《二十》媚香楼
「着いたぞ。」
思遠の顔から笑みがすっと消える。
きらびやかな女たちが出迎えた。
「ここの鴇母はいるかな。」
「若さま、いらっしゃいませ。どんな妓女をお好みですか。」
「ああ、遊びに来たんじゃない。――武徳司だ。」
媚香楼の鴇母は美にしがみついているという様子の、五十前後の女だ。しわの目立ちはじめた、しかし必死で手入れしているのであろう首元に、派手な首飾り。
鴇母は令牌にさっと顔色を変え、門の横の部屋に二人を通した。
「うちは何も…武徳司の方がいらっしゃるような悪いことなんてしちゃおりませんよ。」
そうはいっても法をかいくぐっての悪事は妓楼界隈には多いということを慧は知っている。
人間のあらゆる欲が集まるところなのだから。
「そうかい。悪いが今晩の用はただの人探しだ。…この男たちを見たことがあるか?」
「この人は一時はよく見ましたね。六年ほど前かしら。」
鴇母は馬軍匠の絵姿を指して言う。
「妻の故郷に行くと言っていたのに直前で、奥さんを離縁したそうですよ。」
若い軍匠は見送りの時にはそんな気配はなかった、と言っていた。
「ひどい話だと思っていたら随分財産を分与してもらったようね。妓女たちが噂していたからよく覚えてるわ。…でもその後見なくなったわね。」
大体軍匠たちの話の通りだ。
「ではこの女は?」
元妻の絵姿を見せる。
「…この界隈で見かけたことはありますね。」
「こっちは?」
試しに陳軍匠の接触者が会っていたという男の絵姿を出してみる。
「この方については先日も別の方が聞いていかれました。西の方面を行き来している商人だそうで、長く最上階の角部屋にご逗留です。」
「案内しろ。」
「お客様がいらっしゃればお繋ぎすることができますが、不在であればいたしかねますわ。ここ二三日はお留守です。」
鴇母はやんわりと笑みを浮かべる。
「いつも一月ぶん宿代を前払いされるので、うちとしては大切なお客さまなんですの。色々な殿方と部屋で会っていらっしゃったから、そういうご趣味かと男娼をお勧めしたこともあったけど、断られましたわね。」
鴇母は何がおかしいのか、ほほ、と甲高く笑った。
妓楼ならではの冗句の一つか。
「最近はうちの古株の妓女がお気に召したようで、よく宴席にも呼んでいただいていますわ。いまひとつ稼げない子で、そろそろ別の妓楼に売ってしまおうかと思っていたのにね。思いがけず金を生む妓女に化けましたわね。」
こってりと赤い唇が、にいっと口角を上げ笑みを形作る。
「…。」
そういう場合、行き着くのはより下級の妓楼で、そういうところでは伎芸よりも、ひたすら身体を壊すまで客を取らされる。
思遠が一瞬こちらを見た。
「大きな荷物のお届けなどは定期的に出入りがありますわ。いわばここが都の支店のようにお使いです。こちらでやるから掃除には入らなくていいと仰るし、宿代はもちろん花代や心付けも弾んでくださるので楼主が良しにしろ、と。」
「鴇母は楼主とはどういう関係なんだい?」
これは潜ませてある武徳司の者からも報告が上がっているが思遠はあえて聞くらしい。
鴇母の表情に一瞬感情の揺れが見えた。
「…いえ、私などただの雇われですわ。妓女上がりでございますから。」
ずいぶん控えめなものだ。鴇母は楼主の女、というのはこのあたりの公然の秘密である。道中思遠から聞いた。
しかし楼主は別の若い女に心を移しつつあるらしい。それでも馴染んだこの鴇母の手腕を手放すのは惜しいらしく、時々通ってきては泊まっていく。
「その客とこの者たちが接触しているのを見たことがあるか。」
試射専門の軍匠たちから聞き出した接触者と、陳軍匠の接触者の絵姿を指して問う。
「どうだったかしら…ああ、この二人は廊下で話していたのを見たことがありますわ。」
試射の軍匠たちに接触していた者二人の方だ。
