《二》青楼の胡姫 前
都、镹安の城内、東の平康坊。
「こっちだよ。」
青漆で塗られた楼閣を見上げ、手招きする兄とを見比べ、ついつい非難の目を向けてしまう。兄の肩越しの扁額には、”明月樓”とあった。
「…やっぱり青楼ではないですか。冗談ではありませんよ。」
この兄はしばしば、こういう悪所に出入りしている。自分は断じて、いや多分、ここに用はない。
「そうとも〜妓楼だよ〜。」
粋に装い、へらへらと笑う兄を殴りたくなる。実際殴るわけにもいかないので、ただ拳を握りしめるだけで精一杯だ。
「前にも言いましたが、私は女性が苦手ですので。では!」
踵を返してとっとと脱走しようとしたのに、兄は意外に素早く胸ぐらを掴んでくる。その手の動きは、ちゃらんぽらんな兄とは思えないほど隙がない。
この兄は日頃はせっせとそれを装っているのだが、実はそれなりに頭が回り腕が立つ、と自分は見ている。
市井の者に身をやつし、さりげなく街路に溶け込んでいる兄弟それぞれの護衛たちは、それを知らず困惑していた。
「またまた〜。そんなのお兄さまには通用しないよ。お前、碁で負けたら言う事聞くって言ったよねぇ?」
ぐしゃぐしゃと前髪がかき乱される。
いつもと違う風にわざわざ整えたというのに。
「確かに言いましたが、このようなところに連れてこないでください。」
「え?なんでよー?なんでも聞くって言ったよねぇ?」
「う…面倒は勘弁してくださいよ。」
渋々留まり髪と襟を直すと、すぐ上の異母兄はにんまりと笑った。庶子※の兄、一応嫡子※の自分だが、兄は昔からそんなもの意に介していない。二人のときはいつもこの調子だ。自分も幼い頃からそういうものだと思っているし、何も問題はなく、嫌いでもない。が、外野はともかく言う者もいる。
「はじめから素直にしてればいいんだからさぁ。本当にお前は、くそ真面目で、くそ面白みのないつまんない男だねぇ。せっかく、全てを平均以上に持って生まれたというのに、残念な。」
「はあ…。別に真面目ではありませんが。」
勝手に残念がられても。兄と自分の資質に大した違いがあるとは思わないが。むしろ知力では敵わない。碁だって勝てるのは五戦に対して二程度だ。
兄はつまらなさそうな顔のまま、周りに目立つ妓女と客の男たちを見回し、ふんと鼻で笑う。
「ここ平康坊の青楼に上る者たちは、真実の愛を探しに来てるんだってさ。…見つかるか知らないけどね。」
青楼という言葉は元々は高官の屋敷を意味していたがいつの間にか妓楼を意味する言葉になったと聞く。
平康坊は首都の東市西隣に位置し、近辺に高官や皇族の屋敷が多いことから、最高級の青楼、つまり妓楼がいくつもひしめいている。
行き交う男女も、見るからに妓女とその客がほとんどのようだ。
「好きでもない女と政略結婚のあげく、それ、とは哀れだよねぇ。」
「はあ。」
兄は珍しく皮肉げな顔を表情を浮かべているが、こちらこそが本当の顔だろう。兄自身も含めて言っているのだろうか。
兄が今年、娶った正妻とは確かに政略結婚である。
家内の行事などで談笑しているのを見ると、政略結婚のわりに、うまくいっているように思う。自分の思い違いだろうか。側室も含め妻帯していない自分にはよくわからないので、そのまま受け流した。
「迦陵頻伽に会ってみたくはないかい?」
「天上に住まう美声の半人半鳥というあの?この世に本当に存在するならば見てみたいものです。」
いつか見た壁画の、極彩色の姿を思い出す。
どうせ歌の得意な妓女なのだろうが、不本意ながら少々興味がそそられてしまった。
「ふふ、気になるんだ。」
そこへ艶やかに装った女たちから声がかかる。
「あら、三郎さま。」
また凡百の偽名を名乗ったものだが、放蕩者としてはぴったりかもしれない。
明月楼から出てきた女たちは高々と結い上げた黒髪に簪をいくつも挿し、羅の帔帛※や羅衫※を身に着けている。要するに肌が透けて見える。
毛領などを着けている者もいるにはいるが、冬である。風邪を引かないのだろうか。口に出せば、顔に似合わない爺むさいことを言う男だな、とまた兄にどやされた。
あたりには濃い脂粉と香の香りがたちのぼるようで、密かに眉を寄せてしまう。
「ああ、紅紅。しばらくぶりだね。今日もひときわ、艶やかだ。」
兄の表情がここ向きのものに変わる。色男を気取っている金持ちの放蕩息子、といった具合だ。それが妙にハマってるから始末が悪い。
