《三》青楼の胡姫 中
明月楼は三階建てで、通りに面して五階建ての楼閣を擁し、中庭をぐるりと囲んで回廊と部屋がある作りだ。
中庭に面した階段を登っていくと上から、琴と歌が聞こえる。琴は女性が弾くには力強く感じられる。その琴の音に支えられて、歌声は低い時はよく響き、高い時は澄んで遠くのびていく。
なるほど迦陵頻伽とは決して誇張ではない。少しづつ近くなるその琴の音と歌声に誘われるように、楼閣の最上階へと案内されていく。
まだ時間は早いが紅燈灯に火が入り、薄暗い中庭と回廊を照らしている。この時間だと料金が高く付くらしく、客はさも金と暇のありそうな者ばかり、上の階へ行く者は特に富裕の者。それが叶わぬものは、中庭で妓女を侍らせて茶を飲んでいる。だが、それだって大変な贅沢なことだという事は、門外漢の四郎も一応知っている。
若造二人が上の階へ上がっていくのが気になる、いや面白くないのだろう、いくつもの絡みつくような視線を感じる。こういった高級妓楼では表向きには妓女の高い知性と教養を一番の売りにしているから、客層は悪くはないと言われる。だがその視線はあまり気分の良いものではなかった。
禿は三階から建物の角にある階段を使い、さらに登っていく。その”迦陵頻伽”の部屋は最上階の見晴らしの良い場所にあった。音はこの部屋から聞こえていたのだった。
「書寓。三郎さまがおいでです。」
琴と、歌声がすっとやんだ。
「お通しして頂戴。」
女にしては落ち着いた低い声が、そう命じている。兄について奥へ進みながら、さりげなく室内を観察する。
まず、やたら書物ばかりある事に違和感がある。書名にも目を向けると、経書から史書はともかく、詩集に小説や本草書、算術書、医学書まである。圧倒的に多いのが兵法書や武器の図録だ。『孫子兵法』など武経七書は基本として、『武備志』に『紀效新書』等々…。そしてそれらだけ妙に年季が入っている。
この部屋の主の趣味だろうか。小説は武侠ものや戦記もの、詩集も勇壮なものを集めたものが多いことに気づく。
いくら高級な妓楼、知性を売りにする妓女、といえど似つかわしくない気がした。
兄の言葉を借りるなら『色気がない』とでも言おうか。
―――これは妓女、才女の部屋ではない。
戦場を知る者の部屋ではないか?
通された奥には、若く背の高い女が一人。
拱手の隙間から、その顔がちらりと見えた。目を伏せているようで静かにこちらの様子をうかがう瞳が、どこかで見た野生動物の様で印象的だった。
ではこれが歌の主か。琴もこの女の演奏なのだろう。
顔立ちは、鼻筋が通り少々彫りが深いが、この国の平均的なものからかけ離れているわけではない。胡人の血でもひいているのか、すべての色素が薄い事以外は。白い肌、暗い茶色の髪、それに榛色というのだろうか、青みがかった薄い灰茶色の瞳。古くから様々な人種が往来するここでは珍しくはないかもしれないが、ありふれてもいない。
ここしばらく、自分が探している人物に似ている。見た感じの年齢も性別も違うから、もちろん別人だが。
「書寓は今日も調子が良いようだね。」
女は三郎の言葉に薄く微笑む。
「お待ちしておりました。」
「文で伝えていた四郎だよ。」
兄は振り返り、こちらを示して言った。説明もなくここに連れてこられたので、さっぱり目的がわからない。
「初めてお目にかかりますね。」
彼女は優雅に礼をとったが、わけがわからないので会釈だけする。とりあえず居心地が悪かった。ここにいるということは妓女なのだろう。だが階下にいた女たちとは何かが違っていた。
「わたくしは明月樓の書寓、夜珠、と申します。」
あれ、と意外に思い、つい口に出していた。
「…『不愁明月盡,自有夜珠來』※(美しく明るい月が沈んでも心配しなくていい、夜を照らす真珠があらわれるから)…でしたか。その呼び名は、自分で?」
夜珠と名乗った女はちょっと驚いたようで、まじまじと四郎の顔を見た。
「え、何々?女性を口説く前に、学のないお兄様にも、分かるように説明してくれない?」
「またそのような…兄上が覚えていなくても、有名な詩ですから。」
「…よくご存知で。希望のある感じが好きなのです。」
夜珠はそれ以上は言わず、静かに紅色の唇の端だけを上げた。
「詩かあ。どうだったかなぁ。」
兄は気のない声で首を振り、夜珠は、ふふ、と笑い声を漏らした。
場を上手く繋ぐための笑み――その奥に、わずかな照れが混じった気がした。
「三郎さま。先だっては私の進む道にお口添え頂き、ありがとうございました。」
夜珠は改まって兄に頭を下げる。
「礼には及ばないよ。才あるものは大事にしないと。励むのだね。」
「はい。」
兄が珍しく『ちゃんとした』笑顔を浮かべたのも印象的だった。
「せっかくだから、琴をもう一曲所望しようかな。」
「はい。」
「下で、準備ができた、と聞いたよ。」
「紅紅の件ですね。年明け早々の手はずになっております。」
夜珠は琴の前に座り、そう言うと調弦する。妓楼で話すような内容ではない事務的な匂いがして、違和感はあった。が、口出しする必要もないので、室内の観察を続ける。
ここが妓楼でなければ、国子監出の武官あたりの書斎と間違えそうな部屋だ。高価すぎず、趣味の悪くない硯をはじめとした文房具が置かれた書卓、その上に山積みの書籍。文鎮と水滴がわりの物は西域の名産である彫刻の入った青い着せの玻璃製で、珍しいものだ。古い時代の交易品だろう。これだけは誰かの贈り物か、高級妓女と言えども持つには高価そうだった。
大切にしているのだろう、古いものだが常に磨かれている様子だ。
禿が茶を勧めてくれたが、側近がいない時は外での飲食はしないことにしているので、茶の香りだけ楽しむことにする。
だから夜珠が琴を弾きはじめると、つい、じっと見つめてしまったのだった。
先程思った通り、随分と大胆な弾きぶりだ。
荒いのではない。
手が大きく力強い音色が出せるから、表現に幅がある。
こちらの不躾な視線に気づいたのか、ふ、と目線を流して寄越した。
暗い部屋でも映えるよう、顔はきっちり作ってある。
玉の光沢の出る白粉が薄くはたかれ、弓のような弧を描く眉、長く濃い睫毛に縁取られた榛色の瞳。
目尻と唇に鮮やかに紅が差され、前髪を分け秀でた額を見せ、そこには紅い花鈿が施されている。
飾りはごく控えめだが質も趣味も良いものを身に着けていた。
階下や入口近くにいた女たちと違い、肌は露出していない。襟元には絹色の汗袗にふっくらとした上等の絹地の襦の襟をきっちり合わせ、胸高に着けた裙に、大袖の褙子を羽織っている。
内側から虹の様に複雑に発光する、呼び名のとおりの、夜の真珠のような姿がそこにあった。
触れるどころか、無駄話をすることも許されない。そんな覇気のようなものを感じた。
「四郎?」
自分には、世間一般に言われる、人の『美醜』がよくわからない。
それだけで心を揺さぶられることはない。
ただ。
――この女が見ている世界を、一度でいいから覗いてみたいと思った。
※不愁明月盡,自有夜珠來
初唐の詩人 宋之問の詩『奉和晦日幸 昆明池応制』(「晦日 昆明池に幸す」に和し奉る 応制)の一節




