《二十》消耗される駒、守られる駒
話は少し遡る。夜珠と薛慧が同じ人物だとわかった日の、夜半。
靖王はまた、瀚黎との戦の夢を見た。
空は矢で覆われ、砂塵が舞う中、馬が嘶く。
何かが破裂し直接心臓に響くような音、濃い血錆の匂い。
もう何度となく繰り返している場面。
夢だ、と分かっていても、靖王は目覚められずにいる。
あの火矢のように崖から降ってきた子供の姿が、一旦砂のように崩れたかと思うと、目の前で現在の姿に変容する。
傾いた日に照らされた金茶の瞳が、自分に狙いを定めるように見つめている。
「…あ。」
突然頭の中に浮かび上がってきた名がある。
「どうなさいました。…また戦の夢を?」
飛び起きた靖王に、衍が扉の向こうから声をかける。
「衍。…薛だ。――薛。」
「薛どのですか?」
衍は臥台に近寄ってきて聞いた。
靖王は臥台の帷の一点を見つめたまま続ける。
「援軍に、恐ろしく手練れの子供がいただろう。」
「…。ええ。」
「あの舞うような刀捌きとよく似ているとずっと思っていたんだ。…衍はそう思わないか?」
「…。」
「…あの時確かに…薛と名乗った。」
子供は武徳司の腰牌※を見せ、姓のみを名乗って去った。
「思い出されたのですか。」
兄が撃たれた瞬間を至近距離で目撃する、という経験をした靖王は、戦の後、あろうことか兄を救った者の名を忘れた。
「…あの隊は風家麾下の者が多いですから。当時の関係者は聴取を受けたはずですが、なぜ見つからなかったのでしょう。」
「…。」
靖王は衍の独り言の様な呟きに応えられない。
当時のことはこれまで、なぜか断片的にしか思い出せなかったのだ。
それでも今夜の様に、夢の中で思い出すことはある。
その機会は日増しに増えている。
――慧に会ってから。
「これまで、申し上げなかったことがあります。」
なんだ、と靖王は片眉を上げて問い返す。
「殿下は、都に帰り着くまでは全てを覚えていらっしゃったのだと思います。ですが帰路で体調を崩され、以来たびたび侍医の診察を受けておいででした。…さらに帰京後も英王殿下の無実を訴えて数日陛下の宮殿前で跪かれ、最後にはお倒れになりました。その時の薬湯に何か混ぜられていた可能性があります。当時の記憶が断片的な原因ではないかと。」
衍も自分も互いに口にしたことのない事だった。
「誰がそれを?」
「分からないままです。侍医が出した処方箋に基づき尚薬局※で出された生薬を調合し薬湯にしただけでした。密かに調べたところ処方箋に不審な点はなく、その後侍医はすぐ故郷に戻っています。陛下にはすべてを報告しましたが特に動きはありませんでした。」
衍は目を伏せ答える。
「…手がかりはないのか。」
事件の黒幕とつながるものの仕業か、あるいはまったく逆の。
「細い細い糸を辿ることになるかと。思い出されたのなら思遠に当たってみられては。」
「…いや、思遠に当時のことを聞こうとすると上手く躱されるんだ。父にも衍以外には聞くな、と言われていたしな。」
お手上げだと言うようにいうと衍は少しだけ表情を緩めた。
「…そういうことでしょうね。」
「ああ。」
最近なんとなくわかったことがある。
父は次兄を切り捨てるため離宮に追いやったわけではない。
次兄を生き延びさせるためだったのではないか。
そして自分に関しても。
「思遠はね…あれで立場が難しい人ですからね。」
「そういうことだな。…あいつ、薛慧が菓子好きってことと西域にいたってことしか教えてくれなかったんだぞ。」
衍は一瞬目を見開き、それから珍しく声をあげて笑った。
そんなふうに笑うと子供の頃みたいだ、と懐かしくなる。
思遠と衍はじめ他数人の自分の為に集められた名族の子供たち。
同じ師のもとで学び武芸の腕を磨いた。
ともに成長した彼らは、臣下ではあるが無二の存在だ。
この国で一番高い位を持つ者の息子として生まれた自分に、彼らの様に接するものは他にいない。
彼らには若くともそれぞれ背負っている物がある。いつかは道が分かれるのかもしれないが、靖王は彼らとの関係を大切にしている。
「もう一度、真っ向からお聞きになってみては。」
そう言うと衍は慧の銀簪を靖王に渡した。
「報告を受けました。銀楼によるとこの簪は確かに風家の依頼で制作したもので、同じものを二本、納めたそうです。注文はちょうど思遠が誕生した頃。」
「なんで二本なんだ?」
「それは分かりかねる、とのことにございました。」
「予備か?」
二人で首をひねってみてもわかるものではなかった。
翌日、夕方、靖王府の私室。
靖王は、夜珠の落籍祝いの宴に顔を出し、戻ってきて衍に手伝わせ衣服を改める。
土産に、ともらった青瑠璃の文鎮を書卓に置いた。
夜珠の部屋にあったものの複製品だ。
駱駝の形をした水滴を隣に置くと、緑洲で水を飲んで休んでいるようだ、と思った。
宴では、夜珠は一段と華やかな衣裳を着け、きれいに化粧を施していたから、同一人物なんだよな、と改めて目をこすって見直したくなった。
肩の荷が下りた、というように穏やかに笑みを浮かべて客らにあいさつに回っていたのが印象的だった。
夜珠――慧は靖王を見ると仕事用の笑顔を見せ丁寧に礼をとったが、若干表情が硬かった。
――まだ誤解があるらしいのは少々心外である。
ぬるい茶を飲みながら、慧との手合わせをもう一度思い出す。
側には珍しく思遠が控えている。
「思遠。お前の親戚なんだが。」
慧との手合わせで最後に相討ちになった時には背筋に冷たい汗が流れた。
この身のこなし、この刀捌きの見事さ――――はじめの一本こそ取ったものの、何でもありの実戦だったなら?