「何か言っていなかったか。」
「あんまりよく耳にする言葉じゃなかったですわね。なんでしたかしら――そう、射手、とか。」
「どんな感じで会話してた。」
「面識がありそうな感じはしましたわ。知り合いなのねと思った覚えがあります。」
「こっちは?」
陳軍匠の接触者の方の絵姿を指し示す。
鴇母は少し考え込んでいる。
「…数年前よく来ていましたわね。最近になってまた見かけるわ。この人も先ほどの二人も泊まり客ではないのだけどよく似た匂いがするから覚えていますわ。」
「どんな。」
「はっきり同じではないと思うのだけど…香なのかしら。異国の。でも何か別の匂いもするのよね。」
何の香だろう。
「そういえば楼内も似た匂いがするときがあるわね。上に行くほど強いような。」
ここでついた匂いということだろうか。
靖王を連れてきて嗅がせれば分かるだろうか。なんせ耳ほどではないが鼻もよく効く。
捜査に使う犬並みの扱いで、本人が聞いたら流石に怒るだろうか。
「角部屋の客に侍っていた妓女は名をなんという?話を聞きたいんだが。」
鴇母はねっとり纏わりつくような視線をよこし、赤い唇をほころばせる。まるで虚勢のようにもみえなくもない。
「あの妓は円円といいます。今、来客中なんですの。今宵はお泊まりですから、無粋なことはできませんわ。ご理解を。」
分かるでしょ?と鴇母は目配せした。
「だろうな。誰が今夜の客かも把握してる。」
思遠はそれににこりともせず冷たい目を向けたままだ。
「そういえば、ここの高楼から身投げが続いてるな。」
鴇母がひきつけるように息を呑んだ。
来る道中、これも思遠が慧に教えてくれたところによると、陳軍匠の件は除いてすでに二件ある、ということだった。
「…。あれは、本当に迷惑でしたわ。人手もお客も減ったりして大変でしたのよ。もうないことを願ってますわ。」
思遠は鴇母の後ろの壁に手をつき、上から顔を覗き込むようにする。
慧からは表情が見えないが――。
「楼主は円円の部屋で、朝まで出てこないな。」
「…。」
「――いいか。今から言うことを明日までに手配しろ。できないなら今、有無を言わせず踏み込むが?」
最中に踏み込むとか、それは勘弁…と慧は思ったのだが。
空気が変わった。
――思遠はいったいどんな表情をしているのか。
「――どうする?」
鴇母は気圧されたようにその顔から笑みを消す。
「ええ、ええ、必ず。」
そういえばこれまで思遠が武徳司の仕事をしているところを見たことがなかった。
なぜかかわりに慧が愛想笑いしてしまったが、逆効果だったようだ。
思遠は慧を笑顔で振り返ったかと思えば、こっそりよくやったと合図を送り、鴇母にいくつか指示をした。
「この事は事前に楼主や妓女に話すな。逃亡されては困るからな。その妓女は重要な証人だ。…この妓楼にも武徳司の耳がいる。漏らせばあんたも尋問対象にする。」
詔獄や武徳司の獄吏の尋問は苛烈で有名である。
拷問の後遺症が残ることもあり、尋問中の獄死も無くはない、と聞く。
おそらく鴇母は詳細を知らない。
だからこそ、鴇母の目にはぎりぎりの迷いがあるのだろう。楼主にこのまま協力するのかどうか。
思遠は鴇母の目を覗き込んだまま、さらに顔を近づける。
「――逃げられると思わないことだな。忠告しておこう。無駄に生命をすり減らすことはない。」
媚香楼の鴇母は、思遠の言葉に流石に青ざめた。
「このままだとあの楼主に巻き込まれて、早晩、首と身体が二つに分かれ刑場の露となるだろうな。…ここで損切りしたらどうだ?若い女に走った裏切り男に、あんたがそうも義理立てしなくてもいいんじゃないか。ここの権利は手にしてるのだろ?」
思遠はきっと慧に見せたことのない、酷薄な笑みを浮かべているのだろう。
鴇母は紙のようになった顔色で表情を強張らせたまま、黙って頷いた。




