《十九》退路は塞がれた
元宵節も終わり、新年を迎えてのお祭り気分も薄れてきたある日。何回目かの季瑕との手合わせの時だった。
慧は中庭に入ってきた思遠の姿を不審に思った。
「思遠さま…?何故ここに?」
「阿…いや、慧児。」
衍は思遠の肩を軽く叩き笑みを交わすと、入れ替わりで建物に入って行った。
後から季瑕が来る。
「先日は済まなかった。」
「いえ。事故ですから…。」
正体が露見した顛末がぼやんと思い出されたが、首を振って頭から追い出す。
そんなことより。
慧は思遠が季瑕に丁寧な礼を取っていることに気づいた。
「あのー。もしや思遠さまがお仕えされているのは、このお方…。」
「そうだよ。」
思遠がニヤニヤしているのが癪に障るが今は目の前の事実のほうが重要だ。
「はあ。…ということは、季瑕さまは。」
季瑕に目をやると、彼は片眉を上げて笑う。
ざあっと血の気が引き、汗が流れ出す。
「四郎さまは季瑕さまで、――今上陛下の四の君、靖王殿下…。」
ぶつぶつと唱えるようにつぶやく。想像を超えて高い身位の皇族だった。
かの君と季瑕は確かに同じ年頃。まさかのまさかで皇族の、それも今上帝の皇子とは。
目眩がしてきたが、今まで致命的な無礼がないか必死に記憶を手繰り寄せる。
主に四郎に対してだが、偉そうな口をきいたことも何度か。
(とりあえず謝っとかなければ。)
その場に膝を折って叩頭の礼をとる。
「ご身分を知らぬこととは言え、数々の無礼な言動を何卒お許しいただきたく…。」
「ははは!とうとう正体が知れてしまったか。」
思わず季瑕――靖王を見上げると、面白がっているとしか思えない表情を浮かべている。
だがしかし、貴人の顔をまじまじ見ている場合ではない。
不敬である。
慌ててまた頭を垂れじっとする他ない。
「立て。」
「はあ。いえ…。あの。」
「いいから。…俺は、確かに今上の四男だ。」
靖王はそこらの平民の息子の様に気軽に自分のことを説明する。
「名を瑾、字を瑜という。」
季瑕の字は瑾瑜匿瑕※(瑾瑜、瑕を匿す)から適当に付けたのだろう。
まあまあふざけている。
”季”は姓ではなく四男を表していた。
古くからこの国では名に霊力が宿るとされる。人々は他人に名を口にされることを嫌い、呼んでいいのは父母と目上の者のみとされているほどだ。
御名を知らされたところで、皇族なんて字ですら呼べるわけがないのだから、黙っといてくれ、と思う。
知ってはいけない情報は身を滅ぼす。
自分は間諜として仕事していたけれども。
「薛慧。」
「はい。」
「立って、顔を上げろ。お前は相手の身分で態度を変えるのか。」
動こうとせず平伏したままの慧に再度立つよう促す。
少し落胆するような響きが混じったことに、思わず顔を上げてしまったが跪いた状態にとどめる。
「殿下。恐れながらそれが身分と礼というものであるかと存じます。殿下だって私のことを名でお呼びになります。」
「それは悪かった。…今まで通りにしてくれないか。」
靖王は何故だか困った顔をしていた。
なんでも手に入る身分の者が願うものは何だろうか。
雲の上の話で想像がつかない。
目の前の青年は、ただの皇族ではなく今上の直宮で親王である。慧なんぞは貴族の端くれと言えども接点はほぼ無い高い身位の貴人。
その上、今上の第四皇子といえば。その生まれた順序が背負う四という数字と噂が混ざりあって、賛否両論の人物だ。『死』に通じる不吉な数字だと民に忌み嫌われるそれを、むしろ本人は好んで偽名に使うらしい。
数年前、高級宦官粛清に関わった、と巷で噂されていた人物でもあった。
当時第四皇子がまだ加冠前で、それが後宮で起こったこともあり騒ぎになった。後宮での殺傷は、固く戒められている。確か加冠するまで譴責で王府は封鎖されていたはずだ。
他にも異国人や身体に障害のある者を集めて酷くこき使っている、などと、良くない噂がある一方。
ひところほどではないものの、荘園を持つ宦官が民を顧みず個別に税を加算し虐待していたなどとという事件はしばしば耳にするし、異国人や障害があるものは行き場をなくしている者も多い。却って評価できる、と捉えている者もいる。
だが。
慧は噂話よりも、ここしばらくの彼の印象の方が確かだと思う。
時折見える得体のしれなさは、根っこが見えたところで払拭されたわけではないが。
「慧児。殿下の仰るとおりに。立ちなさい。」
思遠が小声で口を挟み、慧は渋々立ち上がる。こういうときの思遠に逆らってはいけない。
「外では正しく礼をとるべきだろうけど、国子監の関係者と彼ら側近しかいないところでは今まで通りに。」
「…。」
「お返事を。」
慧は身分制度とはさほど関係なく生きてきた身だ。
