《九》令牌と玉の扳指
英王、徳妃らが問われた罪には謎が残る。
瀚黎戦の狙撃伏兵たちは武徳司により捕縛、都の大理寺に移されたが、なぜか尋問が進まずしばらく真相はそのままであった。
その後も瀚黎の侵攻は続いた。英王の代わりに戦に出た皇弟が、月黎国の仲介も経て、瀚黎を最終的に元の国境まで退かせ、ようやく和睦が結ばれた。
瀚黎と月黎は元は同じ朔月族の国で、月黎は定住化した者たちによる朝貢国※、瀚黎は遊牧を続ける完全な異国である。
靖王ら三人から経緯の説明を受けた。
「和睦の証に婚姻を、ということで瀚黎には次姉が嫁ぐことになった。」
英王の同腹の妹で徳妃の娘、黎陽公主と号する。彼女は先帝の命で西の帝国に送り込まれる予定だったが、代替わりで立ち消えになった、という過去がある。本来慧が仕える主だったはずの公主だ。
「この時、瀚黎の王には直系に娘がいないことから、姪である月黎の公主が皇帝の後宮に入ることになった。加えて捕虜と交換に美女百人も贈りたいといったのだが、これは亮側が固辞したな。」
間者が紛れてもその人数だとさすがに対処できないし、と思遠が呆れたように言う。
捕虜は捕虜でまずは同数ずつ交換となり、ではせめて侍女をということで二十人ばかり公主の供をして後宮入りしたそうだ。
この件は、亮国内で物議を醸した。朝貢国ではなかった外国に公主を嫁がせる場合、傍流の諸王の娘を皇帝の養女として嫁がせるのが慣例だ。
「なんで敗北したわけでもなく皇帝の実の娘が嫁ぐのか、瀚黎から直系の娘が嫁いでくるならともかく、というわけだよ。」
思遠はやれやれと言いたげに説明をする。
そもそも、第一公主はまだ嫁ぎ先が決まっていなかった。”なぜ適齢期の彼女を差し置き年下の二の公主が?”と天下の臣民はもちろん、皇族たちも首を傾げた出来事だった。
黎陽公主が瀚黎に嫁いでしばらくして、瀚黎戦で生け捕った伏兵たちの尋問が再開された。
そこで彼らは徳妃の一族の関与を吐いた。もっともらしい証拠の品もあった。
これにより事件は詔獄に移管され、関係者が厳しく尋問された後、誰も認めなかったにもかかわらず断罪された。
靖王を狙ったこと、それにより禁軍を混乱させたことが大罪とされた。
瀚黎にもこの報は届き、公主は冷遇されているという。
自分ではなく英王を狙ったはず、誰が自分の身を犠牲にしてまで謀略を実行するというのか――という靖王の強い思いにより、四年を経た今、ようやくその"銃"に関する再検証がなされた。
早晩、英王と徳妃そして徳妃一族の冤罪は晴らされるだろう。
それでも慧の心は晴れない。
では誰が、新型の鉄炮を開発させて手にし、事件を操り、一つの一族を陥れて滅ぼし皇族の命を脅かすという策を巡らせたのか。
相当に金も手数もかけなければ実現不能と思われる。黎陽公主の婚姻の件も妙なところがある。
それを成し遂げられる者とは――。
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霊泉宮の帰りの馬車に揺られ、靖王が少し考え事をしていると衍が問うた。
「如何なさいましたか。」
「ああ、いや…計都はまた左の脇腹を押さえていたが何か不安に思うことがあったのだろうか。」
衍は真顔だったが靖王の話を聞くと微笑んだ。
「そうでした?」
思遠は笑う。
「うん。」
「そういうことではないと思いますが…どうでしょう。」
「そうか?」
「殿下、ご心配なんですかぁ?」
衍は真面目に答え、思遠はふざけている。
「そういう訳ではないが、気になった。」
「左様ですか。」
靖王は少し考えると、思遠に申し付ける。
「菓子を用意させておいてくれ。果物を使ったものを多めに。」
「今は冬なので果物は少ないんですよ。」
「蜜餞とかだったら色々あるだろう。」
「…ええぇ、かしこまりました。」
思遠はこっそり衍に、殿下は計都には菓子を与えておけば安心だとお思いだぞ、と囁いた。
衍は靖王の目を盗んで思遠の肩を小突き、二人はまた揃って肩を震わせる羽目になった。
―――
姜䪭を屋敷に送り届け、興嘉宮を経由して、慧は男物に着替えた。寮に戻るとそのまま靖王の部屋に来るよう申し付けられる。
