《四》失ったものが痛む 前
帰路の馬車で、靖王は浮かない顔だった。
衍は静かに聞く。
「どうなさいました。」
「…兄上は話の途中、話の筋と関係ないところで時々何か耐えていらっしゃる様子が伺えた。しつこく聞いてみたところやはり失った腕の異常―――無いはずの腕が痛むと仰る。」
俯いて握りこんだ手を持て余しながら、靖王はぽつりぽつり話し出した。
「…兄とも少し話しましたが、近頃頻繁に苦しんでいらっしゃるご様子とか。」
「そうか。」
英王に付き従っていた青年は衍の次兄だそうだ。
道理でよく似た美貌の持ち主だと思った。
「明日、王府に太医と韶音を呼んでいます。何かできることがないか意見を聞きましょう。」
慧は二人の話を黙って聞いていた。
狙撃の件は天下を揺るがす事件だったわけだが、英王と英王妃、侍従たちの様子を見たところでは単純に幽閉されているという表現はしっくりこない。
幽閉というより、そういう名目で皇帝は英王の身の安全と湯治のためにここに来させたようだ、という印象を慧は持った。
皇帝の私人としての情と宮廷における体面。その落とし所がこの形になったのだろう、と勝手に納得しておく。
靖王がこちらを向いて問う。
「お前には、四肢を失った知り合いがいないか。異民族や西域の治療法など何か知らないか。」
「…治療法ですか。」
(医者じゃないんだけどな…。)
英王は靖王にとって命の恩人だ。できる限りの力になりたいのだろう。
靖王の必死な様子に遠い記憶をたどっていく。
西域にいた頃。
いつも子供たちにこっそり甘い菓子や麵包をくれていた厨房のおじさん、彼は膝から下を、馬を世話していた馬丁の男は手首から先を失っていた。
彼らはその喪失をどうして克服したのか、何と言っていたか。
ふと、靖王の瞳に映る自分の姿が目に入った。
「あ。」
「何か思い出したか?」
ただ、気がかりが一つ。
治せなかったとしても、咎められたりしないだろうか。
つまり罰を受けることを心配する。
靖王は噂の人物像とは違うことがわかってきたが、英王はどんな人物かまだ良くわからない。
口籠っていると靖王は表情を緩めた。
「もとに戻せないようなことなら困るが、治らなくても俺も兄上もお前を罰したりしない。何でも聞かせてほしいんだ。」
慧は小さく息を吐き出す。
「…医師ではないので何とも言えませんし、治療法というのかわかりません。苦痛を軽減するための訓練法のようなものを聞いたことがあります。」
「本当か。」
靖王の表情が明るくなる。
「とても奇妙な方法なのですが、お怒りになりませんか?一定数の効果は見られているようです。外科的な治療法を用いるわけではありませんので、危険は少なく試す価値はあると思います。個人差がありますので保証は致しかねますが。一度太医や姜姑娘にご確認なさっては。」
「なんでも可能性があればやってみて差し上げたいから、教えてくれ。」
「…承知しました。では太医たちからも同じ意見が得られれば、次回霊泉宮に行くまでに揃えて頂きたいものがあります。少々高価なものが必要ですが宜しいでしょうか。」
「構わない。」
―――
翌日、靖王府にて。
靖王の側近たちと、伯安、姜䪭が客廳に集まっている。
外は寒いがこれだけ集まっていると暖かい。
「…それ、いいかもね。」
「韶音さまは賛成ですか。」
伯安は髭を扱きながら、何かを思い出すような素振りをする。
「神経や心から来る症状というのは説明がつかないことも多いのだけど、一種誤魔化しとも思える方法で改善することは稀に聞くわ。…太医、いかがかしら。」
「私も西域の医学書で、そういう記述を見た覚えがあります。やってみて効き目がなくても損はないのだし試してみましょうか。」
伯安が何か書く素振りを見せたので慧は筆と紙を持ってきた。靖王のだが構わないだろう。
「太医、どうぞ。」
伯安は奇妙な方向――左から右に筆をすべらせる。
大陸の西の果てや南の急峻な山を越えた国ではそのように書くと聞いたことがある。
faux sentiments
『偽りの感覚』
la douleur ès parties amputées
『切断部位の痛み』※