あの時戦場で見た者と対峙するなら。
そう考えたとき寒気を感じて、実戦なら勝てぬかも、とつい口にした。
「――この簪を預かっている。暴動があった時に落としたようだ。」
靖王は銀簪を差し出した。
思遠の眉がかすかに動く。
「風家の紋が入っているが、くれてやったのか?」
「…ああ。数年前、継母の療養で彼に世話になったのです。その礼に。」
思遠の継母と生母は同族の薛家出身である。
「礼?」
「西域の貴重な生薬が必要で、彼に都合をつけさせたのです。」
「…そうか。」
「悪いが出どころが知りたくて銀楼で確認させた。二本あるそうだが――。」
「ええ、予備に作られた分です。」
思遠の説明におかしなところはない。
『彼』と言ったこと以外は。
夕日を受け金茶に光るあの瞳。
普段は前髪で見えにくいが手合わせして動けば前髪の向こうに見え隠れした。
決め手は去り際に吹いた風で、はっきり瞳が見えた。
「似ているんだ。二の兄上を助けた者と。」
思遠は、顔色を変えない。
だがわずかに頬が強張ったことを靖王は見逃さなかった。
「…。」
「ずっと探していた。その名と顔をどうしても思い出せずにいたんだ。周りに問うことを父に禁じられていたから探すこともできなかった。」
覚えていたのは日を透かした瞳の色と、あの舞うような刀捌きに鮮やかな身のこなしだけ。
「殿下。」
それ以上聞いてくれるなという表情で思遠は低く呼んだが、靖王はそれをあえて無視する。
「あの時、その者は『薛』と姓だけを名乗った。」
「…。」
女なら当時とあまり背格好が変わらないことも納得がいく。
「それが、薛慧だった、と俺は思っている。お前、よく知っているな?――彼女を。」
それを聞き、思遠はしばらく絶句している。
「…ご存じでしたか。」
観念して口を開くことにしたようだった。
薛慧が瀚黎戦での次兄の負傷事件の重要な関係者であること。
父と思遠の反応から、靖王がふんだ通りだ。父と風家の間では成人した靖王があの時のことを思い出し調べ始めたら、話していいことになっているのだろう。
そして、戸籍は男だが、本当は女であり、そのことは伏せて国子監の監生として存在していること。
「あの者は…遠縁で、再従兄弟姉妹に当たることは以前お話した通りです。」
思遠は、目を伏せ一旦言葉を切ってから、続ける。
「我々は似た風貌を持っていますが、薛家にはこういう外貌の者がよく生まれます。私の生母は薛家出身ですので。」
二人は男女の体格の違いを除けば、再従兄妹という間柄にしてはよく似ている。
「殿下が記憶をなくされて、兄上さまのため何もできないことを苦しんでいらっしゃったのは、近くで見て存じております。ですがあの瀚黎戦のことについて私はお話できる立場にありません。まず陛下とお話をなさいますように。今は慧に関することのみ申し上げることをお許し下さい。」
「いい。我々はしがらみの中で生きている。」
思遠は何も言わず目を伏せしばらく黙っていた。
「…薛慧の生い立ちについてお話いたしましょう。」
慧は薛家の兄たちについて、五歳前後から武芸を始めたが、恐ろしいほど当時から筋が良く、たまに自分と手合わせしても同時期に始めたにも関わらず慧のほうが勝つ事が多かった、と思遠は言う。
「薛家は風家と同じく代々武門の家ですが、風家や薛家が何をしていたか、殿下はご存知でしょうか?」
ここで思遠の声が一段と低くなった。
「それほど詳しく知らない。禁軍や軍器監、兵部などに多く官吏を輩出しているが、実態は帝直属の諜報武衛集団、武徳司に多くが所属していると聞いている。」
「ええ。いずれ私が副都護を務めることになるでしょうね。」
風家の息子はそれが通過儀礼のようになっているが、風家の長兄次兄は文人気質であまり武人としての気質に恵まれなかった。
低い声で答えた思遠はまた言い淀むようにする。
風家麾下の家では子を一人一人武徳司の隊の者につけて幼少期から徹底的に訓練をする。
ちょうど十歳を過ぎたあたりで適性を測られ、以後どのような役目につくのか振り分けられるのだ。