「ご苦労だった。」
思遠は靖王の革帯を取り上衣を脱がせる。靖王は室内用の袍を羽織ると、三人を振り返って微笑んだ。
上衣は慧が受け取り、衣桁に掛け、吊り香炉に香をくべる。
靖王がいつも使っている香は、異国よりもたらされた名香でさすがに素晴らしい香りだ。
ついでに慧の衣にも焚きしめられてしまうので気に入りの仕事である。
よく考えれば、ここにいる皆、同じ匂いがついているということでもある。それは非常にまずい。姜䪭あたりに嫉妬されてしまう。慧は鼻にしわを寄せた。
衍は茶の用意をしている。
今日の茶は鉄観音らしく、焙煎の香ばしい匂いがする。
菓子は胡桃の黒糖がけ、林檎の肉桂の香り付け蜜煮、柿子餅で、思遠が高台にのせて持ってきた。
「兄上は我々が帰る頃には明るい顔をしておられた。あの訓練に一定の効果があったのだろう。」
「はい。」
「しかし、何度考えても不思議なものだ。無いものが痛いと感じ、無いものを補うと和らぐとは。」
靖王は頬杖をついて、心底不思議だというふうに呟く。
「英王殿下の侍医や伯安、韶音ら医学の心得のある者は皆、人が考えていることは本当に表層に過ぎず、無意識の部分にまだ解明されていない働きが沢山あるのだ、と言っていましたね。」
衍が言う。
「ふうん。」
「頭の中が勝手に、腕がある?ない?と混乱している状態を修正していく作業だったのですねぇ。」
思遠もまた不思議だ、というように首をひねりながら言う。
「我々は自分の頭の中であっても完全に御せているわけではないのだな。」
靖王が言い、慧は肩をすくめる。
自分で自分を御せないなんて怖すぎる。
「できているのはほんの表層だけなのでしょうか、少し恐ろしいことですけど。」
四人はうーんと考え込む。
「それから、瀚黎戦の狙撃事件。あれも証言を突き合わせた結果、当時の調査に疑義が大いにあることを示せるだろう。再調査を進めることができそうだ。」
「関係者を集めることができたのは大きいですね。」
現場にいた、当事者の英王、靖王。
そのそれぞれの侍衛、己衍と衍の次兄にあたる己衡。
武徳司側は現場にいた慧、当時後方にいたが現責任者として思遠。
そして英王の負傷の状況を検証する侍医たち二人、薬剤に詳しい見習い一人。
「あとは官廠の銃の担当者や軍匠がいれば完璧だったんですが…。さすがにねえ。」
思遠は靖王にくぐもった声で笑いかけた。
「思遠が言う通り、そこは動かすと、外に漏れる可能性が高くなる。」
靖王は慧を見て言う。
「計都も官廠を見たいと言っていたし、ちょうどいい。それとなく理由をつけて調べに行こう。」
「まだ翻訳終わってませんけど、先にご褒美ですか。」
ますます逃げられない、と慧は苦笑する。
いつもこれだ。靖王の周りは先回りでどんどん動いていく。
「お前も安心して翻訳ができるだろ。」
「はは。…そうですね。」
慧は力なく笑うしかない。
「打診しておくが、あそこの軍匠長は気難しい。すぐには無理かもな。…まあ、三月半ばまで、こちらも静懿妃の年忌の供養や科挙関係の宴やらで忙しい。翻訳もゆっくりやればいい。」
「…承知いたしました。」
靖王はどうせいつも忙しいではないか。
いつも難題を投げてから条件を緩めてくる。悪党の手口だ。
慧は拱手の影で恨めしい目つきで靖王を睨む。
「そういえば、簪と手巾を返し忘れていたな。…確認を。」
靖王は抽斗から小箱を取り出し、慧に手渡す。
燻し銀の簪は入監の日に暴漢に投げつけ、靖王の手に渡ったままだったもの、手巾は靖王の玉佩を包んで渡したときのものだ。ずいぶん前のことのように感じるがまだ一月も経っていない。
「お返しくださりありがとうございます。」
簪を取ろうとして気づいた。
手巾の中に他にも何か包まれている。
「…?これは。」
つまみ上げるとそれは靖王府と彫られた令牌と幅広の指輪のようなものだった。
「??なんか紛れてますが。」
「褒美にそれをやる。通行牌だ。見せればいつでも靖王府と興嘉宮の通行が可能だ。」
「これは?…扳指※、ですか。」
弓を引くための補助具で、特に玉製のものは武人の憧れだ。
靖王に確認のため見せると、彼は扳指を受け取り慧の右手を取って親指につけさせた。
