《十七》玉佩
しばらくゆっくり茶を飲んだ。
「書物はいつでもそばに置いてるんだな。」
四郎はそう言うと立ち上がって面白そうに書卓の上を差す。
待っている間の暇つぶしに解いていた算術書だ。
「ご覧になりますか?」
四郎は机の上の書き損じに目をやり、意外そうに目を丸くする。
「何の書物を読んでいるかと思えば。算術に興味があるのか?…君はこれが解けるのか。」
「まだまだはじめたばかりで、途中ですよ。難しくて。」
「解けているようだが。」
夜珠は目を見開いたままぽかんとする。
この男はどれだけ高度な教育を受けているのか、と呆れた。紙と筆を使って時間をかけて解いたものを、一瞥しただけで正答できているか分かるとは。
算学は官吏の実務には必要不可欠な学問であるが、経学ほど尊ばれてはいない。
当然、四郎は経学にも秀でているのだろう。
ふっと息を漏らすと四郎が覗き込んでくる。
「どうした?」
「いえ。一目見てわかるのですか。」
「これに似た基礎の問題は解いたことがある。」
「ええー…。」
夜珠は卓子に突っ伏す。
おもしろくない。
これを解くのにそれなりに時間がかかったのに。
「どうした。腹の具合でも悪いのか。」
四郎は不思議そうに覗き込んだ。
夜珠は半目になる。仮にも都で三本の指に入る高級妓楼の書寓に言う言葉ではないと思う。
「…才能の違いに打ちのめされただけです。」
「何がだ。」
無駄に才のあるものは自覚がなさすぎて困る。
「いえ。…東の島国では、難しい問題を解けたり、考えたりしたら算額というものを神仏に奉納するのだそうですよ。ちょっと見に行ってみたいものです。」
「どこでそんな事を知ってくるんだ。…それは面白そうだが。」
四郎に書物を渡すとパラパラとめくっていく。
「これはその各地の算額を集めた貴重な本で、お客様に餞別に頂いたのです。その方の弟子が東の島国の出身だそうで。」
お客というか協力者だが説明するとややこしいのでそういうことにしておく。
その時、はらりと何かが落ちた。
「何か落ちたぞ。…味はあるがなかなかの癖字だな。」
四郎がそれを拾い、ちらりと見て言う。
「ああ、前の持ち主が栞がわりにしていたそうです。返そうとしたら、そのまま持っていてくれですって。」
変わってますよね、と四郎をみると、彼はその書かれた文字を指でたどっていた。
「…意味がつながらない字の羅列だな。」
「ええ。ところどころ横に数字が書かれています。例の東の島国で使う、この国の書物を自国の言葉に読み下すための記号かと思ったのですが、数字が大きすぎてどうも違うようです。」
四郎は裏向けてみたり上下ひっくり返してみたりする。
「何かの謎掛けか。暗号か。」
「確かにその方はそういう趣向を好まれます。でもさっぱり意味が分からなくて。横に書いてある数字の若い順に並べてみましたが意味をなしません。今度そのお客様が来たら種あかしを聞かないと気になって。」
ふうん、と言って四郎は本を返す。
「わかったら俺にも教えてくれ。…この本、飽きたら俺にも読ませてくれないか。」
「ええ、ぜひ。分からない問題があるので一緒に考えてください。」
「よし。」
――――
今日の来客は四郎で終わりだ。
算術の問題を解き、先日の誘拐事件の顛末についてなどを少し話して帰っていった。
次回からは違う場所で会うことになるだろう。
もう少しすれば日も暮れて、通りのそこここの灯籠に明かりが灯る。
妓楼に夜の客が賑わう時間になる前に、この場所ともお別れだ。特にそれ以外感慨はなかったが、一応部屋を点検して回った。
ふと目の端にきらりと、柔らかい光沢を放つものを捉えた。
「…?」
四郎が座っていた長椅子に、玉佩※が残されていた。
玉のこのとろりとした光沢と透明感、氷のような白。
「…白玉か。」
灯りに透かしてみる。
すると陽緑色の鮮やかな斑を内包していることがわかる。
――芽吹きに積もった雪のような。
「いや――。」
そして絹の房、まるい表面に施された見事な細工だけとっても、おそろしく高価そうな代物だった。
おそらくこの亮国では産出されない玉である。