特に才を見い出された者は都から遠く離れた西の地で、大人の武人でも音を上げるような、特務部隊の兵員として仕立て上げるための訓練が課される。
脱落者はもちろん、途中で死者が出ることがあるが、何割かの死は想定の上の訓練である。
慧はその訓練を生き延びている。
「…。ではやはり。」
あれが薛慧なのだ。
十の子供にそれがどれだけ過酷なことだっただろう。
奉られて軍に籍を置くような自分にさえわかる。
確かにあの身のこなし、馬の扱い、刀捌きは並の子供が身につけられるものでもない。
そんな環境にいながら、國子監に入監まで至れた事は驚きしかない。その上、舞や琴も客から対価を受け取れるほどの腕前の持ち主。
まあ、字や文は苦手なようだが。
そして、薛慧の戸籍は実態に反し”男”である。
また、薛家にはその妹として実体のない戸籍が存在する。
慧は任務に応じてその戸籍二つを男女で使い分けているのだ。
思遠が言うには、彼女には幼少時から課された使命があった。
先々帝の時代に亮は急激に領土を拡大し、その傾向は先帝の時代まで続いた。西の帝国へ輿入れする公主に随行する要員として慧は西域に派遣され訓練された。その訓練は西域の要人に対する諜報を行い、場合によっては暗殺や反乱の扇動をする為だったのだ。
だが急激な領土の拡大は反動も大きく、先帝時代末期になると徐々にそれを失い始める。やがて先帝崩御に伴い計画は頓挫し、慧はいったん都へ戻ることになった。
西域から戻り、巡検隊に配置換えになった慧は、戦場を転戦する日々を過ごし、その後負傷したため妓楼で諜報する隊に移った。
「…それ、お前の父や薛家の当主は全て承知のことなのか?」
恐らく慧の件は氷山の一角だ。
「ええ。残念ながら。」
「ご存知の通り、当時我が家門は征西戦でかなりの死者を出し、思いがけず当主を継ぐことになった父には、年長者の意見をねじ伏せる力がありませんでした。まだ祖父も存命で実権を握っていましたから。…今上陛下の御代になってからは十歳未満の者を他人に預けてそのような訓練をすることがないように言い渡しております。」
思遠は目を伏せ、今まで靖王に見せたことのない顔をしている。
重い沈黙のあと、ですが、と思遠は続けた。
「あの者をお使いになることを躊躇われる必要はありません。」
話が早い。
思遠はなぜ慧のことを調べようとしているか分かっていたようだ。
「武芸、学識、伎芸、男にも女にも化けられる風貌と技術、お役に立てるだけの能力を持っていることは既にご承知でしょう。」
結局、自分は搾取する側の人間である。慧を知れば、手駒として手中に収めたいと思う者は今後たくさん出てくるだろう。
優秀な者が目の前にいてみすみす逃してしまうなどというのは愚かだ。
それならば、自分が配下としたい。
「…背景は念頭に置いておく。」
「は。ご配慮感謝いたします。」
思遠は跪き深々と拱手の礼をとった。
いつもふざけている思遠の、常には見ない丁寧な礼に靖王はうんと頷いて、窓の外を見やる。
彼らの心の内を映すような夕霧が闇に誘うように横たわっていた。
思遠を責めることは出来ない。彼が歯切れが悪かった理由は、上からの指示があり、また国の恥、家門の恥として隠していることがあったからだ。
十歳にも満たない子を武人、暗殺者として鍛え上げ、その上妓楼でも間諜をさせている。
慧は、領土拡大路線の末の犠牲者と言える。だがその仕組みは今も大きくは変えられてはいない。
世の中は自分が思うより、やりきれないことが多いようだ。
靖王は髪をかき上げた。
「――状況が変わったな。」
少し静観していてもいいかと思っていたが。
ため息を一つつくと靖王は宮城へ行くため腰を上げた。
※腰牌
役人が身分を証明するために着用した。名前と役職が刻印されており、宮殿や軍営への出入りや検査のための通行証や証としてよく使われていた。
『百度百科』よりだいたいの訳
※尚薬局
殿中省に属する。
天子や皇族の健康を管理した。『コトバンク』