ひんやりつるりとした感触で玉だとわかる。
「お前は弓も使うだろう?」
犬猫の首輪でもつけるような手際で、あまりに自然な感じに付けさせられたため、慧も抵抗することなど思い至らずただなんとなく見ているしかなかった。
「褒美の一つとして取っておけ。」
それは玉をくりぬいて作られており、あの玉佩ほどではないにしろそれなりに高価な品だとわかる。若い武人がちょっと背伸びして奮発し手に入れるくらいの。
「…ありがとうございます。」
よく見かけるものより幅が狭く、男ほど手が大きくない自分の指にもちょうどいい。
耳環と同じ色の玉なのはたまたまか。
「とても綺麗ですけど、戦闘で割っちゃうかもしれなくてもったいないです。」
「そしたら新しいのをやる。」
そう言うと靖王は今度は箱から簪を取り上げる。無造作に慧の髪帯を結んだ髷にさし直す。
目を白黒させるしかない慧の顔を見、よし、と頷いた。
「はあ。…ありがとうございます??」
調子の狂うお人だ。
横で思遠と衍が声を殺して笑っているのが気になる。
「疲れただろ。まあ皆座って茶でも飲め。」
そう言って靖王は茶杯に人数分茶を注ぐ。
「恐縮です。」
そう言いつつ、思遠と衍は靖王と卓子を囲んで座ろうとする。
慧はそのまま立っていたが、計都も、と言われたので気がひけつつゆっくり腰を下ろす。
「菓子も食え。」
靖王から取り皿に自動的に給餌されそうな勢いだったので、皿を持ちあげる。
「そんなに食べたら太ります。」
「ちょっとぐらい太ってもいいのじゃないか。」
「良くないです。女とバレやすくなります。」
それは困るか、と靖王は大真面目に頷いた。思遠は、ふーん?とニヤニヤし、衍は笑う。
慧はそれにも苛々とし、でもやっぱり蜜煮林檎だけは食べたくなったので、ぶんむくれながら皿に取る。
鉄観音は苦味があるから林檎の甘さが染みるように感じた。
「野生なんだよなぁ。」
思遠は、誰に聞こえるともなく言った。惜しむような愛おしむようなそんな声音だった。衍だけがふと思遠に目を向けた。
慧は気付かず、もう一切れ、肉桂の香る蜜煮林檎を取った。
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「殿下。そう言えば西侍女房の侍女、減りましたね。」
「西侍女房?」
「――思遠。」
子容は嗜めるために声をかけた。
「あの綺麗な侍女です。夜番の。」
あの侍女は夜、灯りをもって寝殿へ行っていた。
「…ああ、いつかそれまでより早いな、と思ったのですよ。いつの間にか見かけませんね、そういえば。」
今思い出したという様子で、茶を飲みながらのんびりと慧は言う。
衍はつい、一瞬だけ慧を見た。
靖王はやっと何のことか分かったらしく、ああ、と小さく頷く。
「帰した。」
「へえ。どおりで見ないと思ったら。なんでです?病気かなんかですか?」
思遠は無遠慮に聞き、衍はゆっくりと額に手を当てる。
靖王と思遠は衍の様子に気づかない。
「必要なくなった。他に必要としている者がいたからな。」
「そうですかぁ。不要ですか。」
思遠はそれ以上は聞かなかった。
衍は小さくため息をつき、慧の様子を窺った。当の慧はそのまま林檎を頬張っている。
――何も分かっていない。気にもとめていない。
※朝貢国
強大な軍事力を持つ国家に対して定期的に貢ぎ物を献上することで、その保護を受ける弱い国を指す。
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※令牌
命令や権限、身分の証明として使われる札。
※扳指
弓の弦を引っ掛ける親指保護用の指輪。
親指で弦を引くスタイルは「モンゴリアンリリース」または「モンゴリアンドロー」と呼ばれ、アジアのほぼ全域と北アフリカの一部、アメリカ大陸のインディアンが使用していた。この引き方では、弦を引っ張るときに親指の第一関節に引っ掛けるが、何度も放つと肌が裂けるためアメリカインディアン以外は親指を保護するためサムリング(=扳指)を使用していた。
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