《十一》傲雪
靖王は暇つぶしにその辺の櫃子の引き出しを開け閉めする。
幼いころここの引き出しを片っ端から開けて遊んで、乳母の張媽媽に叱られたものだ。
「あれ?」
「どうかなさいまして?兄さま。」
開けた引き出しにはたくさんの紙――文だろうか。人の文を見るなんて普段はしないが、なんとなく一枚開いて、手が止まった。
「見つけてしまわれたの、兄さま。」
玲瓏はくすくすと笑う。
「それはねえ、父さまから母さまに宛てた恋文なの。」
「…宛名は『傲雪』となっているが。母上の名は映雪だろう。」
映雪と傲雪は同じ"雪"がついているが印象が全く異なる。物静かで優しく芯の強い母だったが。
「もう。兄さまはわかってないわね。父さまは自分だけの呼び名として母さまを『傲雪』と呼んでいらしたの。ほら、『私の傲雪』と書かれているでしょう。」
「なるほど。…親のこういうのを見ると微妙な気分になるな。」
慧は横でにやりと笑っていて何か良からぬことを思い出し笑いしている。
つくづく不敬で失礼な奴だ。
「そう?素敵じゃない。…それで、これらの遺品を兄さまに王府へとお持ちになって頂きたいの。管理に気をつけているけれど、昨今各宮殿で物の紛失が多くて。葬儀の時のような事があっても困るから。」
「父上は何と?」
「そのほうが安心できるならそうせよと。父さまが御自分で手元に置かれたいものはすでに運び出したわ。」
ああ、と靖王は頷いた。
「分かった。このあと、お前たちが必要なものを選んだら持ち帰ろう。」
「弟妹たちはまだ管理できないからいいわ。女官や宦官に巻き上げられてもね。大きくなって分別がついたら分けてやって。」
幼い皇族から物を、それも母の遺品さえ巻き上げる。
後宮とは華やかで高貴な場所というが、裏はそう上品な場所でもない。
「お前は。」
「そうね。わたくしの縁談が決まりかけているのを兄さまもご存知でしょ?」
「ああ、皇后さまが進めていらっしゃるとか。」
「この前、会わされたのよ。」
玲瓏は悪戯っぽく目配せする。
「相手にか。嫌な男だったのか?」
「逆ね。とても素敵な方だった。今、国子監に留学なさってるのよ。」
「誰かわかったぞ。彼ならいいんじゃないのか。」
同じ国子学で机を並べている、北の朝貢国の太子だ。
「そうね。でも外国だから…。来年の正月には国にお戻りになるわ。それに合わせてわたくしも祖国を離れることになる。そして二度と戻れない――。」
「…。」
国同士の関係がよい間はまだいい。
一度不穏な関係に陥れば愛など通用しようもなく、真っ先に幽閉や人質とされる立場である。
靖王は妹の、運命を受け入れようとする顔にいつの間にか大人になった、と思う。
「だからね、弟妹たちのためには茉莉を戻してくださってよかったわ。」
靖王が後宮を出てからは玲瓏が弟妹たちの面倒を見てきた。
「…ああ。悪かったな。」
玲瓏はちらりと慧を見る。
「母さまが、嫁ぐ時に持って行きなさいと準備なさっていた装身具だけ、持っていていいかしら。六妹と私に一揃いずつ用意してくれていたの。」
「他には。なんでも必要な物はもっていけ。」
「感謝します、兄さま。」
玲瓏が礼をとったところに、子供の澄んだ声が二つ重なった。一つは少女の、もう一つは変声前の少年の。
「兄上!姉上!」
八弟と六妹だ。
侍女――茉莉が付き従っている。
衍と慧は弟妹に礼を取ったあと茉莉にも会釈をしている。
「阿琪、琇瑩。」
「兄上、姉上、誕生祝いをありがとうございました。」
八弟の誕生日は昨日だった。
「兄さま、阿琪は武芸の時間にこっそり逃げ出そうとしたのですよ。それで茉莉に叱られてました。」
「それはいかんな。」
「姉上ぇ。」
阿琪は唇を尖らせる。
「なんで逃げたんだ?」
「だって…。もう少しでからくりが完成しそうだったのです。」
靖王は小さくため息をつき、阿琪に目線を合わせるため屈む。
「阿琪。からくりはいいな。出来たら俺にも見せてくれ。…だがお前の不自由のない生活は誰がささえている?お前の立場でやるべき事をやってくれると民は期待しているから許されているのだ。皇子といえども民意に背かれれば先でお前が困るのだぞ。武芸や学問、絵や楽器も同じぐらいしっかりやりなさい。」
「…はい。」
阿琪は今のところ勤勉な性質ではない。
というより興味の方向が科学や技術に向いている。
それを活かしたうえで学問や武術にも努めてほしいと思うのだが。
慧が小声で衍に話しかけているのが聞こえた。
「閑職を与えられて、遊び呆けている皇族なんて、ザラにいらっしゃいますが…弟君の教育に心を砕いていらっしゃる様子を拝見して、突然、殿下がいたってまっとうな方に見えてきました。」
衍が、今までどう思ってたんだ、と笑っている。
靖王は苦笑し侍女たちに向き直る。
「茉莉。世話をかけているようだな。」