伯安はさらに、横に、今度は通常通り右から左に、亮の文字で説明を書き入れる。
「…十数年前、大陸の西の果ての医者が著した医学書で報告された事象だそうで。確か『幻肢痛』というのだったか。気持ちを落ち着かせる薬を用い鏡を使って、という内容だったと存じます。詳細は覚えていませんが。…少しお待ちいただけますか。」
しばらくして伯安は戻ってくると、指を挟んだ頁を開き皆にみせる。
それは題字が先ほどと同じ西の果ての言葉で書かれており、その下にそれよりは東の国の言葉で翻訳された内容が記されている。その後編み出された治療法を加筆した本のようだった。
伯安は片言のみしか解せず、他は誰も読めず、自然慧と思遠に視線が集まってしまう。
「私は期待に応えられませんが、慧児、どうだ?」
思遠は肩をすくめ慧を見やる。
彼も多少は読めるはずであるが、その気はないらしい。
(丸投げなんかい。)
「…そうですね、今太医がおっしゃったことが書かれています。まず興奮させないように鎮静薬で痛みを抑える。鏡を用い、神経や心理に働きかける療法である、だそうです。」
子容さま、と慧は声をかける。
「もう少し紙をいただけますか。翻訳して書き写します。」
「まあ、それなら、計都。あなたこの本を全部訳してみない?読んでみたいわ。」
「…。韶音さま。とんでもないこと言いますね。そもそも太医の本ですよ。それに結構、頁数あるじゃないですか。」
「韶音と呼んでと言っているじゃない。さま、は要らないのよ。普通に話してと言っているじゃない。」
韶音はふくれる。
「はあ。そういうわけにも。」
皆その様子を見て笑っている。
今その話は必要だろうか。まあいいが。
「あーいいんですよ。私も助かりますし、というか尚薬局や太医署でも助かるでしょうし。」
伯安はのんびりそう言った。
「そ、そうですか。」
げっという顔を隠さず慧はうなだれる。
「どうしたらやってくれるかしら?」
「そうですね、姜家の別荘にあるという薬草園を見てみたいです。あとはちょいと融通して頂きたい薬が。」
「…そんなのでいいの?」
靖王は俺の命令はすんなり聞かないのに、とぼやき、衍がまあまあ、と宥めている。
「国子監の課題もあるのでいつになるか分かりませんよ。」
「俺からも褒美をやるから急いでやれ。課題は俺が見てやる。」
靖王はにこにこ笑ってそう言った。
悪魔の笑みである。
「ぼちぼちでも訳していただけたらわが国の医療に大いに役立ちます。」
伯安もにこにこして言った。
「我が再従妹どのは優秀なので貢献できるでしょう。」
思遠も追い打ちをかけ、靖王は頷いている。
性格はバラバラだがどいつもこいつもよく似た者が集まったものだ、と慧は呆れた。
「そんな無茶なぁ…。」
ため息とともに情けない声が出る。
全く高貴な者たちというのは勝手な生き物らしい。
せめて交換条件を引き出さねば。
「殿下は何をくださるんですか?」
「何か欲しいものがあるのか?」
「うーん。じゃあ武器を作っている官廠を見てみたいです。」
慧は靖王を覗き込むようにして試しに言ってみる。
「…。物じゃないのか?」
「だめですか?物をねだったほうがよかったでしょうか。それだったら侍衛刀じゃない自分の刀が欲しいのですが。」
これも試し。
「じゃあ官廠で作らせよう。」
慧はかえって呆れ返る。
その表情を見て、衍が笑いが止まらない、という様子が視界に入った。
「官廠を見せていただけて刀も作ってもらえるのですか。韶音さまには薬草園に連れて行ってもらえ薬が融通していただけると。」
「どうだ?」
「やりましょう。なんなら課題はそっちのけで。他に翻訳の必要なものはないですか。」
靖王はおい、と言って苦笑する。
「…課題はしっかりやっておけ。」
数日後。
せっかくだから前夜から来て、温泉を楽しんでいけばどうか、と英王が文をよこし、靖王はありがたく申し出を受けることにしたそうだ。
たまにはよいことをする、と慧は思った。
興嘉宮の馬車を数輌用意させ、国子監の授業が終わると乗り込んでいく。
慧は姜䪭、思遠と同じ馬車だ。
「霊泉宮の温泉に、なんて幸運だわ。他の温泉ならともかく、あの宮の温泉はそうそう体験できないもの。」
