《十四》国子監での日常
授業のあと教師に質問したりしていたらすっかり遅くなった。自寮に近くなったところで、おい、と声がかかる。
「久しぶりだな、阿拙。」
もう一つの呼び名で呼ばれた。意味は”不器用ちゃん”である。慧はこっそり舌打ちをした。
顔を上げると風思遠がこちらに手をあげて合図している。
「思遠さま。その呼び方はここではやめてください。」
思遠は慧の苦情を気にもとめない。
季瑕や衍と同じ色の官給制服を着ているが、目立つのは夕日が当たって金色に見える茶色の瞳と髪。
髪は慧のそれより一段と明るい色味だ。
「お前、薛の兄貴に目立つな、って言われたろ?入監の儀式の時ちょうど通りがかったら、うまく暴漢を仕留めて派手に目立ってたじゃないか。」
「はあ。…見てたなら加勢して下さいよ。」
「やる気のない返事だな。」
主家の息子だが同い年の再従兄弟姉妹同士で、わりと気やすい間柄ではあるのだが。
「思遠さまは、今日はどうして国子監に?学館で学ばれているのですよね。」
「うん、まあね。」
ぼんやりと質問を躱されてしまった。
「風家の御曹司なのですから、別に入監しなくてもよかったのでは。」
「それはそれでこのボンボンが、って官界では舐められるものだからね。昨今は腕が立つだけではお役目がつとめられないのさ。お前だってそう思ったんだろう?…それにさるお方に付き従ってご一緒に学ぶことになったから。」
さる方とは四の君、靖王だろう。主の姿は見当たらないが、こんなところで慧とくっちゃべっていていいのだろうか。
「まさか裏…。」
「失礼なこと言うね。三年前だけど、ちゃーんとお前と同じ試験受けたわ。そういう事を影で言われるから国子監に来たんだよ。」
思遠は名を聡といい、名にしても字にしても、慧には本人の人柄と合っているように思えない。
「そうですよね。」
まあついているお方はどうやら優秀な方のようだから、侍衛の思遠が怠けるわけにもいかないのだろう。
身分高いお方たちは色々しがらみが多くて大変そうだ。
「さっさと昇級して行かないとね。お前も任官をするんだったら四年で終わらないと駄目だよ。算学なのだし始めが肝心だ。」
珍しく思遠がまともなことを言う、と慧は少しの間ぽかんとした。
「…え。四年はちょっと自信が…。」
「まさか風家麾下の者が、長々ここに籍を置こうっていうんじゃないだろうねぇ。お前には見込みがあると思って父上も陰ながら駄目元で推挙してくれる官を探したんだ。」
「…その節はありがとうございました。」
「礼を言ってほしいのじゃないよ。…どこに行っても意にそまぬことはあるが、選択肢を増やすのはいいことだ。励め。」
小馬鹿にされていると思っていたが、意外に応援してくれてるのか?
ところで、と思遠は声を潜めた。
上から下までしげしげ見る。他人なら目上でも少々失礼だが、服装を見ているのだろうから慧も気にしない。
「お前、ずっとそれで居ることにしたの?」
「まあ…仕方ありません。」
「確かになあ。」
思遠は首を傾け、ぽりぽりと掻いた。
何か考えてみようとしたもののできることはないだろう。
「ま、どうしようもないなぁ。なんかあったら言え。」
「ありがとうございます。」
思遠はまだ何か言いたげだったが、それだけ言って去っていった。
数刻後。
慧は寮の自室で筆を手に、ため息をついていた。こんなに課題が多いとは。
近ごろ忙しかったのでつい夜にまとめてやることになってしまっていた。
さすがに今日の分は量を甘く見すぎていた。紙は貴重だがすでに累々と書き損じが出来上がっている。
今日は徹夜になるかもしれない。
食堂に下りて息抜きするかと思っていた所、部屋へ寮母の阿姨がやって来た。
手に捧げ持つように、文と小鉢に入れた湯圓をのせた盆を持っている。
「余ってるからよかったらどうぞ。」
「ありがとうございます、いただきます。」
季瑕のところでもらった菓子をお裾分けして以来、阿姨はよくおやつをくれる。
今晩は課題が気にかかるからと同輩たちの話に加わらず、自室に引き上げたので甜点心を食べ損ねていた。
湯圓からはまだほわほわと湯気が上がっていて美味そうだ。
「恋文かしら?」
「そんなキラキラした目をされましても、心当たりはありませんよ。」
笑って返すと、阿姨は残念そうに、寮母室で文のお返事をお待ちですよ、と言って階下へ引き上げていった。
せっかくだからと言い訳し、一つだけを急いで食べ返事を書くことにする。とろりとした温かい小豆餡は冷えていた身体を温めてくれる。浮かんでいる湯圓はもっちりと柔らかく中の胡麻餡のきめも細かい。
開いた文は上等の紙に、軸装したくなるほど流麗な墨蹟。
季瑕の署名が入っていた。そういえばあの奇妙な茶会のあと、手合わせを約束させられていた。
この先二三日で、時間を取れる時があるか?一度手合わせ願いたい、と言っている。季瑕は慧にとって得体のしれない人間だ。あまり関わりたくはないが簪は返してもらわねば。
もらった文の返しに相応しいか疑問だが、焦りつつマシな紙を探し出す。
ついでに言えば慧は字が上手くない。
かなり無骨な筆跡なので、文官を育てる学舎であれば考試で落とされたかもしれない。
なるほど、こういう時に教養の差を感じる。これは恥ずかしい。
慧はもう一度貰った文の美しい文字を見て天井を仰ぐ。
きっと差出人は官に求められる様々な字体について深い理解があるのだろう。
何回も下書きしてどうにか返事をしたためる。
届けに寮母室に行くと、己衍が座って待っていた。
阿姨がキラキラしていた理由がわかった。
ただ座っているだけなのに、そこだけ空間が歪んでいるようだ。
「己さま。」
おそらく『衍』は名だと思うので何と呼べばいいのか迷う。
己姓で最も有名なのは絶えた名族、西国公家だ。
本家筋ではない傍流や別の流れをくむ氏族の出身なのだろうか。
「字は子容です。」
字で呼べということか?結構、気まずいが。
「子容さま。文をお届けくださりありがとうございます。こちらは返書です。」
呼ぶと衍は微笑みを返す。
慧は返事を手渡し礼を取った。
「詳細はお返事に。」
「承知しました。また連絡します。」
衍は懐に手紙をしまうとそう言って、寮母室を出ていった。
部屋に戻ると残りの湯圓はぬるくなっていた。