今のままでと言われればその方が気楽ではある。
ふとした瞬間粗相をしないか考えると頭が痛いが。
「…それがお望みとあらば。」
息を吐くと靖王が笑った。
「驚かせてすまないな。」
「ええ、かなり驚いています。」
慧は頬の筋肉が引きつっているのを感じた。
「先に言っておけよと不満そうだな。」
「いえ滅相もございません。いくつお名前がお有りなのかと混乱してきただけです。直宮さまが外でうろうろと、何をなさっておいでなのですか。」
衍と思遠は側近だから口にしても大丈夫だろうと踏む。
「お前はどうなんだ。」
「殿下とは立場が違いすぎます。私は仕事柄仕方ありません。」
「俺も立場上仕方がないな。」
くくく、と靖王は喉奥で笑う。
「…。」
だからどこの皇子が、間諜の真似事をするんだと言っているのに。
彼は皇后の媵※であった賢妃の子である。賢妃が亡くなって以降、皇后の子として扱われているが第四皇子であり、皇位から少し距離がある。重宝されているのか便利に使われているのか。
謎だ。
「お前こそ。家格が低いとはいえ貴族の娘に生まれてなんでそんなことになってる。」
「私が聞きたいですね。」
「見た目に雰囲気、声音、性別さえも変えるから、余計に混乱する。」
「仕事ですから。」
「そうか?」
そばに来るよう合図される。
「…手を出せ。」
渋々ながら寄ると、手を取られ、懐から出した巾着包みを押し付けられる。
ずしりと重い、何か硬質なもの。
「?…なんですか。」
手をつかまれたまま引き寄せられる。
「妓楼で上前をはねられていた、お前の銀子の一部だ。残りは密かに薛家に届けさせている。」
耳の横で密やかに囁かれた事は、はじめ意味がとれなかった。
「え?」
なんの話だ。
「落籍祝の費用は俺が出してやる。くわせものの鴇母も了解済みだ。」
「はあああ?なんで?」
慧は目を剥いて叫んだ。
この際、礼とかどうでもいい。
それはつまりある意味、靖王に買われたことにならないのだろうか。
いや、普通、なる。
すごく、なる。
「どういうことでしょう。そんなの結構ですっ。」
反射的に腕を引こうとするがびくともしない。不信感いっぱいで靖王を睨む。
眉根にぐっと力が入っているのがわかる。
夜珠と慧が同一人物と分かってからも四の君は普通に接してくれていたが、やはり所詮売り物と思っていたわけか。
妓女としての魅力は残念ながら買い取られるほどには持ち合わせていない。
本当にそうだとしたら変わった趣味の持ち主だし、そうでないなら何を企んで何を考えているんだ。
「なぜ遠慮する。」
「…義姉からただで銀子や物をくれる者には気をつけろって言われてますっ。…妓女に大枚を叩く意味分かってます?」
「そうか?お前が今一番欲しいと思っているものもくれてやるぞ。」
慧は半眼になりながら、苦しく息を継ぐ。
「…。要するに私は殿下に身請けされたということですか?」
「何を言っている。」
靖王は首を傾げる。
「…見返りは何ですか。私をどうしようと。」
慧はいらいらしながらまくし立てる。
誰かに聞かれてもこちらも困るので、囁き声でしか抗議できないのは辛いところだ。
「落ち着け。どうもこうもしないが。…ここで言わないほうがいいことがお前にはある。自分の胸によぉく聞いてみろ?」
心臓を真っ直ぐ指差され、慧はぐっと言葉に詰まってしまう。
秘密が露見した日には此処にいられなくなるどころか重い罰――死罪もあり得る。
一応保険で方々の推薦は集めておいたが、不安がない、とは言えない。それが彼らに徒となることも。
それを言い当てられて心はざわつく。
「それが何かなんて殿下に関係ないことです。銀子には困ってませんっ。」
「そんなことないぞ?いいから払わせておけ。」
笑顔を浮かべているが、目は笑っていない。
獲物を追い詰める肉食獣の目。
要するに事実を盾に、さらにこの大量の銀子をもって脅しているのだ。押し貸しというやつに似ている。銀子で頬を張られているようなもので、妓楼に来る女衒もびっくりな悪辣さだ。
「俺のために働いてくれたら、俺はお前に安心をくれてやろう。」
優しげな台詞まで悪役のようだ。
ついていかないほうがよっぽど安心に思える。
たちが悪いのは心底そう思っていそうにも見えるからだ。
慧はさっき靖王という人物はそう悪くもないのではと思ったことを激しく後悔した。
「うう…。」
「枕を高くして寝たいだろう?」
とびきりの綺麗な笑顔が来た。
靖王は、働いてくれたら、というが、ほぼ命令である。
完敗だ。
嘘を突き詰められない性格をうまく利用されたというほかない。
思遠は慧と靖王の間を目だけ動かして見比べている。
「慧児。」
嗜めるように、なだめるように、思遠は慧を呼んだ。
