《二》二の君の離宮 前
その宮は都の東に位置し、山を背に大小の棟が点在する瀟洒な庭を持つ。
温泉が湧き出ており、中興の時代には時の皇帝や寵妃が湯治に逗留し、朝政が行われたという離宮――『霊泉宮』という。
二の君、英王はここに自身の正妃と少数の供とともに幽閉されていた。
興嘉宮から差し回させた馬車で向かう。聞けば衍はいつもそのように手配しているという。
靖王のもう一つの居所である王府の方が寮に近いのに、と慧は思ったのだが、いろいろあるのだろう。
靖王府の馬車だと誰が訪問するのかすぐわかってしまう。
英王は今でも正一品親王の身位のままと言えど、幽閉中の身なので世の中を騒がせるようなことはこちらが慎むべきで、仕方がない。
靖王の供は衍と慧、他数人の侍衛と護衛だけである。
道中、靖王は英王が何故離宮にいるのか語って聞かせてくれた。
瀚黎戦後、謀反に連座した咎で幽閉の沙汰が下り、二年前に、宮廷を追われることになった。
あの瀚黎戦での狙撃は謀反の陰謀の発端で、傍流の皇族だけでなく英王の伯父つまり生母徳妃の兄が関わっていたというのだ。それが明るみになり、直系皇族でありながら疑われることになった。
徳妃の一族は罪を問われて絶えた。
徳妃と英王も一時は詔獄の牢に留め置かれ取り調べられた。関わった証拠は出ず、しかし関わっていない証拠も出なかった。
靖王は必死に無実を訴えたらしく、数日、父帝の宮殿に額ずいていたそうだ。
英王は加冠後すぐから禁軍の将の一人として軍営にあり、その働き方で今上や東宮への忠誠を示してきた。
二心なしだったことは明らかだったため、今上帝の温情により罪を減じられている。徳妃は旧後宮の掖庭の宮殿に幽閉、英王もこの離宮で幽閉の沙汰となった。
事前の靖王からの情報によると、英王の正妃は姓を夏、名を晞月、字を掩月という。
今上帝皇后の異母妹の娘であり、靖王とは再従姉に当たる。
彼女は対外的には英王の目付の役目でいるのである。また掩月本人もそのまま英王のそばにいることを強く望んだそうだ。
英王の他の二人の側妃はこの時離縁したそうだが、運が傾けば離れるような妻たちだったようだから、本人達も渡りに船だったのではないだろうか。
南に面した庭園の青い甍の塀が見えてくる。
門で御者が靖王の紋の入った書状を手渡し警衛に馬車を指し示す。
使いは出してあったようでそのまま入るように言われているようだ。
庭園の中を馬車は進む。
整えられた緑の植え込みが花木を取り囲み、鳥が遊ぶ光景が窓に広がる。
春夏であれば華やかなのだろうが、冬の今は椿や梅がひっそりと咲いているのみだ。
客殿前の門に馬車を寄せると、門の奥に小柄な若い――少女と言ってもいい若い女と壮年の男が現れたのが見えた。
馬車を降りた靖王に、若い女と男は拱手の礼を取る。
ではやはり女が英王妃、掩月で男は侍従なのだろう。
靖王の後ろで衍と慧も礼を取る。
「靖王殿下、お久しゅうございます。」
「三月ぶりですね、義姉上。しばらく来られませんでしたがお元気ですか?」
「ええ、わたくしはいつでも元気にしております。」
掩月はうふふ、と可憐に笑う。
その笑顔があまりに無邪気で、先ほど聞いた苦労と結びつかない。
「兄上のお加減は如何です。」
「動ける日は増えていて調子の良い日は剣の鍛錬などなさっておいでで、伏せっていたあいだの体力もずいぶん戻ってきたと仰せです。失ったのが利き腕でなかったのは幸いでした。」
「…。」
掩月は今度は少し寂しげに微笑む。
靖王も同じ表情を浮かべている。
さらに表情を曇らせ、掩月は口を開いた。
「ただ…近頃眠りが浅くなっておいでのようで。飛び起きては奇妙なことを仰るのです。」
「奇妙な?」
靖王は眉根を寄せて聞き返す。
「無くなった方の腕が何故か痒い、潰されるように痛む、と。」
無い方の腕が痛むとは奇妙な話であるが、稀に軍営で聞く話ではある。
「夢ではなくですか。」
「ええ。聞けば腕を失ってからずっとだと。日中は耐えてきたが、眠っている時には、とさすがにお辛いご様子で。」
「詳しくお聞きしても?」
「一月ほど前から夜間は眠り薬と鎮痛薬を飲んで休まれるようになったのですが、そうすると、調子のお悪い時には日中にもひどく症状が出るようになってしまったのです。」
掩月は目に涙を浮かべて絞り出すように訴える。
「薬もより強いものを侍医にお求めになっています。」
「それはよくありませんね。」
薬剤の種類によっては依存性がある。
靖王は眉を顰め思案しているようだった。
「二階の大廳の露台にどうぞ。わたくしは殿下をお呼びして参ります。」
さあ、と掩月は気を取り直すように笑いかけ、侍従に客人を案内するように申し付けると、一礼し滑るように去っていった。