庶子と言えども身分があるというのに、兄の言葉は市井の者の様だ。それでいて、場によってはちゃんと態度を変えてくるのだから、食えない。
「もう。三郎さまこそ今日も佳い男っぷりですこと。また紅珠書寓のところに遊びに来られたの?」
紅紅はそこで言葉を切り、視線をよこしてくる。
「それに…これまた随分と男前の若さまをお連れね。」
「そうなんだ。紅珠にはあとで行くと伝えておくれ。」
「かしこまりました。」
紅紅は出で立ちこそ派手で口ぶりも艶やかだが、ほかの妓女たちと異なりどことなく品のある妓女だ。
「あまり遅くならないうちに行くよ。」
「ええ。…ところで類は友を呼ぶとはこの事ね。お二人できらきらと、目立っていらっしゃるから、よその妓楼の妓女にちらちら狙われていますわよ。ご覧になって。」
彼女の口ぶりにあんまり目立つなよ、と嗜めるような雰囲気も感じたことが印象的だった。
紅紅の視線が指した斜め向かいの妓楼の方を見やると、これはあまり品のない妓女達の一団。こちらを見ては囁きあったり媚態を振りまいていて、昼間からげんなりさせられる。
「いや、ちょっと、こいつの用で来たんだよ。」
「はあっ?」
いいから口裏を合わせろと、こっそり背中を突かれる。
「あ、ああ、そうなんです。」
「あらそうなの、残念だわ。お兄さんは何の御用なのかしら。」
紅紅は茶目っ気を出したのかお手本のような流し目をくれる。
「ちょっとここでは言えないが紅珠から聞いてくれ。」
兄が代わりに答えると紅紅はそうなのね、と覗き込む。
「はあ。」
曖昧に返事すると紅紅はこちらに向かって艶やかに笑った。かと思うと今度は上目遣いで兄に視線を送り肩をつついている。
まだ酉の刻にもなっていず、明るいというのに。
「ねえ三郎さま、ところで他の妓楼にもたくさん馴染みがいるって、本当かしら?姐さんに申し訳ないと思いませんこと?」
紅紅は若干芝居がかった様子で兄に説教している。
「そりゃたまには違うところもいくけれど、ここには紅珠と紅紅がいるからねぇ。またゆっくり遊びに来るよ。」
「あら、お上手ですこと。まあ、いいわ。ご依頼のものは夜の|書寓に託してます。」
「夜…。」
奇妙な顔になりかけた四郎に紅紅はにっこり頷く。
「ええ。…それと、例のもの、準備できました。またいらしてね、三郎さま。可愛いお友達もご一緒に。」
紅紅は急に口調を変え事務的に伝えたかと思うと、例のもの、で意味ありげに流し目をくれ、うふふと笑みを残して言った。
こちらも子供ではないのだから赤くなったりはしないが、どうにも落ち着かない気分にはなる。
例のもの、は九割ろくでもない物だろう。兄の言う”例のもの”はろくなものだったためしがないのだ。
それに、可愛いとは俺のことか、とうんざりする。昔からこの手の女に可愛い可愛い言われがちであるが、久しぶりに言われて非常に不本意だ。既に加冠して今年十八、身長も六尺を越えようかという立派な大人なのだから。
納得できないが、何とか顔には出さず、兄について楼内に入る。両脇には芳香を放つ大きな梅の木の鉢が並べられている。早咲きの紅梅に鉢は春の野に遊ぶ小鳥が描かれた青花瓷、枝ぶりも見事だ。
婆と言うには早すぎる、化粧の濃い女が出迎えた。この明月楼の鴇母だろうか。
「若さま、ようこそ。」
「ああ鴇母。久方ぶりだね。」
「こちらの若さまが、文でお知らせいただいたお方でいらっしゃいますか。」
女は若い頃は相当な美人だったのだろう、自信に満ちあふれていた。今も年齢なりに『美しい』のだと思う。ただその瞳は抜かりない光に満ちていた。『美しい』女が、その笑顔の下でこちらを様子を探り値踏みしてくる様は、よく見知った光景である。
「そうなんだ。…弟で四郎という。今後よろしく頼むよ。」
『四郎』は自分の偽名らしい。今知った。
「この明月樓の鴇母でございます。」
「ああ…よろしく。」
兄がちゃんと受け答えしろとばかりに足を踏んできたが無視する。
「知らせておいた通り、こちらの迦陵頻伽に会いたいのだが、居てるかい?」
「あらあら、まあまあ。書寓には最高の褒め言葉ですわね。楼上でお待ちしておりますよ、どうぞ。」
書寓とは才芸と教養を売る最高級の妓女である。やはり思ったとおりだった。
鴇母は嫣然と笑み、そこに控えていた垢抜けないふうの禿を振り返る。
「緑珠、書寓のお客様だよ。お前ご案内しておくれ。」
※庶子
側室、妾の子
※嫡子
嫡妻=正妻の子
※帔帛
ショール
※羅衫
オーガンジー様のブラウス的なもの