姜䪭は完全に物見遊山気分である。慧も温泉自体は嬉しい。
皇帝が離宮を作らせたぐらいだからきっと素晴らしい効能があるのだろう。
だがしかし、靖王にこき使われてゆっくりする時間がないことを恐れている。
「美肌と美髪に効くあれこれを持ってきたの。計都、あなたもやるのよ。」
「…。女の格好をしているときはとりあえず慧児と呼んでください。」
慧は今日は侍女の格好をさせられている。
『計都』ではまずいのである。
温泉に入るなら誤解されないようにという配慮だと思うのだが、誰かと入るのはごめんである。
さっきから、それをどう免れるかばかり考えているのだった。
姜䪭はふうん、とにこにこしながら慧を頭のてっぺんから爪先まで見る。
「女の子の格好、似合うじゃない。」
「…そうですか?」
これが靖王府の侍女の衣なので仕方がないのだが、胸高に引き上げた斉胸裙の中に交領の襦衫、と胸元がざっくり開いていて、すうすうする。
軍装に使っている革製の補正具やサラシで胸を押さえれば見えそうだからそれもできない。かといって襦衫の下は内衣だけだ。なんて無防備なんだ、と不安になる。
一番上の裙※は蝉の羽のような薄い紗でふわふわとしている。裾も長いし中の裳も二重になっていて身動きが取りにくい。
侍女だから飾りは少なめで妓女と比べて軽いのでマシ、というぐらいだ。
離宮との往復で襲撃されたら一体どうしたらいいのだ。とりあえず衍に許可は取って髪や衣の中にいろいろ仕込んではあるが。
侍女は丫鬟ともいう。
だいたい若い侍女は髪が邪魔にならないように左右の耳の上で髪を二つに結っているのだが、この髪型を『丫』というのが由来だ。慧はその髪型が顔のせいか絶望的に似合わない。
王府の侍女に髪結いの上手いものがおり、その者に結ってもらったので何とかなっているだけだ。
「そうだろう?可愛いだろ?…いつも男の格好しかしないのはもったいなくてさぁ。」
「そ、そうね。可愛いわよ。」
思遠が能天気なのがうざい感じである。
姜䪭も思遠の慧に対する猫可愛がりぶりに若干引いている。
点在する湯殿ごとに宿泊できる棟があり、それぞれ分宿することになった。
慧は姜䪭と一緒で、掩月が侍女を二人差し向けてくれた。
靖王の身の回りのことは思遠と衍がするとのことで、自由の身なのだが、落ち着かない。
本来、侍女を付き従わせて姜䪭と同宿できるような身分ではないと思うのだが。
二人で湯殿を見に行った。
「まあ、ここは、有名な海棠湯じゃない。」
言われてみれば優美な海棠の花びらの形の湯船である。
「そうなんですか。」
「寵妃が湯浴みするために皇帝が作らせたっていう湯殿よ。ほら、真っ白な大理石でできているのよ。ずっと手入れがされてきたのね。」
「贅沢すぎてめまいがします。」
「本当ねえ。」
国公家の嫡女※ともなれば、封爵のない未婚の女子としては他に並びない高い身分だが、意外にも普通の感想で慧は笑う。
「姑娘、湯浴みは何刻頃なさいますか。」
侍女が声をかけてきた。
「晩餐の後、半刻後ぐらいで構わないかしら?」
「もちろんでございます。ではそのころには支度を整えてお待ちしております。」
当たり前だが、自分だけ、部屋に湯を運んでくれとか湯をくれとか言えない状況である。
「…。」
「ああ、介添えはいらないわ。私たちが湯殿に入ったら外していて頂戴。」
黙っていると姜䪭は侍女たちにそう言った。
高貴な身分でもそのあたりの身繕いは自分でできるらしい。
二人なら湯着を着て入浴するのだしまあいいか、と慧は心を落ち着けた。
※”faux sentiments":偽りの感覚
"la douleur ès parties amputées" :切断部位の痛み
物語では西の名医の言葉、としています。
元ネタはシャルル九世(母はカトリーヌ・ド・メディシス)の筆頭外科医アンブロワーズ・パレの言葉。彼が幻肢痛の存在をはじめて論文に記している。
参考:https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/2179086/
※裙
スカートのようなもの。
※白玉石
大理石のこと。
※嫡女
嫡妻の娘。