古来、この玉佩の玉のように、国内産の白基調の玉が珍重されてきたが、近頃は南方の異国産の不思議な色の玉が持て囃されている、と聞く。
とはいえそれは、うんと南の産出国からの海運か山越え、もしくは北西の絲綢之路経由の交易品で、通常店先に出回るようなものではない。
大店の老闆が屋敷に馳せ参じるような客の、注文を受け凝った細工を施され貴顕に献上される類のもの。客を選ぶ品だ。
おいそれと小金持ち程度が手に入れられる品ではない。
昼来た時には気づかなかったし、今日来た中でこんな玉を持っていても違和感がない客は、四郎だけだ。
では、彼は。
「あの男、それなりに…ではなく、想像以上に高い身分なのか?」
本職の間諜でなければ。
少し考えてみたがもろもろ考慮するとあまり考えたくない方向にたどり着いた。
「…考えるの、やめとこ。」
とりあえず次に会うまで、預かっておくしかない。
玉を傷つけないよう、そっと手巾に包み懐にいれる。
鴇母と、四郎との連絡拠点になっている東市の店にだけ知らせておくか、と荷物を持って出ようとした時だった。
部屋を訪う音がする。
何の気なく開けると、そこには禿と四郎が立っていた。
急いで戻ったのか少し髪が乱れている。
「あれ、君は…国子監の…。先日は手合わせを…。」
「四郎さま。緑のぶちのお忘れ物ですか?長椅子に落ちていま…。」
同時に話し出してしまい、お互い、はた、と動きを止める。
今、自分は変な事を言っただろうか。
目を見開く相手にこれも互いに驚く。
「え?」
「え?」
「…あ。」
最後の声が揃ってしまった。
先程までの妓女姿ではなく、円領袍を着ている事をすっかり忘れていた。誤魔化せないか頭を巡らせるが、全くいい案が浮かばない。
四郎も同じことを考えたのか動きを止めていたが、次に動いたのは彼のほうがはやかった。
「薛どのか?」
咄嗟に扉を閉めようとして肩を掴まれた。
いやな汗がじわりと滲むのを感じる。
「…話を聞かせてもらおうか。」
四郎とは違う、底に獰猛な何かが蠢いてそうな笑顔が怖い。
「…わかりました。わかりましたのでお離しいただけますか。」
正体が知れたのは相手もでお互い様だが、知れて困るのは自分だけで、組織としては問題ない相手だったのは不幸中の幸いだった。
鴇母への挨拶もそこそこに、説明に連行されることになってしまった。
連れられていくところを見て、鴇母は事情を察したらしく、あーあ、と苦笑していた。
――――――
どちらも国子監の寮に帰るところだったので、
晩餐をとって帰ることになった。
「あああ、駄目ですよ。」
季瑕は妓楼のあるあたりの店に適当に入ろうとするので、夜珠――慧は慌てて阻止する。
「なんでだ。」
「この辺りの店に入ったら、季瑕さまなんて妓女のお姐さま方の最高にいいカモになってしまいます。どうしても料理されたいなら止めませんが、私は遠慮します。」
季瑕と呼んで良かったか気になったが何も言われないのでいいのだろう。
四郎改め季瑕は、カモ…料理…と呟き微妙な顔をしていた。
ややあって気まずそうに咳払いし、まわりを見回している。
さっきの目にはぞくりとしたが、そんな様子は四郎らしい。
「それは少し困るな。どこか知らないか。」
そうですねえ、と相槌をうつ。
妓楼の近くも国子監の近くも、避けたほうが良いだろう。
寒いので辛い刀削麺でも、と思ったがさすがに庶民的すぎるか。
「少し南へ下りますが、それなりに美味しい店がありますよ。食事しか出来ませんが。護衛の方も食事なさるでしょう。」
「…気づいてたのか。」
季瑕のペースに呑まれているのが不本意でちょいちょい皮肉を言ってみるのだが、
当の季瑕は、食事しかできませんが、の毒には気にも止めなかったらしい。
「二人、ですか。」
振り返って指し示すと護衛達がぎょっとした顔をした。
「当たりだ。流石だな。」
「正体を知られた愚鈍で何ですが、一応本職なんです…。」
「そうだったな。」
季瑕は、そんなに酷くなかったぞ、と声をあげて笑った。
思いついたように聞く。
「酒は飲めるのか?」
