《三》二の君の離宮 後
霊泉宮の庭は東西にあるが、英王妃、掩月が慧を案内したのは西の庭だった。
侍女や侍従たちが付き従いゆっくりと散策する。
梅はそろそろ終わりで水仙や椿が咲いている。
「東の庭はまだお花が咲いていなくて。こちらは日当たりが良いから、温室では薔薇も咲くのよ。春になると鉢を外に出すの。そうすると次はもう桜や桃が咲いて牡丹の季節よ。」
「とても綺麗なお庭で…春が待たれますね。」
掩月は、上からこちらを見ている英王と靖王に手を振ると、ええ、とにっこりと笑んだ。
「ここはこの国一、美しくて優しい牢獄よ。」
くすくす笑いながら慧をじっと見る。
なぜだか背に冷たい風を感じた。
「殿下に輿入れした時、わたくしは十五。まさか六年後こうなるとは思わなかった。世間から見れば不運な夫婦なのでしょうね。」
「夏妃さま。」
そんな事は、といいかけたが、確かに自分もここへ来るまでそう思っていた。
「殿下にはわたくしと同時に嫁いだ、二人の側室がいたの。あの頃は毎日わたくしだけ見ていただきたいと願っていた―――。」
恋も愛も知らない慧には、その強い願いはうまく腑に落ちない。
それを願う女性は多いのだろうことだけは、知っている。
「それで殿下の離宮幽閉が決まったとき暴れたの。」
「え。あば…暴れ?はあ。」
この美しい名と容姿を持つ妃には似つかわしくない言葉に、驚きのあまりつい地が出てしまう。
「…と、おっしゃいますと?」
「殿下の閉じ込められたお部屋の前で、殿下だけを連れて行くのなら、自害する、と小剣を。」
指し示すのを見れば白い喉元に長く薄い傷がある。
表皮一枚だが、これはかなり出血もしたはずだ。
「なんてことを。」
それゆえ再嫁を免れたのだろう。
英王に新しく輿入れする女性はもういない。
(夏妃、武闘派すぎる恐ろしい子!)
うっかりぽかんと開いた口を戻しながら、改めて掩月をみる。
「どうせ一歩間違えば連座して斬首だったのだから、大して変わらないのよ。」
掩月は言っている事に似合わない微笑みを浮かべる。
しばらくして、ねえ計都、と呼びかける。
「こんな傷など作って、莫迦な女だと思う?」
「そのようには思いません。」
なかなかの無茶をする、とは思った。
そこまでする愛というものに戦慄すら感じる。
令嬢や夫人たちにとって、自傷などというものは理由はどうあれ最も忌避されるものである。
慧は却って少し親しみを感じた。守るべきもののために自ら傷を負える人なのだ。慧が思うに武人とはそういうもので、掩月は武人の妻として同じ覚悟を持つ女なのだろう。
「勝ち取られたのですね。」
「ええ。わが君はなぜこんな傷をって烈火のごとくお怒りだったり…内緒だけど涙を流されたりで中々ご理解頂けなかったけれど。最近は諦めをつけられたようよ。」
掩月は愉快そうに笑う。
お姫様然とした姿より、きっとこちらが本当の姿なんだろう。
「あの…見当違いでしたら申し訳ございませんが。」
「なにかしら?」
「夏妃さまの字はもしや英王殿下がおつけに?」
「そうよ!よくわかったわね。」
掩月はいたずらっぽく笑う。
「月が隠れてしまうほどの美貌、との意味を持つ美女の通り名として『閉月』というのがありますが、これは少々俗っぽさもあります。夏妃さまの『掩月』は、同じく月を隠すという意味でありながら、ずっと雅な表現ですね。」
「どんな意味でお付けになったか知らないのよ。」
そうなので?と慧は意外だった。
「偃月刀※という武器があります。こちらの客廳にも飾っていらっしゃいますね。偃月を『掩月』と、その字と同じ字を書くこともあります。英王殿下が常にお側に置く偃月刀のように、夏妃さまを頼みにしていらっしゃるという意味でもありましょう。」
「素敵な解釈だわ。」
掩月はにっこり笑った。
―――
瀚黎戦の英王狙撃事件は思わぬ形で、波紋を広げた。
捕虜となった伏兵の生き残りが、元々は靖王を狙った暗殺計画だった、と英王の生母、徳妃の兄一族の関与を吐いたのである。自害した者の遺留品がその関与を示していた。
それ故、一族は詔獄に収監され獄死または斬首、血縁の遠いものは流刑、女は籍没して後宮教坊送りとなった。
皇城で処刑など異常かつ異例なことだ。人々は帝はよほどお怒りになったのだと噂した。
生母徳妃と英王も尋問を受けた。
英王が靖王を庇って重傷を負ったこともあり、あずかり知らぬことだったと結論付けられ、ともに死罪は免れ幽閉されている。
徳妃は旧後宮の掖庭の宮殿に、英王はこの離宮に。
英王の腕は元に戻らない。
だからこそ、靖王はせめて兄の名誉だけでも取り戻したいと思っている。
庭で話す掩月と慧を見下ろして英王は微笑んだ。
「掩月は楽しそうだ。」
「今、とても自由なんでしょうね。」
「そうなのか。」
英王は謎の返事を返した。
掩月は自分の意志でここにいるのだが、兄はそのことに無意識にか罪悪を感じているのだろう。
「そうですよ。お幸せなのだと思います。」
「ここに閉じ込められているのに?」
「ご自身がそうしたい、と選ばれたことです。」
「…そうか。」
皇后の姪とはいえ後ろ盾の父は既になく、長兄一人いるが病弱ときている。
