《十六》その花の名は、夜珠
遡って年末の近づいた頃。
上から連絡係が寄越されて、妓楼での諜報の仕事は元宵節前までで終了だと言い渡された。
元宵節休みは三日間で街のあちこちに灯籠が飾られ、皆誘い合い夜の街に出て見物する、そんなお祭り気分の中、夜珠の、肩の力も気も抜けていた。
命令とはいえ、ここでの仕事は過去一、気乗りがしなかった。
着飾って楽器を奏で、歌って踊りを披露する。詩歌を交わし、あわよくば自分と恋をしてくれるのではないか、と思わせる――――。
芸事は好きだ。幼い頃から訓練を重ねてきたものの一部だから問題はない。
夜珠の客は興味の方向が偏っている者が多い。彼らは妓女と色恋を、というよりも様々な専門知識を披露し賞賛してくれる相手を欲していた。
だから思っていたより危険は少ないが、問題は諜報対象の客や朋輩の妓女だ。
彼らに対処できるような、そんな訓練はしていない。
客が酔っていたりすると最悪で、どういなしてどう躱すのか、毎回顔が引き攣りそうになってしょうがない。
所詮諜報の精鋭でない自分には荷が重かった。
大体、人付き合いすらまともにできているか怪しい人間に、男女の機微など分かるわけがない。何なら分からないほうが安全だと思っているから、ここでの仕事は絶望的に向いてないと思うのだ。
それに。
この妓楼自体が諜報の為の大きな隠れ蓑になっていて、自分以外の妓女も多くが諜報要員だ。主に活動するのは官衙の昼退け後の午後で、床入りの客をとらないことになっている者は多い。
それが夜伽をする内楼の妓女たちとの間に軋轢を生み、妬まれ恨まれている。その頂点にたつ、夜伽をしない書寓である夜珠は、その妬み恨みを一身に集めていると言っても大げさではない。もちろん表に出る態度は色々だ。
おもねるような面々、反感を露わにする面々、そして中立派。
はじめの頃、親しげにしてきた妓女とその馴染み客らに手籠めにされる計略が巡らされていて、ということがあった。
もちろん、男どもは、手指の関節を全部外し、もとに戻すのに全治数月にしてやり、妓女の方は傷つけるわけにはいかないので、鴇母に任せた。きつい折檻をくらった後、詫びを入れたらしいが、その甲斐なくすぐ下級の妓楼に移されたという。
そこではきっと待遇が悪い。衣裳や食費、薬代などが差し引かれ、妓楼につけられる借金を返すのに時間がかかる。いつ自由になれるかわからないが。
どちらも殺されたり手首を断たれなかっただけ、ありがたいと思ってもらいたい。
気の毒とは思わない。ただ境遇の違いが見えすぎる状況だったことは良くなかった。普通の人間はだからといって人を陥れはしないが、彼女らの務めはそんな倫理観は役に立たないほど過酷だ、ということでもある。だが、どちらかと言うと男たちよりこの女のほうが罪深い。
鴇母の勧めもあり、今は皆に定期的に客からの贈り物や装飾品を分けているから表面上は友好的だが、何かの拍子に牙を剥く者はいるだろう、と確信している。
ここでの仕事を命令されたとき、夜珠は怒りのあまりぶち切れた。
妓女のふりをせよ、と言われて、素直に諾というほど世間知らずではない。
「ここで諜報とは春を売ることをせよ、と私に仰っているので?…それならここで董どのも巻き込んで自害しましょうか。それが許されず、一指でも私に触れようとする男がいるならば、その手首を切り落とします。」
表情と剣幕に慄いて、ま、まあまあ…落ち着いて、などとよくわからない宥め方をしてくる日和見主義の上の者に、鋭い視線を投げ、隠し持った小剣を突き付ける。
上意に逆らうのは禁忌中の禁忌だが、こっちも捨て身である。
