《十》滄海の遺珠
雪雲が空を覆い隠して数日、雪はずっと降り続いている。
しんしんと周りの音を吸い込みながら降る雪は、都を離れた幼い日を思い出させる。
久々の休みの夕方遅く、靖王府の侍女房、自室の小さな窓から雪明かりでまだ明るい中院を見ていたら、誰かが部屋を訪う音がした。
「どうぞ。」
誰か、は靖王だった。
「…殿下。」
元は衍の部屋だから気安いのかもしれないが、主が侍女の部屋を訪れるとは。
「このようなところに何のご用でしょう。」
全く休みと仕事の区別がつけられない主だ。
腹は立つが、土産だ、と菓子箱を渡されたので休みにここへ来たこと自体は帳消しにしてやろう。
白いんげんの餡で梅などの春の花をかたどった上品な茶菓子で、おそらく宮城の厨師の手によるもの。…我ながら菓子の前には随分チョロい。
「通りがかったついでだ。少し出られるか。披風を。」
侍女房は王府の主が通りがかるような場所にあるはずもないのだが。
そして慧の部屋に長居するのも、という配慮はありがたいが、毛皮の付いた披風を着ても女の衣では外は寒い。
慧は渋い顔をしながら灯りを取り、中院の四阿についていく。
「…明日午後、後宮へ行く。伴を頼みたいが、侍女の姿のほうがいい。一旦王府へ入り、衣を替えて宮城へ行く。王府での支度の手配は衍が。」
また侍女か、と思いながら黙って礼をとる。
「かしこまりました。」
「今後後宮に潜入するにあたって会わせておきたい者たちがいる。…まず、俺の同腹の弟妹。」
靖王の同腹の弟妹というと、慧と同い年の公主が一人、まだ十代前半の弟と公主が一人ずつだったと記憶している。
「また緊張を強いられる方々とですね。」
「気にするな。俺にはこれっぽっちも緊張しないだろ。」
いつも不敬な目で見てくるからな、と靖王は笑う。気づかれてたか、と慧は愛想笑いしておいた。
「すぐ下の妹はともかく他二人はまだ幼い。」
「慧に幼い方のお相手は難しくないですか。」
母性というものは持ち合わせていない。なんせ生かすより殺すほうが多い稼業だ。
子供は敏感な生き物である。染み付いた血の匂いに怯えられたりしないだろうか。
「とはいえ十はとうに過ぎている。弟妹たちはだいたい小さい俺だと思っておけばいい。」
「はあ。」
靖王と同じ顔、言動の弟妹が並ぶところを想像したら、笑えてくる。
「…ちょうど母上の命日でな。」
靖王は植栽に積もった雪に目をやりながらぽつりと言った。
靖王の生母、姒賢妃は十年ほど前に薨去し、静懿妃と諱号が贈られた。
「年に一度母の宮殿に集まって供養をするのだ。…陛下と皇后さまもお見えになる。」
そのお二方にお目見えとは一大事である。
先にそれを言ってくれ。
「ええと…。」
「陛下のことは少し年のいった俺と思えばいい。」
「…さすがにそれは如何なものかと。」
「それから、今後宮中に女官として出入りするための身分だが、遠縁の陸姓を名乗れ。戸籍は用意する。」
皇子のくせにいきなり超法規的な事を言う。
だがまあこの世界ではよくあることで驚きはない。
「はじめは存在しない『妹』の戸籍を使おうと思ったのだが、実際の身分に近くて危険だからな。…『妹』の呼び名は確か、阿拙というのだったか。」
靖王はにやりと笑う。
一番知られたくない奴に知られた気がする。さては思遠か。
きっと、陸と名乗れ、は『阿拙』の話をしたいがためのただのついでだ。慧は不貞腐れる。
「阿拙、なあ。うまいことつけたものだ。」
「…器用さを鼻にかけるなという戒めを、と父が風家のご当主に願ったそうで。」
「なかなか面白い父君だよな。」
靖王と気が合いそうではある。
「殿下、さすがに阿拙っていうのは女官としてどうでしょう。」
「まあ、そうだな。字が別に必要になるかな。」
『計都』も『阿拙』も後宮女官の呼び名にはあまりふさわしくない。
「何か考えてくださったのですか?」
食い気味に聞くと目が合った。
靖王は、何故か怯んだように視線を外して目を伏せた。
「…遺珠。」
「ほ。」
ぽかんとしていると、靖王が心配そうな顔をした。
髪をかきあげてそのまま、耳の上あたりに手を当てている。
「『滄海の遺珠』※からとったんだが…。お前の場合は海じゃなくて砂漠か戦場かな。どちらも真珠は採れないが。」
「そのような過分な字を。」
慧はむず痒いような気分になる。
靖王は何でだか自信のなさそうな表情を浮かべてじっと見つめてくる。
「嫌か?」