南から北に大きく弧を描くように作られた露台には応接用の家具が設えてあり、そちらへ案内される。
「今日は暖かいので…お庭をご覧いただきながらお茶を差し上げましょう、と夏妃さまから申しつかっております。」
侍従はそう言って茶器の準備をする。
青い染付の大きな壺に、庭の紅梅と冬薔薇だろうか、鮮やかな色の花々が生けられ素晴らしく良い香りを放っている。
冬に咲く薔薇は貴重である。
ほどなく掩月がもう一人の侍従らしき青年を従え隻腕の若い男と戻ってきた。
隻腕の男が英王であることはすぐわかった。
英王は元は武人らしくがっしりしていたが、ずいぶん痩せたようだった。
それでも、伏せっていることが多いとは言え体幹にその気配は残っている。
髪は梳き流して上半分のみ髷に結い、織の長袍と柔らかな生成りの下裳でくつろいだ感じだ。
掩月と並ぶと一枚の絵のよう、と慧は思う。
しかし、あの時あった左腕はなく、袖は肘のあたりから腕があればあるはずのふくらみを失い揺れている。
「瑾、よく来てくれたな。」
「兄上、お加減はいかがですか。」
拱手で迎える靖王に英王は頷く。
「瑾」は靖王の字、元瑾から取られている。
同等以上の身分でなければ口にすることはできない呼び方だ。
衍を見やると頷くので、靖王の後ろに控えておく。
掩月は優雅な手つきで茶を淹れる。
湯気とともに良い香りが広がった。
茶は白茶だろう。
「調子の悪い日はあるが、近ごろは動ける日も増えたゆえ剣の鍛錬を再開してみた。ここ二年でかなり衰えたが片手でもやっておかねばな。
他には老師を招いてな、かつては身が入らなかった学問をしているぞ。」
それはいいですね、一の兄上も心強いかと、と靖王は笑う。
英王は国子監を出ているが、ほかの兄弟ほど学問が得意ではなかったとかで武学の出らしい。
そうはいっても恐らく好みに合わなかっただけで能力はあるはずだ。
「それから、掩月と庭の手入れをしたり、菓子をつくったりしている。」
回復しつつあるとはいえ隠居のような暮らしに靖王は少し痛ましそうな顔をしたが、英王と掩月の顔は静かだった。
「そんな顔するな。この三年怒涛のように感じる時もあったが、我々はこれで存外心穏やかに暮らしているよ。」
掩月の顔を覗き込む英王と、ふふ、と微笑む掩月がとても貴重なものに思えた。
「それであればいくらかは安心ですが。」
「そうだ。安心してくれ。」
二人の様子に靖王も少し表情を柔らかくする。
「随分と良くなられたのですね。」
「ここの湯はとても良いのだよ。瑾、お前も今度泊まりがけで来るといい。」
慧は、その時はぜひお供をしたいものだ、と思った。
「ええ、近々きっとですよ。」
掩月が言っていた、失くした腕が痛むことについて英王は触れなかった。
武人として、弟にはあまり弱さを見せたくないのかもしれない。
慧の方に視線を向け不思議そうな顔をする。
「ところで今日は見慣れない侍衛を連れているな。それも随分と若い。」
「ええ。この者を覚えておいででしょうか、兄上。」
「…わからん。が、あの時私を助けた者に似ているな。あの者とよく似た瞳の色をしている。…薛、と名乗っていたな。」
靖王はええ、と頷く。
「あのとき兄上を馬上で止血して無事本陣まで送り届けたのはこの者です。風思遠の遠縁にあたりますね。計都、といいます。」
離宮の住人二人が息を呑む。
靖王の紹介を受け、慧は英王夫妻に礼をとった。
「あなたが。」
「確か…薛慧といったか。」
顔を上げると、英王がじっと慧を見つめていた。
「あのときそなたが来なければとうに私は死んでいたな。…礼を申す。幽閉中の身ゆえできることはあまりないが、役に立つならいつでも言ってくれ。」
そう言って掩月と二人頭を下げる。
慧は慌てて跪く。
「そのような…もったいないお言葉でございます。」
「この様な身であろうとも、あのとき生かされてよかったと心底思っているよ、私は。」
英王は静かにそう言って微笑んだ。
笑うと靖王と似ているのだな、と思う。
「この宮には信頼できるもの数十名しか置いていない。今日はゆっくりしていって、掩月に外の話を聞かせてやってくれ。」
「ありがとうございます。」
礼をとると、英王はうん、と頷く。
「計都をよく連れて来てくれた。こちらから誰かに会おうとすることはできんからな。」
「文を頂ければ可能な限りお応えしますよ。父上に報告はさせて頂きますが。」
「勿論だ。」
靖王は茶を一口に飲むと掩月の方を向き微笑む。
「義姉上、この者にお庭を見せてやって頂けませんか?」
「ええ、参りましょう。」
掩月は軽やかに立ち上がった。おそらく彼女もこれは人払いだな、とわかったのだろう。
英王が失くした腕の痛みに悩まされているという話は結局出なかったから。