「そう…どうせ騙されるなら、董どののご家族をいっそ先に屠らせていただきますが、その覚悟はお有りでしょうか?」
小剣を構える夜珠の不敵な微笑みに、たいして武術の心得もないこの董という指示役は及び腰になり、楼主の部屋にいた誰一人身動きせずしばらく水を打ったように静かだった。
沈黙を破ったのは鴇母だ。気に入った、と膝を打って笑ったのだ。
「怒ってるときの方が美しいなんて面白い娘だね。」
鴇母は言った。
「あたしはあんたを最高級の妓女、書寓として大切にしよう。もちろん身ぎれいなまま、を守ろう。危険がないよう男衆にも見張らせることを保証もしよう。それでどうだい?」
「…。」
「衣裳の支度や色々の掛かりは上で持ってくれるから借金負わされることもないさ」
そう、胸を叩いて請け合ったのである。
鴇母にも上官にも、約束どおりに証文を書かせ、血判を押させた。
鴇母は、触れてくる男がいたら手首を、というのも潔癖ぽくてかえって売れっ子になれるかもねぇ、とまで言い出した。
「裏切ったら、こちらが失うものの前にその顔を膾にしてやる。」
夜珠は念押しでそう言っておいた。
上からのお咎めは別に怖くはない。
今までどんな過酷な命令もこなしてきたが、譲れない一線はある。指示が曖昧では困る。これだけははっきりさせておきたかった。
今日まで大して何事もなかったのは鴇母のおかげだろう、と一応感謝してはいる。
そんなわけで、ここにいる必要が無くなったのはかなりの朗報なのだ。
元宵節の休みを三日後に控えた日、気分良く、四郎に会う。
彼が来たのはちょうど、荷物の整理を終え、ほとんどの私物を運び出し終えた時だった。
「四郎さま。」
机の上のものはそのままに立ち上がって礼をとる。
「元気か?あれから調子はどうだ。」
「かわりなく。」
四郎は部屋を見回すと不思議そうにした。
「随分と部屋がすっきりしているようだが。」
「ええ、この部屋での仕事は今日までなのです。」
「それじゃあ、今後は別の仕事を?」
四郎がおそらくわかっていて一応確認するのは、通常、妓女が花街から出ることは、条件が限られるからだ。
「…ええ自前で落籍することになったという体で。これで妓女のふりから解放されます。」
「じゃあ早めに花街から出られて良かったんじゃないか。」
「ええ、まあ。」
「俺も、ここに来るのは少々気恥ずかしいものがあるからな。…まあ、良かった。」
首を掻きながら四郎はそう言う。
四郎はどうやら三郎のようには妓楼に馴染んでいないらしい。
「今後も連絡手段は変わりません。これまで通り東市の店に人を寄越してください。」
「承知した。」
「お茶しかありませんけど、一緒に祝杯でもあげてくださいます?」
万が一を考えて、この部屋には茶しか置いていない。
禿の緑珠に菓子を持ってくるよう頼み、茶壺と茶杯を湯を入れて温め一旦捨てる。とっておきの白茶を選んで茶壺に入れると、もう香りが立ち上ってくる。
少し置いて適温になった湯を茶壺に注ぎ入れる。熱湯だと渋みが出るから湯を適温にするのはとても大事だ。蒸らしてから二つの茶杯に継ぎ分けて出す。
「どうぞ。」
「うん。」
「では、”自由”に。」
茶杯を酒杯の様に掲げると四郎は笑い出した。
「”自由”に。」
甘みが引き出されて美味しく淹れられたことに満足する。
四郎はいつも茶に手を付けないのに、ちゃんと飲んでいるのは意外だった。
「飲んでしまって大丈夫ですか。」
「ああ、…いや。なんとなく飲みたくなった…。君も飲んでいるから。」
「茶杯に毒がついている可能性は考えないのですか。」
四郎は動きをとめる。
「ついてるのか?」
「ついていません、多分。いらっしゃる前に洗われたばかりです。…いつもお茶やお菓子をお召し上がりにならないので。」
