《一》姜家の娘
寮を移ったあとのある日。
慧は国子監で、官給制服を着た娘を見かけた。
男装といえば男装だが、ただ制服を着ているだけ。慧と違い女だと簡単にわかる。それを隠している様子もない。
さすがに化粧はしていないが、紅を引いたような唇、濃いまつげに縁取られたぱっちりした目が印象的な、南方系の愛くるしい顔立ち。
「…?」
突然女子の入監が認められたのかと思ったが、そんなわけはない。
彼女の着ている制服の色は慧のものとも、靖王たちのものとも、違っていた。
その日の午後。
課題が溜まっているというのに呼ばれ、慧は舌打ちし、うなだれつつ靖王の部屋に行く。
国子監の授業後の午後や休みは靖王の命令をこなさないといけなくなってしまった。
だらだらする時間と課題をこなす時間が欲しい。全く忌々しい男だ。
「お呼びでしょうか。」
「…明日午後、侍衛として伴を頼みたい。二の兄の離宮に見舞うつもりだ。妃もたまには外の者と話されたら気が晴れるだろう。」
「英王殿下と…お妃さまですか?」
確か三人いた妃のうち、実家に戻ったり再嫁せず一人だけ残られた方だ。
「気難しい方だったりしませんか。辺境育ちの粗忽者ですので、ご不快にさせてしまうやも。」
なんとか逃げたい。
宮廷の作法とか、そりゃ昔習うには習ったが勘弁してくれ。しかもそれは女としてだ。
「大丈夫だ。外見には皆騙されるが、義姉上はそんな事で不快になる方ではない。」
「…。」
慧には同年代の女性との付き合いが良くわからない。
しかも皇后の姪なんて高貴な女性とどう接したらいいのだ。
嫌だなあと思いつつ、でも否とはいえない。
「嫌そうな顔だなあ。」
「そんなことは…ありません。」
男だと思えば多少のがさつさも許されないだろうか。…否。
「もう少し本音を隠すことを覚えないと危ないぞ、お前。」
靖王は片眉を上げて可笑しそうに言った。
「…は。」
「まあ、悪い方じゃない。気楽にしろ。…明日は帰りが遅くなる。今夜は早めに休め。衍、準備を整えてやってくれ。」
衍は手際よく経路などの説明をし、衣服や武装に必要なものなどを部屋に届けてくれた。
新しい部屋は算学の寮の部屋と広さは変わらないが庭が見えて暖かく快適だ。
帷付きの臥台が一つ、書卓一つ、長椅子一つ、食事用の円卓と椅子、大きな書架と衣桁、衣櫃、香炉台に小さな飾り棚まである。
猿には贅沢すぎる。
慧は実家から持ってきた香炉に香を焚き、窓辺の香炉台に置く。
そしてまた翌日。
今度はあの彼女とばったり道で会い、目が合った。
「ごきげんよう。」
挨拶を交わしてすれ違うだけだったはずなのに、彼女は振り返って慧に声をかけた。
「あなた、薛さんとおっしゃるのよね?」
「…。ええ。」
まただ。こちらは彼女を誰だか分かっていないのに相手は自分のことを知っている。
「姜磊を知っているでしょう?彼は私の弟よ。」
言われてみればどことなく似てはいる。
「ああ、そうでしたか。弟君には入監以来懇意にしていただいています。」
「姜䪭よ。音を二つ書く『䪭』ね。字は韶音。医学での聴講に来ているの。」
䪭とは楽器の阮咸の阮を表す異体字。
阮咸は丸い胴と長棹を持ち、撥で弾く楽器だ。
この娘の雰囲気にとても良く似合っている。
南国公、姜家は武門だが医官も多く輩出しており、女子にも医学を学ばせる家風があると聞く。
その嫡女であれば、聴講を許されてもおかしくないかもしれない。
「薛慧と申します。字は計都と。私は算学です。」
姜䪭はいきなり切り込む。
「あなた…本当は女性よね?」
慧は動きを止め、姜䪭を見つめる。
カマをかけている、などではなく、彼女は確信を持って問うている。
「…なぜ、そう思われますか?」
聞いてくれる?と言わんばかりの笑顔が返ってくる。