「はあ。まあ多少は。…そんな気分ではありませんが。」
げっそりとした気分では飲む気にならないと言いたかったが、何やら季瑕は愉快そうだ。
「まあ少し、付き合ってくれ。」
その店は平康坊の南門近くにある。
入ると阿姨が注文を取りに来た。
「食べられないものはあるのか。」
「いえ特には。季瑕さまは。」
「俺か。特にない。」
季瑕はなぜか得意げに言う。
「こういう店には慣れていらっしゃらないでしょう。私が適当に注文しましょうか。」
「料理は任せる。酒を。」
季瑕は酒を、慧はそれに加えて酒肴といくつか料理を注文した。
料理は、春雨の湯と青菜炒め、和え物と水餃子。
水餃子は、酸っぱ辛い酸湯に浮かんでいるものが近頃の都では一般的だが、あっさりと茹であげられただけの物にする。
季瑕の好みを知らないし、今は多分、自分の胃が酸味辛味を受け付けない。
先に酒と酒肴が運ばれてくると護衛が一人寄ってくる。
毒見するらしい。
「いや、いい。」
「ですが。」
「じゃあ即効性のものがないかだけ頼む。」
さっき妓楼でそのまま茶を飲んでいたし、意外に向こう見ずなんだろうか。
毒見が必要で、高い教育程度、超がつく高級な品を身につけられる身分。
あれほどの質の玉は、一介の市井の者に手に入れられるものではない。
それなのに何をやってるんだろうか、この男は、と不思議に思った。
そう言えば以前三郎にも同じことを思った。
季瑕は考え込んでいた慧にお構い無しに、毒見が終わるとにやりと盃を掲げる。
「改めて。自由に乾杯、だな。」
「自由に。…ありがとうございます。」
一息に飲み干すと、大きな息をついた。
季瑕は笑いながら空になった盃に、酒を注いでくれた。
「俺は心底驚いたぞ。」
「国子監では全然気づかなかったのですか。」
「それだけ別人だと、まず別人だと思うだろう。ま、俺が素人ってことなんだが。」
「はあ…。」
今の慧の出で立ちは、交領衫、円領袍、革帯に皮長靴というものだ。もちろん妓女の化粧は落とした。若い官吏や少年にしか見えない、はずだ。
「改めて聞くが、夜珠と薛どのは同一人物ってことでいいんだな。」
季瑕は声を潜めて聞く。
「まあ…言い逃れはできない状況ですね。」
「まさか、国子監監生が書寓を兼ねているとは思わなかったなあ。」
行儀悪く――いやむしろ偉そうに、肘をついてこちらを覗き込んでくる。
人が悪巧みする時の顔だ。
「国子監の監生という事は、男だと思うんだが。そして妓楼の書寓というのは女だと思うんだが、普通は。…どっちなんだ?」
暗い琥珀色の瞳が、ひたり、と目線を捉える。
蛇に睨まれた蛙のような気分だが、顔には出さない。取りたいように取ればいい。
国子監に推挙してくれた人物に迷惑をかけることはできないし、何か言えば、より藪蛇になる。
「さあ…どう思われます?」
「…俺は、何を見たんだろうな?」
いいつつ確信は持てていないようだったのでとぼけておく。
「さあ?なんでしょう。」
季瑕はしばらく慧の顔を眺めていた。
「…反抗的だな。」
「滅相もありません。」
「…まあいい。薛どのは六品官の子で算学に推薦で入ったとか?」
「よくご存じで。私の場合、祖父はともかく父の官位は資格としてはぎりぎり足りずで、大した家格でもありません。」
手合わせを誘う時点である程度素性は調べているのだろう。
「地方官の推挙と聞いたが。」
「ええ、幸運なことに私の才を見いだしてくださり…。」
国子監の中でも、父祖の品階によって進める学舎は違う。三品以上、五品以上、官などの推薦で、などの資格で決まるのだ。
故に多くの監生が、官僚を父祖に持つ士大夫と言われる新興の階層か貴族階級出身である。
「そう言えば算学の者は君が十五、六だと思っているようだが。」
「…。」
「…本当の年齢は、十八だよな?」
じっと見据えられてつい目を逸らしてしまう。季瑕はそれを返事と取ったようだった。
やはり慧よりよほど優秀な本職なのかもしれなかった。
※玉佩(佩玉)
古代中国で、天子・貴人が腰に帯びた軟玉製の装身具。
『コトバンク』