「そうだったかな。美味い白茶だ。」
身分の高そうな者の考えることはよくわからない。
「よほどここが嫌だったんだな。」
「この場所自体があんまり。内楼の妓女達は、夜には普通に仕事をしているので。」
四郎は茶を吹いた。
「普通…。」
四郎は夜珠から目をそらし咳払いした。
こちらとしてもさすがに、直截なことは憚られて婉曲な言い方をしたが、通じたようだった。
「内楼で夜伽を務める妓女の様に、売られてきた者には選択肢はありません。花街を出るには、身請けされるか、借金を清算して妓楼の縛りから解放されるか、病気で価値を失い放り出されるか。…明月樓には少ないですが、待遇のひどい妓楼では足抜けを企てる妓女もいます。まず成功せず、連れ戻されて酷い折檻の上、さらなる借金を増やすだけです。」
今上帝の御代になってから、規制は厳しくなったが身売りがなくなることはない。沿岸や山間部の貧困地帯、農村部ではまだまだ食い詰め子を売る民はいる、ということだろう。
子を売るなと言うことは飢えて一家で死ねということと同義であり、買う人間が存在する限り規制したとて完全にはなくなることはない難しい問題だ。
その影で博打や遊興の為に子を売るものも相当数いる。
大家の下働きなどに売られるならまだしも妓楼が買い手だと売値が大きいのでそんな親はむしろ喜ぶ。
娘が売れれば無心に来る。
そしてその分の借金は娘が負うのだ。
碌でもない家に生まれたばかりに苦界に沈められる妓女たちは多いのである。
「…。」
四郎は口を手巾で拭きながら、黙って頷いた。
「ここはまだマシで、病気を得て行き詰まり借金を残して放り出されることも多く、西市の花街では夜遅くなれば、そのような妓楼に属することもできない者たちが路上で客を取るのです。…流鶯※と呼ばれる者たちですが。」
花街は男性にとっては楽園だそうだが、働く妓女にとっては地獄だ。
下女や奴婢は軽い命として扱われている現状があるが、妓女も賤民としての扱いは同じこと。
多少美しく生まれ、ここで妓女として高い教養を身に着け、綺羅を飾り多少の栄華を誇ったところで。
明月樓は、鴇母の目が細部まで光っている。売られてくる子の見極めが上手く、客層も待遇も良いので大抵の妓女は身請けされたり、借金を返し終え自由になることが出来ている。その後の働き口にもさほど困ることはない。だが、別の坊の中小の妓楼になると酷いものだろう。
そういう世情の一片一片を、ここにいれば否応なく耳にし目にする。
だからちょっとくらいは、この恵まれていそうな青年に偉そうに言っても許されるはずだ。
四郎はここまでずっと、真面目に夜珠の話を聞いていた。
「四郎さまは高いご身分のお方だと、私は勝手に思っているのですが。」
ここまで短い付き合いだが、四郎は身分を傘に着るような性格ではないとわかっていたので言ってみる。
「うん?俺がか?君にはそう見えるか。」
少なくとも俸禄※を食んでいる家に生まれた身だろう。
四郎は肯定も否定もしなかった。
碌でもない事を減らすため政はあってほしいものだ。
自分だって彼女たちより相当恵まれている。
だから伝えられる機会があるのだったら言わなくては。
「ええ。娘がこんなところに身売りせずともよい世へと、力を尽くして頂きたいものですね。」
「…そうだなあ。」
こうした上からの言い方をすると逆上するものがいるが、彼はやっぱり否定しなかった。
穏やかな笑みを浮かべて心得たように頷く姿にそう思った。
※流鶯
路上売春婦(現代風に言うと立ちんぼ)を表す隠語。
※俸禄
官吏の俸給、扶持。『白水社中国語辞典』