「まず、骨格ね。少年だとしても、頭と肩の比率が違う。体形を整えているのだろうと思うけど、お臍があるだろう位置が低く見える。胸とお尻の幅も男性とは均衡が微妙に違う。眉上の骨があまり発達していないし、喉は隠れているけど細くて喉仏も発達が見られない。それから手足の大きさ。同じ身長でも男性ならもう少し骨ばっていて大きい。指もそうね。一見、楽器が似合いそうな節の大きくない綺麗な手指よ。きっと器用ね。武芸でできたと思われるもの、楽器の稽古でできたと思われるもの、二種類の胼胝がある。」
「は、はあ…。」
慧は骨の標本にでもなった気分だった。
医者としての観点から見ると全く擬態できていないらしい。
露見すれば死罪の秘密を知られたからには即始末したいところだが、季瑕――靖王と同じでそれには身分が高すぎる。口封じのために始末するにも、あるいは小金を握らせ黙らせるにも。
「…。何か私にさせたいことでもお有りで?」
何故この間から色々な高位の者に目をつけられてしまっているのか。
「ああ、そんなに警戒しないでほしいのよ。あなた靖王殿下の侍衛になったところでしょう。あなたの事だと言われてはいないけど、殿下は色々と私にお尋ねになったの。すぐにあなたの事だと分かったわ。」
「…。」
どうやらこの娘はどこかから自分を観察していたらしい。
「殿下が急な陛下の聖旨まで出させて侍衛にするってどんな者なのかしらって、単純に会ってみたかったのよ。ああ、私は元々、殿下の後宮時代の学友で彼の側の人間よ。あとで殿下に聞けばいいわ。」
要するに靖王のお妃候補じゃないのかと思うが、変に誤解されていないことを祈る。もっとも、絵面的には最高の組み合わせではないだろうか。
見るだけならいいが、関係ないから色恋沙汰に巻き込まれたくない。
それにしてもこんなところで男子の監生に混じって医学の勉強とは。
高位の貴族の家に生まれたなら、わざわざ国子監で医学など学ばずとも良さそうなものを。
全く経歴が繋がらない。
慧は首を傾げる。
まあ靖王は面白がっていそうだが。
「あのう…あなたはどうしてここに?」
「あまり広く知らされてはいないけれど、陛下は医学のみ女子の聴講をお認めになっているの。」
なるほど、と慧はひとまず納得する。
「左様ですか。…それでどうして私に声を?」
「単にあなたとお近づきになりたかっただけ。…興味があったの。」
「それはどういった意味でしょう。」
「そんなに怖い顔しないで。」
元々こういう顔なんだが。
「…後宮を出られて以降、殿下は乳母やご生母の一族以外には侍女も置かれない。侍衛が侍女の仕事も一部兼ねているわ。女性たちも殿下を怖がっていて近づく者は少ない。だからよ。」
宦官粛清事件はそんなところにも余波があったらしい。
「ついでに言うとね、磊磊は五の君、恵王殿下の侍衛だから、今後は接し方を考えたほうがいいわね。あなたは靖王殿下の侍衛なんだから。」
「はあ。」
「ねえ、今日これから時間あるかしら。」
今日午後は離宮に同行を命じられている。
「…殿下に伺ってみないことには、なんともお答えしかねます。午後はお出かけで同行を命じられていますので。」
「じゃあ、殿下の寮にいきましょ。ちょうどお昼だし。」
どうもこの娘はちゃっかり靖王の寮で中餐の相伴に預かるつもりらしい。
靖王を恐れていないどころか、かなり気安く接しているようだ。
「…それは色々と差し支えがありませんか。」
後ろで同じ制服を着た娘が、韶音さま、それは…、と困惑している。
名族の令嬢とはこういうものなのか?と慧は首をひねった。
未婚の娘が男性の住む寮になど、良からぬ噂にならないか、と他人事ながら心配になってしまう。
が、お妃候補だからいいのか?