実家の兄としては掩月を再嫁させたかったようだが、本人が撥ねつけたのだ。
掩月が自分でここに来ることを望んだのは次兄のために感謝したいぐらいのことだった。
靖王は後宮の閉塞感を思い出す。
そこは兄たちも自身も育てられた場所だが子供心にも分かるほどに油断のならない場所だった。
太子以外の皇子の妃達は後宮ではなく王府住まいとなり、いくらかは自由が与えられるが、他にも妃がいることが普通で環境的にはやはり後宮と似ている。
離宮に来て他の妃がいない分気楽なのかもしれない。
「またそのうち計都を連れて来てやってくれるか。」
「はい。」
「実はあの時の銃撃事件に引っかかりを感じると計都が申しまして。」
「どういうことか。」
靖王は控えていた衍に目線を向け、促すように頷く。
「それについては私からご説明を。」
「侍従が聞いても良い話か。」
壮年の侍従は英王に忠実で、王府を開府した時からずっと仕えている。
「勿論です。」
「あの時、英王殿下を将とし靖王殿下が副官でつかれた隊は平原の南で接敵、そこから渓谷の入り口まで敗走する敵を追い、ついに渓谷内に誘い込まれたところで、伏兵に狙撃されています。」
衍はいったん言葉を切る。
「武徳司の隊と靖王殿下の配下の者たちがこの伏兵を何人か排除しましたが、一人は狙撃に使った銃で自害、残りは捕縛されました。あまりにも大人しく。死んだ伏兵の所持品はあからさまにご生母様の一族を示唆するものだったと計都は申しております。」
「つまり何者かの謀略が働いていたと?」
「まだはっきりわかりませぬ。刑部や大理寺等にも思わぬものが潜んでいそうで今密かに洗い直させています。何かわかればお知らせします。」
靖王があとを引き取る。
「次の国子監の休みに、うちの張太医、姜䪭、それから風聡…風の三男も連れて改めて参ります。兄上の侍医にも同席してもらい、事件について意見をもらいたいのです。」
無くした腕が痛むことを話してくれないかと水を向けたつもりだが、兄は何も言わなかった。
先程から腕を気にする様子はあるにも関わらず。
「確かに奇妙な点はいくつかあった。医師たちに瑾や衍、計都と今一度、洗い直してみれば何かわかるだろうか。」
「ええ、私はそう願っています。」
英王はかすかに眉根を寄せ、考えていた。
侍従も靖王と英王を交互に見つめる。
「――頼む。今更我らの処遇は変わらないだろうが、謀略の芽は早めに摘んでおくべきだろう。恐らく私の件が最後ではない、そんな気がする。今後を考えて父上の耳に入れておいてくれ。」
「はい。」
「掩月を退出させたのは正解だな。これを知ればまた何をするやらわからん。あれは本当に困った女だ。」
苦笑半分、ため息混じりに英王はボヤいて天上を仰ぐ。
そう言いながら掩月を大きな支えにしている事は靖王にも分かっている。
靖王は掩月が事件を起こした現場を知らないが、詳細を聞いた時は度肝を抜かれた。
兄はその手に負えない感じがいいんだろうか。
分かるようなわからないような。
―――――
閉門ギリギリに镹安へ戻り、興嘉宮に帰ってきた。
国子監の寮より東門から近いためだ。
慧の部屋は靖王府と同じく寝殿脇の東侍女房に用意されている。
元は侍女用の雑居部屋であるが、ここは慧だけの個室である。他にもいくつか部屋があり、靖王の乳母や生母一族出身の女官や侍女たちが個室として使っている。
いわば身内しかいない場所に入れられて慧は若干気後れを感じる。
彼女たちは事前に慧の事を聞いているのか、本来なら男が入れない中門内に男装で出入りしても誰も何も言わない。だが夜間はさすがに混乱を招くので侍女の格好をするようにしている。
まあ現在は女主が寝殿にいるわけではないのでそこまで出入りは厳格ではない。中門に立つ侍衛達や老女官にも周知されているので問題はない。
そう考えると、衍であれば寝殿近くに部屋があってもおかしくなさそうだが、彼は思遠と同じく中殿の侍衛詰所に部屋を持っている。衍は王府の政務にも関わっているためらしい。
よって主人の靖王の部屋には、慧が一番近い。
「子容さまこそ、一番近くの部屋にいるべき気がするけど。」
寮ではそうなっているのに。
別に自分は侍衛詰所で良かったのだが。
女ということを考慮してくれたのだろうが、逆に靖王の部屋に近くて困惑する。結局衍と同じように数の足りない侍女の仕事もするので、仕方がないのか。
衍やほかの侍女たちと、下女が掃除をした後の寝殿の中を整えて、湯殿の準備などの差配をし、靖王の晩餐の給仕と目まぐるしく働き自室に下がる途中。
うす暗くなった渡り廊下を灯りを持って歩く侍女の姿が目に入った。
彼女は寝殿に入っていった。
「…?」
確かに西侍女房にいる侍女で、不審な者ではない。
彼女とはあまり話したことがない。日中は見かけず夜になると現れ寝殿に入っていくのを幾度か見かけた。
それまでより早い時間だったので、印象に残った。
だが、まあ、そういう事もあるか、と深く考えず慧は部屋に戻った。
その侍女をみたのはこの夜が最後だった。
いつしか彼女の姿を見なくなったことに慧は気づかず、そのまま忘れてしまった。