「何をそんなに警戒する必要がある。今後の安全のためにすべきことをして整えただけなんだが…お前に頼みたいことがあるんだ。」
「御用とは何でしょうか。」
慧はしぶしぶ聞く。
「化けて貰うことが必要な仕事がいくつかある。他の者なら難しいかもしれないがお前ならできるのでは、と思ってのことだ。これは前金のようなものだと思ってくれ。」
「…はあ。」
思遠は靖王の視線を受け、慧に言い渡す。
「薛慧。お前のこれまでの任を解き、侍衛直兼暗衛司に異動とする。」
慧はぎょっとする。
季瑕の正体に驚きすぎて一瞬忘れていたが、そういえば思遠は風家の跡取り、つまりいずれ武徳司や軍の要職に就くことを目された風家の次期当主だった。
一方で、慧は死ぬまで暗衛司に縛られる暗衛※だ。
「今後は殿下を主に戴いて仕事しろ、と言うことだ。」
「私は何をすればいいのです?」
「主な仕事は色々な者に化けて諜報をし、殿下の依頼をこなすことだ。その指示がないときは侍衛として側に仕えてもらう。」
「…諜報なら私のような愚鈍より別の者がお勧めですが。」
慧はなんとか逃れようと言い募る。
「お前が最適任なんだ。腕が立つこと、教養もそれなりに必要だ。」
それに、と靖王は慧の目を覗き込む。
「すでに陛下の聖旨は得ている。」
四の君は晴れやかに笑う。
(嵌められた。)
そういうことか。ただ王府から人員の申請をすればいいものを。
多額の銀子が動き、皇帝の聖旨まで出ては純然たる命令であり断れるわけがない。
聖旨に逆らうこともまた重罪である。
そして風家の思遠が命じるなら従うしかない。
思遠が絡んでいるなら青楼のそれよりは比較的真っ当な仕事なのだろうが。
「官位は従七品の衛士だ。成果を上げればさらに褒賞を与える。」
隊には今まで給金から二割取られていたが、俸給に切り替われば丸々慧のものである。
悪くはない。
「…。何をさせられるのか知りませんが、承知いたしました、と言わざるを得ないでしょうね。」
慧は奥歯をぎりぎり噛み締め、吐き出すように言った。
「浮世離れしているのかそうでもないのか、それともあきらめが早いのか。よくわからんな。そんなんで生き馬の目を抜く世界で生きていけるのか?」
「はい?」
靖王はどうやら面白がってるらしい。
「条件は交渉しなくていいのか。」
条件交渉してくれる皇子がいるなんて初めて聞く。
「余地があるので?」
「条件次第だが。」
お耳を、と言うと背丈を合わせて耳を傾けてくれた。
本当によくわからない人だ。
「まず、暗殺と色仕掛けが必要な仕事はお受けできません。」
靖王は聞くなりしばらく首を傾げていたが、おもむろに吹き出した。
「失礼ですね。」
しばらく靖王は震えていたがすぐ真顔になる。
「ああ…そうだよな。」
その二つの駒とされることは、どれだけ褒賞が莫大でも慧にとって一つも利点がない。
「いや、お前の苦労も知らず、済まない。」
絶対に分かってないと思いつつ黙っている。
「理解はするが変わった条件だな。」
「どちらも不向きですので成功する自信がありません。」
「なるほど。…俺はそれを了解するが、上から来る命令は絶対だ。その時は意にそまなくとも従え。」
「…承知しました。」
武徳司は皇帝の直属である。靖王がそう言うのは仕方のないことだ。その命令を聞くかどうかは別だが。
「それから国子監での学問に支障が出る事はお控え頂きたい。」
「配慮は極力する。」
「危険が伴う任務の場合は褒賞を割増でお願いします。」
「まあいいだろう。褒賞はその都度交渉するとしよう。」
交渉ありならある意味破格の待遇だと言える。
「ありがとうございます。」
「よろしく頼む。」
「…は。」
誰かに利用される境遇から抜け出そうとするたびに新たな者が現れる。
それならばこちらも利用させてもらう――。
慧は妓女の真似事よりはマシな仕事であることを祈り、靖王と思遠を睨んだ。
「まあ、内容はおいおい相談させてくれ。」
慧は唇の端を歪めるように引き締め礼をとった。
「…御意。」
※瑾瑜匿瑕
『春秋左氏傳』宣公篇 宣公15年
美しい宝玉にも傷はあるということ。
偉大な人物にも欠点はあるが、その人物の価値を落とすほどの問題ではないということを意味する。
『四字熟語ウェブ辞典』
※媵
天子や貴族が正室を娶るときは、正室の女性の他に同族の姉妹や従妹が媵として付き従った。
正室となる女性が子供を産めなかった場合、その代理として媵が子供を産む役目を負った。
側室の一種であるが妾とは異なり媵が産んだ子供は正室の子として扱われた。(主に周代)
『wiki』
※暗衛
身辺警護、情報収集を行い、時には暗殺任務を遂行する者。影に潜んで行動する。