いや、婚約前に妙な噂が立つことこそ用心すべきでは。
慧は自分のことは棚に上げてそう思った。
姜䪭は慧の考えはお見通しだというように、くすくすと笑う。
「そんなの気にしなくていいわよ。殿下の寮には姜の一族の者もいる。客廳までは私が出入りしても問題ないわ。」
「…。」
仕方なく姜䪭と一緒に寮へと歩いていく。
靖王たちの寮は医学や算学の学舎より国子学の学舎のほうが近い。
靖王たちはすでに戻ってきていた。
客廳にはいると思遠が部屋を整えていた。
「来たのか、韶音。」
「さすがに王府や興嘉宮※に単独で乗り込むわけにも、ねえ。ここなら話ししやすいわよね。」
「中餐を一緒に食べていくかい?殿下はすぐお出かけだから簡単なものしかないけど。」
「いただくわ。殿下はもうお済みに?」
「まだだよ。」
靖王が衍と客廳に入ってきた。
「ああ、韶音。計都も一緒だったか。」
「ごきげんよう、靖王殿下。」
靖王は姜䪭の挨拶に頷くとどかっと座る。
「午後、英王の兄上の離宮に行く。あまりここに来るな。今日は帰れ。」
「ええ。でも今日は薛姑娘とお話したくて来ました。」
「…姑娘?」
靖王はとぼけている。
むしろ、誰だそれ?と心底思っていそうだった。
「ええ。…だって女でしょう?とてもうまく化けられているけれど、骨格をみれば分かります。」
すっと靖王の目が細められる。
「…。そうか?」
ええ、と姜䪭は頷いた。
「女だからって私を除け者になさるけど、彼女がここにいるなら。私だっていいわよね?」
「…。」
そんな事を同意を求められても困る。
自分の身に安全にもかかわることなのだが、靖王が姜䪭に対しては全くの守勢なのが笑えてしまう。
「お前はどこからどう見ても女だろう。ここに出入りして損するのはお前だぞ。」
「彼女も私から見ればどう見ても女ですが?」
「ああ言えばこう言うな。…韶音。『計都』は男だ。そういう認識でいろ。」
「これから殿下がなさろうとしていることに気付かない私だとお思いかしら。」
「…。」
「私は、子容や思遠、そして『計都』のように官位を持つわけではないけれど、その反面、殿下にとって動かしやすい駒だと思いますが、いかがです?」
この危険そうな皇子の駒にわざわざなりたいなんて変わった令嬢だ。
あれか、それともお妃候補としての愛ゆえか?
慧には分からない心持ちだ。
「殿下は仰いました。英王殿下の狙撃事件、あれは幾つも疑問点があり、医学的な観点で意見が欲しいと。」
誰かに聞かれていないかと周りを見回してしまった。
あれから四年以上経っている。
衍から、靖王は当時の記憶をまだらに失っていた、と聞かされた。
今なお調べようとしていたことに慧は驚いた。
まだ官に指示する段階ではなく、内々での調査だから医者の卵の姜䪭に話をしたのだろう。
正直慧には関係のないことなのだが、ここ数年あれはどうなったのだろうかと気にかかっていたことは否めない。
「さわりだけ聞かされて、放っておかれるなんて。」
「…随行の申請には間に合わないから今日のところは帰れ。」
「…。」
姜䪭はむくれている。
靖王を守勢に回らせておきながらの幼い振る舞いは、とても不均衡な感じがする。
普通の娘ならあざとく感じられるのかもしれないがそれが彼女の愛嬌になっていた。
「明日、王府に伯安も呼んでる。授業が終わったら屋敷で待ってろ。途中で拾い、王府に移動して話をする。」
伯安というのは靖王の乳母の息子で、誘拐事件の時に慧を診てくれた王府付きの侍医である。
彼は戦傷に詳しいらしい。
姜䪭は表情を和らげた。
「それなら、今日のところはこれぐらいにしておいて差し上げます。」
慧はその笑顔にくらくら当てられそうになった。
良家で愛されて育ったもの特有の屈託のなさ。
ちょっと変わっているが圧倒的に慧とは違う世界の住人である。
「別にお前を除け者にしようとしているわけじゃない。ここに頻繁に出入りするのはお前の為にならないと思っただけだ。…中餐を済ませたら長居せず帰れ。」
靖王は少し表情を緩めると言った。
「もとよりそのつもりです。」
「…おい。」
姜䪭は衍を振り返り、満面の笑みを浮かべて聞く。
「子容、今日のご飯はなあに?」
侍衛編スタートします。
当面は週一更新になる予定です。
休止中の間もたくさん読んでくださりありがとうございました。あと少しで1Kpvです。引き続きよろしくお願いします。
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※興嘉宮
東市北東の離宮、中興の時代にはここで政務がとられたため南内とも呼ばれる。




