《二十一》父の盤上、瑜の手駒
その夜の、宮城。
長椅子に置かれた碁盤の前で父は老宦官を相手に対局中だった。
老宦官は靖王が来たことを告げる先触れに気づくと、碁盤の前から立ち上がり、礼をとる。
彼は隅の下賜された専用の椅子に腰を落ち着けた。
「瑜よ。お前から会いたいとは珍しいな。」
字ではなく名を呼ばれたがむしろ父は機嫌がいい。
「ちょうど良い酒が手に入りまして。」
靖王は抱えてきた甕を見せ円卓に置く。
「ほう。…では飲む前に、ここからお前が打て。」
「私がですか。どうも先がないようにも見えますが…。」
老宦官は、ふぉふぉと笑う。
「殿下に続きのお相手をお願いいたします。歳をとると根気がなくなっていけません。」
「李公公はまだそんなに歳は取っていませんよ。」
手は幾つかある。
だが数手先は死地。
ではどうする。
相手の手駒を生かせば死地を免れ得るところがある。僅差で数手先に勝ちに持ち込めるところが。
靖王は迷わずそこに石を置く。
「長考するのかと思いきや、こういうときのお前は思い切りがいい。どれ。」
皇帝は楽しそうに盤上を見渡し石を置いた。碁石が盤面に置かれる小気味いい音だけが、部屋に響く。
やがて読み通り、靖王が辛くも勝った。
「なかなか興味深い戦い方をするようになったものよ。」
皇帝は碁盤の上を眺めて満足げに笑った。
「たまたまですよ。」
「そうか?」
「ええ。」
皇帝が円卓の方に移るといつの間に老宦官が呼んだのか、宦官や尚食の者、侍女たちが酒器の載った盆や酒肴の入った籠を持って現れ、卓上を整えていった。
靖王は皇帝の眼前で甕から酒器に酒を移し杯にそそぐ。
自ら一口飲んで見せてからまたそれぞれの杯を満たす。
横では老宦官が銀針を料理に差し安全を確かめていた。
「どうぞお召し上がりを。」
老宦官が椅子に下がると、皇帝と靖王は酒杯を交わした。
「良い酒だな。」
「近年東南部では糯米の品質が向上しているようですね。良い酒ができた、と風家から父上にと預かってきました。ついでに私もお相伴に預かれる、ということで。」
「抜け目がないな。」
「今夜は冷えます。この酒で温まりましょう。」
酒は黄酒でとろりとした琥珀色をしている。
ひとまず先日の康大理寺卿の屋敷でのことを報告しておく。
「先帝の時代から時々あったことなのだ。彼は昔は優秀だったんだがな。更迭するのは簡単だが根を断てねばまた違う者がのせられるだけで、膠着しておる。供述書は別に手だてはしてあるから今は心配ない。時が来るのを待っている。ただ縁談の件といい、お前が見たという中原の者らしくない男といい、きなくさい感じがするな。」
すでに対策は取っていたと聞き靖王は一旦ほっとする。先帝の時代からあったということは、己家や徳妃一族の事件も詔獄へ送られる前段階ではもしや、と思えてくる。
今は憶測であり、さすがに口にはできない。
靖王は杯を口に運ぶ。
白酒ほどではないが度数が高いので、喉が炙られる。
これは本格的に酔う前に、一番気がかりな話をせねばならないと思った矢先、皇帝が口を開いた。
「それで?なにか話があるのだろう?その風家からの献上品にも意味がある。」
「さすが父上ですね。」
靖王はにっこりと笑ってみせる。
面倒な話というものは相手に先にきり出させた方が話しやすい。
「国子監で面白い者を見つけました。」
「ほう。どのような者だ。」
皇帝は興味深そうに僅かに身を乗り出す。
「父上の方がご存知かもしれませんね。衍に調べさせ、私自身も試してみましたが―――」
靖王は杯を傾けて一口、酒を呑む。
「非常に多才で高度な能力を持っています。風家の傍流、薛家出身で算学の監生です。」
「ほう。」
これは賭けだ。
一瞬の間のあと靖王は静かに言った。
「ただ、国子監の監生としては問題がございます。――惜しいことに…どういうわけか、女です。」
しばしの沈黙。
それから皇帝は突然膝を打って笑い出した。
「なんと。」
まだ笑いを含んだ声で続ける。
「確かに女が入監してはならぬという規定はない。だが発覚すれば大事になるな。」
規定されてはいないが国子監は大前提として男子のための学校である。
女の身で通っていることが発覚すれば大罪に問われかねない。
「ええ。現場は混乱します。これを放置すると騒ぎになりましょう。」
「それで?」
皇帝は靖王の目をみた。
「そもそも、彼女は寧王の兄上の推挙で入監しています。…なぜ兄上は彼女を手中になさらないのでしょう。」
父の密命も慧が手元にいればこなしやすい。
「寧王は、頭が切れすぎる故に我々とは違う理屈で生きているのだ。人より五手先十手先を常に読んでいる。」
「…。」
「お前はその者をどうしたいのだ。」
「…このまま罪に問われるのはあまりにもったいなく思います。」
靖王は皇帝の視線をまっすぐ返す。
