけないものの匂いがする。」
靖王が鼻をすんと鳴らす。
「――死臭ですね。それに、こぼれた血が腐敗した匂いを放っている。この木箱から。」
全く嫌なものの匂いを嗅がされた、とばかりに靖王は鼻にしわを寄せた。
紅紅が男の前に立つ。
「あんたは気を失わせた人を隠して運び出していた。…顔を潰した死体を用意するのも同じ方法ね。」
男は武徳司の者によって自害せぬように猿轡をされた為、首を振るばかり。
「ここの部屋にずっと住み着いているわよね。…以前とは調度の位置が変わってると報告が上がっているわ。」
紅紅は男衆に合図して、眠る男の入っていた木箱を動かさせる。
男の顔色がさっと変わった。
木箱があったところには、赤黒いを通り越したなんとも形容しがたい色のシミができている。
それは今できたものではないことは明らかだった。
顔を潰した死体を高楼から落とし、騒ぎになった中であれば。
どさくさに紛れて軍匠たちを気を失わせ、この部屋に連れて来ても、誰も気づかない。
後で、運び出せば露見しない。自害と思わせ続ける限り。
「父と、兄をどこにやったの。馬軍匠はどこへ連れて行った?黄軍匠はどうして死んだのよ…!」
紅紅は男の胸ぐらを掴んで血を吐くような声で叫んだ。
慧は紅紅をなだめて部屋の隅に連れていき、女将に預けた。
それから、慧は眠る男に近づく。
「おい…。」
頭髪は整えられ、内衣にさせられているがその生地は悪くない。
だが、日焼けした身体や顔のあちこちに長年の苦労がにじんだ様子に違和感があった。
袖をめくり、褌の裾をめくってみる。
手首は擦れて血が線状に固まっていた。
襪※には血が滲んでいて、めくると足首には手首と同じ様に擦れて血が出ている。
「縛られていた跡が。拘束されてから抵抗した跡でしょうか。」
慧は陳軍匠とされる遺体の検視結果を思い出す。
この男は気を失った状態で入れられている。
前回はどうだか分からないが今回は、午前に囮の軍匠長が監視を外れたことに気づいてから、新しい死体を準備する時間はなかったはずだ。身投げで死んだと偽装するためなら、殺して時間が経った遺体ではいけない。それだと簡単に見破られてしまう。
遺体は、死後一刻もすれば硬直が始まることが多い。
やがて腐敗が進めば硬直は緩むが、今度は臭気で露見する。
人を入れた木箱は重い。布袋でも、意識を失っていれば、かなり重量を感じる。嵩も高く人目につくはずだ。
顔を潰していれば血も相当流れる。
木箱が密閉されていたとしても、階段を上がるときなどに多少なり血痕が落ちないだろうか。
顔を潰して殺したのはこの部屋というのが妥当だろう。
過去の事件と照らし合わせても、眠っている男はここで今から顔を潰して殺害されるところだったということだ。
あれこれ考えはするが、この男を目覚めさせた方が早い。
慧は、眠る男の口元に顔を寄せる。
部屋の香や木箱の死臭に混じって、嗅いだ覚えがある匂いを感じるが何か分からない。
「四郎さま。なにか嗅いだことのある匂いがします。」
「は?…俺に嗅げというのか?」
当然だろと思いながら頷く。
常人離れした五感はぜひ使うべきだ。高貴の身であっても。
靖王は不快そうにしながらも木箱に寄る。
「それほど近づくまでもない。…天仙子※だな。」
「…誘拐事件と同じですね。」
靖王は慧をじっと見る。
西の者、天仙子。
「どこかで意識を失わされ、顔を潰されても起きないが死なないような量、というのは難しそうですね。」
「計算が難しい。薬に通じているもの、死体の時間経過による状態の変化をよく知るものが協力者にいる。」
そして、顔を潰す…。
そういえば。
「四郎さま。あの死んだ伏兵って、喉から頭を撃ち抜いていたのでしたか。顔はどうだったのですか。」
「後頭部ほどではないが、誰かということは判別しづらい状態だった、と聞く。…ともかくこの男の蘇生を。伯安を呼べ。」
伯安は階下の支度部屋にいた。
口元の匂いを嗅ぎ、瞳孔を見、脈を見、鼓動を聞く。
「氷を。」
媚香楼のものに命じて持ってこさせると、眠る男の頬に当てた。
わずかにまぶたの下の目が動く。
「目覚めるのにあと半刻ほどといったところでしょうか。意識のない状態で運び出すより、武徳司の監視のあるここで状態を管理したほうがよいかと存じます。」
靖王は伯安に何事か耳打ちする。
伯安はもう一度匂いを嗅ぐがよくわからなかったようだ。
「まあ私にわからなくても若さまの感覚はたしかです。韶音さまにも見解をお聞きしたいが、さすがにこんなところにはお呼びできませんね。」
半刻が長く感じられる。
しかも死臭のある部屋で。
「だんだん頭が痛くなってきたな。」
「…お茶でも飲みます?」
感覚が鋭いのなら確かにこの場所は苦痛かもしれない。
慧が言うと靖王は呆れた顔をする。
「こんな部屋で飲めるか。帰ってからでいい。」
「…ですよね。」
ここは戦場ではないのだから。
※水至って清ければ則ち魚なし 人至って察なれば則ち徒なし
=水清ければ魚棲まず 人至って賢ければ友なし
あまりにも清廉な人物は、かえって人々から疎んじられてしまうということのたとえ。『コトバンク』
『漢書(東方朔伝)』『大戴礼記―子張問入官』『宋名臣言行録』『孔子家語‐入官』より。
※殿試
科挙の最終段階の試験として、皇帝が問題を作問し、皇帝の面前で試験を行う。
『世界史の窓』
※州試
第1段階の試験で各州で行われるものを州試といった。首都とその周辺の特別州である府での試験は府試という。科挙は3年に1回、その第1段階である州試は、子年・卯年・午年・酉年に、地方の州ごとに一斉に、3日間かけて行われた。これに合格したものは挙人といわれ、省試の受験資格が与えられた。
『世界史の窓』
※省試
都で行われる科挙の第2段階の試験。州試の翌年に実施される。礼部の管轄下で、3日連続で行われた。合格者は最終試験である殿試を受験し、合格者は序列をつけられて「進士」=官吏候補生となる。
『世界史の窓』
※襪
靴下的なもの。基本的には寝るときも履いている…はず。
※天仙子
菲沃斯の種で、麻酔や鎮静に用いられる生薬だが毒性が強い。