滄海の遺珠、とは、大海に採り残された一顆の真珠。
――世にまだ知られていない優れた人物のことをたとえていう。
慧はゆっくり首を振る。
「…もちろん嫌ではありませんが、どうかなさったのかなと。」
「どうもしない。それだけこの任務が危険だということでもある。そんな風に真実を拾い集めなければいけないのだから。俺は今回お前を頼みにしているんだからな。」
「…殿下に感謝いたします。字に恥じない働きをいたしたく存じます。」
きちんと礼を取る。
靖王の口元がやっと綻んだ。
「…うん。」
慧は靖王の名付けの趣味がとても好きだ、と思う。
自分にふさわしいかは別として。つい、嫌な役目でもちょっとだけ頑張ってみるか、と思わされてしまうのだ。
あまり自分という人間について考えたことがなかったが、菓子で釣られてしまうことも含め、どうやら随分単純な性質らしい。新たな発見になった。
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靖王の生母、静懿妃の元居所である宮殿の扁額には『蘭若殿』とある。普段は封鎖されており、月命日と年一回の命日にだけ開けられて供養をする。
靖王は帯に下げた、氷のような白玉に芽吹きのような陽緑色ののぞく玉佩に、目を落とす。
亡くなった日も、今日のように雪華が降り、重なり合い積もっては静かに溶けていった。その下には、雪に押し伏せられた葉が鮮やかな緑を見せていて、母に見せたいと八歳の靖王は思った。
母は八弟を出産してから回復が遅く、まだ産屋として使っている棟に伏せっていた。
一日わずかな時間しか会うことが許されなかったから、まだ幼い靖王は母が恋しかった。だが同腹の弟妹たちの一番年長の兄としては、そうも言っていられない。
最後に会いに行ったとき、雪の下の緑の話をした。母は笑ってこの玉佩を侍女に持ってこさせ、靖王に母の宝物よ、と握らせた。
その夜、母は薨去した。
もう少し休まねばならないから父さまと弟妹を頼むわね、と言ったのが靖王への遺言となった。
あの夜、母の死をまだうまく理解できず、むずかる弟妹たちを抱えて、靖王はこみ上げるものを堪えることしかできなかった――。
雪の下の緑は、母がわざと抜かせずにいて、次の春になると黄色い花をつけ、またしばらくするとまあるく綿毛をつけた。乳母は、綿毛を飛ばすとどこか遠くに飛んでいって根付きそこで生きるのですよ、と靖王に教えた。
――その花は蒲公英という。
門で待機していた宦官に案内されてやってきたが、まだ誰も来ていない。
少し待つと、第四公主・玲瓏が宦官や侍女たちを連れやってきた。
「元瑾兄さま。ごきげんよう。」
「ああ、玲瓏。息災か。」
「ええ。兄さまもお元気そうで何より。」
「まあな。」
「衍もご苦労さま。…兄さま、茉莉以外の侍女をお連れなんて珍しいのね。先日も胡人の少年を侍衛にしたとか。」
靖王は曖昧に笑う。
「これから俺の身辺は少々騒がしくなる。茉莉はお前たちの側に戻しておく。何か困ったことがあれば彼女を頼れ。」
「…ええ。」
玲瓏は深くは聞かない。
「…武芸ができる侍女を探して欲しいと皇后さまが仰せだ。」
「そうなの。」
玲瓏が視線を送ってよこし、慧は改めて礼をとった。
「あなた、なんていうの?」
「陸遺珠と申します。」
阿拙と呼ばれるのは勘弁してほしいのか、早速新しく与えた字を名乗っている。
「貴重な人材なんだ。玲瓏も今後彼女をよろしく頼む。」
「公主に侍女をよろしく頼む、なんて言う皇子は兄さまぐらいね。まあいいわ。茉莉みたいに兄さま好みの優秀な娘なんでしょう。わたくしは好きよ。…よろしくね、遺珠。」
玲瓏の言葉に、衍のほおの筋肉がかすかに動いたが靖王は気づかなかった。
「こちらこそよろしくお願いいたします。」
玲瓏は鍵束を取り出す。
「この宮は母が身罷った後、わたくしに管理を任されているの。ごめんなさいね、外で話していたら冷えたわよね。」
皇族というものは自分も含め傲慢なものが多いが、玲瓏はよく気の回る令嬢といった雰囲気である。
靖王は、この妹には一番苦労させている、と思う。
玲瓏は侍女たちに火鉢や茶などの用意を一通り指示し、長椅子に座った。
慧に興味を持ったらしく靖王をそっちのけで話しかけている。
※滄海の遺珠
大海に取り残された真珠のことで、世間に知られないでいる不世出の人物をいう。 〔出〕唐書
『imidas』