「特旨をいただきたく存じます。」
しばらくの間どちらも言葉を発さず、部屋はしんとする。
「…お前はなぜその者を気にかけるのか。」
「ご想像にお任せします。」
靖王は曖昧に微笑んで杯を口に運ぶ。
「お前が誰かを進んで拾おうとは珍しい。何か特別なものがあるのか。」
「…その者の名は薛慧。二の兄上をお助けした者です。ご存知ですね。」
皇帝の目が光るが靖王は視線をそらさず見つめ返す。
「あれか。」
「最近、思い出したのです。この酒は風家の詫びのようなものでしょう。」
それから、と続ける。
「二の兄上の離宮に一度連れて行こうと思っています。よろしいですか。」
目が合うが、それだけで言いたいことは伝わったはずだ。
「…気づいたか。」
皇帝の声が低く響いた。
「どうでしょうか。どうかご案じなさらず。分かったことは報告いたします。」
「…うむ。」
「後宮に潜入させるにあたって彼女以上の適任者はいません。母上の求められている人物像とも合致します。武芸に秀でる、女官、あるいは宦官。」
靖王は口元に笑みを浮かべる。
それを見て皇帝は小さくため息をついた。
「一つ条件がある。その者は今後お前が責任を持て。」
「わかっております。」
「…女であることは今は咎めぬ。特旨は出そう。離宮にも連れて行くがいい。」
靖王は内心安堵しながら、礼をとった。
「図々しいついでにもう一つお願いが。薛慧を私の侍衛にすることをお許し願いたいのです。」
「侍衛にか?」
「実際には暗衛としての役目が多くなりましょうが。」
なるほどな、と皇帝が頷いた。
「それも許す。今書こう。」
通常なら翰林学士らに起草させるが、父は誰にも下書きを預けず筆をとることにしたようだ。
「…感謝いたします。」
おかげで予想より早く手が打てそうだ。
「お前に託したことを探らせるためなら仕方がないな。」
皇帝は書卓の硯と玉璽に静かに目線を落とした。
しばらく思案するように黙した後に、二通の特旨をしたためるべく筆を手にした。
靖王は横で墨を磨る。
ほどなく文面を書き上げ、皇帝は玉璽を捺す。
老宦官は自身の養子の若い宦官を呼び、明日急ぎで靖王府と国子監に持参し宣読を行うよう命じた。
皇帝は、再び杯を持ち上げうまそうに呑むと言った。
「侍衛の件は明日昼過ぎ、王府※で宣読を受けよ。」
「はい。」
翌日、靖王府。
靖王は国子監の授業が終わってから王府に直行し内官の来るのを中院で待っていた。
他のものは衍以外人払いしてある。
警衛が聖旨の到着を告げ、靖王は門へ向かう。
やがて現れた内官――例の老宦官の養子は恭しく宣読書を掲げる。
「靖王府に陛下から聖旨でございます。」
「謹んで聖旨をお受けします。」
靖王は膝をつき宣読を待つ。
「『――薛慧を靖王府侍衛とす。かの者については朕の選定した者でありその身分について余人の詮索を禁ず。』」
「…皇帝陛下のご温情に感謝いたします。」
靖王は微笑みを浮かべ、両手を高く掲げて聖旨を受け取った。
慧に近々手合わせを誘う文を書き、衍に持たせようとしたところで思いついた。
ついでに、国子監祭酒の元に行くことにする。
もちろん特旨の確認のためだ。
この時間ならまだ監内にいるはず。
国子監、祭酒の執務室。
祭酒は靖王の訪問に少し慌てているようだった。
「祭酒どの。」
「これは、靖王殿下。」
靖王は指を唇に当て微笑む。
ここではその身分は一応秘されている。
「お忙しいところ突然伺って申し訳ない。」
「とんでもございません。どうぞ。」
椅子を勧められ着席早々、靖王は口を開く。
「今日、ある監生について、聖旨が下ったでしょう。」
「なぜそれを。」
なぜ、と言いつつそこはあまり驚いていないらしい。
「念のため確認しておこうと思いまして。」
「さようですか。ご覧になりますか。」
祭酒は不安そうな表情を浮かべている。
「いえ。内容は聞いています。」
靖王府に来た内官が丁寧にも耳打ちして行ってくれた。
「近々騒ぎが起こるやもしれないが、聖旨があると言って押し通せばよろしい。それで祭酒どのや教授たちが巻き込まれることはありません。」
具体的なことは言わなくても伝わるだろう。
「承知いたしました。お知らせ感謝いたします。」
これで、ひとまず危険は払い、準備は整えた。
後は手中にした駒が存分に動けるようにするだけだ。
※王府
漢代から明初にかけて、各地に王として封じられた皇族が軍事と行政の拠点として開いた政庁。税穀を備蓄するための蔵が並んでいたことが語源。
明代から清代にかけて、都や主要都市の要所に置かれた皇族の大邸宅。こちらはただの邸宅にすぎないが、上記の王府の名残りでやはり王府といった。
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