茉莉は衍と慧を目を丸くして見ていたが、我に返ると靖王に礼を取る。
口元に微かに笑みを浮かべると答えた。
「八の君ほどのお年であればまだ無理もございません。」
「そうはいってもな。」
そんな会話をしているうちに僧らがやってきた。
最後に皇后と皇帝が多くの宦官と侍女を付き従わせ輿で現れる。
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香がたかれ、読経が始まった。
次第に慧は深い思考に沈んでいく。
絵姿の静懿妃に、靖王たち兄弟姉妹それぞれよく似ている。
薨去されたのは八の君の生後すぐ、産室で出血が止まらずそのまま、ときいた。
靖王は八歳、四の公主七歳、六の公主三歳、八の君は生まれたばかり。
幼い子たちを残して行く末を見届けられずさぞ無念だったろう、と夫も子もない身の自分でも想像できる。
読経が終わり僧たちが退出する。
靖王たちが皇帝と皇后に礼を取り、慧たちも跪礼をする。
「…春になれば庭に蒲公英が咲く。」
皇帝が靖王に語りかけている。
「…ええ。」
二人は中院の同じ方向を見つめている。
「毎年少しずつ増えていくな。」
「今は雪に閉ざされていますが、今年の春もあの時のようにたくさん咲き、たくさん綿毛を飛ばして新しい場所で根付くでしょう。楽しみですね。」
皇帝は頷き、しばらく一人に、とそのまま中院に面した場所にある椅子に腰を下ろした。
靖王は微笑むと皇后に向き直り礼をとる。
「母上、宮になかなか伺えずご無沙汰しています。」
慧はあれ、そういえば、と意外に思う。靖王の態度や笑顔が隙のない完璧なものだったからだ。やはり宮廷人として訓練の年季の入りようが違うからか。
「良いのです。瑾は忙しいのでしょう。落ち着いたら顔を見せてくれれば、と思っていたのよ。今日は顔が見られて嬉しいわ。」
皇后は優雅に微笑み、靖王の傍らに控えた慧と衍に目を留める。
あら、と言って華麗な金の指甲套で慧を指す。
「あなたが茉児以外に侍女を連れているなんて珍しいこと。」
ねえ、と茉莉に向かって視線を流し、くっきりと彩られた唇で微笑みかける。
茉莉は目を伏せて微笑み返し、軽く拱手をした。
「お探しの武芸のできる侍女ですよ。遺珠といいます。弟妹たちのそばに置くのですから、父上母上に一度お目見えを、と思いまして。」
皇帝がこちらを見る。
靖王が自分を指したので、慧は皇帝夫妻に改めて礼をとった。
皇帝はしばらくじっと慧を見つめて頷き、皇后はにっこりと唇の端を持ち上げて微笑む。
「まあ、さっそく見つけてくれたの。」
「ええ、出入りの可能な腰牌を用意してやってください。五月から後宮に入宮の予定で準備させていますが、六月からは午後からのみになります。午前は別のところで指導していますので。」
そういう体で国子監には通い続けられるようにしてくれるらしい。
それにしても格別の待遇である。
「…わかったわ。遺珠、よろしくね。」
「よろしくお願いいたします。」
皇后は衍に目を移し、眩しそうに微笑んだ。
「衍は随分背が高くなったわね。後宮に入ったときはいくつだったかしら。」
「…十一でございます。」
衍は薄く微笑んで礼を取る。
「そうだったわ。随分逞しくなって。…まるで宦官ではないみたいね。」
皇后は流し目とともに挑むような言い方をした。
衍の喉が微かに動く。
慧は衍が宦官であることを今はじめて知り、驚いた。
確かに。思遠は宮門内に入れないが、衍は入れる。
つまりそういう事だ。
後宮に、浄身していない男――つまり男としての機能を有する者は直系皇族しか入れない。
「己衡や己衍が来ると、将来有望で見目麗しい公達が来たと、後宮の者たちが皆、噂し合うのよ。」
「お戯れを…。」
靖王は口元にだけ微笑みをのせ、顔を伏せる。
宦官に将来有望も何も、得られる官位には限りがある。子を成せない以上、結婚も難しいだろう。
確かに衍と靖王が並んでいると、女官や宮女にきゃあきゃあ言われてはいたが。
「…皇后たるもの妙なことを口走るものではない。宮内を混乱させることはするな。」
皇帝は明らかに皇后だけを叱責した。
皇后はまあ、と言って笑う。
「申し訳ございません。あの小さかった子がこんなに立派に成長して、瑾を支えてくれていると思うと嬉しくて…つい言葉が過ぎましたわ。」
つい、にしては軽率である。
慧は公主玲瓏が去る皇后に礼を取りつつ拱手の影で見せた表情に目を奪われた。
誰かに見られては、とそばににじり寄る。
皇帝と皇后が退出し、再び兄弟姉妹とその従者だけになってから、慧の行動に気づいたのか玲瓏は微笑みをよこす。
「ありがとう。ごめんなさい。」
兄である靖王が宦官粛清事件の譴責で後宮を出たあと、養母の皇后がいるとはいえ下二人を守るのは大変な苦労だったはずだ。
なさぬ仲の母娘では、色々あるのだろうか。




