どうした。立ち上がってみろよ。
またヒロキの足元から何かが噴き出す。
物語の圧力。
というか多分、これで本来の物語を強引に捻じ曲げてやがるんだ。
「ヒロキ……」
梨夏ちゃんは呟いた。
「そうだよね、うん。私、どうかしてた」
「梨夏ちゃん!」
俺は叫んで立ち上がる。
ここは物語世界。この程度の傷なんて、どうってことないぜ。
「騙されちゃだめだ! そんな奴、君の彼氏でも何でもない!」
「ええと」
梨夏ちゃんがまた俺とヒロキを交互に見る。
「だから、梨夏」
ヒロキは苛立ったように険のある笑顔を見せた。
「モブの言うことなんて聞かなくていいんだよ」
「でも」
梨夏ちゃんが傷ついた俺を心配そうに見る。
「さつきさん、怪我してる」
「そんなもの、放っておけば治る」
ヒロキは当たり前のようにモブの常識を口にする。
「お前は俺だけを見ていればいいんだ」
「そういうわけには」
「だからぁ」
ヒロキの笑顔が歪なものに変わる。
「だからモブの言うことなんて聞くなって言ってるだろう!」
再びの衝撃波。
「ぐえっ」
公園で食らったときよりもずっと強烈だった。
俺の服はたちまちズタボロに切り裂かれた。結構な血の量。地面にぶっ倒れる。
「きゃあああ!」
梨夏ちゃんの悲鳴が俺を奮い立たせた。
まだまだぁ! モブのタフさを舐めんなよ!
立ち上がろうとした俺を、梨夏ちゃんの声が制した。
「もうやめて!」
上体を起こしたまま動きを止めた俺に、梨夏ちゃんが駆け寄ってくる。
「私、バカだからモブがどうとか、何のことか全然分からないけど」
梨夏ちゃんはそう言いながら、俺に抱き着いた。
「ヒロキ、暴力はだめだよ。どうして何もしてない人にいきなり暴力を振るえるの。それが正しいって思えるの」
「梨夏ちゃん」
「さつきさん、もうそのままでいてください。私、彼と話してくるから」
「それはだめだ」
梨夏ちゃんの気持ちは嬉しい。
でも、あの物語を捻じ曲げる力で丸め込まれちまうに決まってる。
「梨夏ちゃんはここから離れてくれ。多分、君がいると彼は冷静になれない」
「でも」
「俺が話すよ。男同士で話すから」
「ケンカはだめです」
「ケンカじゃないよ。ちゃんと話し合う」
そう言いながら俺は立ち上がった。
いてえ。
だけど、ここは物語の中の世界。ここでならどんな傷も怖くない。
「行って、梨夏ちゃん!」
「は、はい!」
俺の声に背中を押されるように、梨夏ちゃんが走り出す。
ヒロキはそれを苦々しい顔で眺めていた。
「単なるモブが、ずいぶんと出しゃばるじゃないか」
「お前だってモブだったんだろ?」
俺の言葉に、ヒロキの眉がぴくりと動いた。
「知ってるぜ。ヒーロー気取りのヒロキ」
「違うな」
ヒロキは冷たい表情のまま首を振った。
「俺は、全ての主人公の王。ヒーローキングのヒロキだ」
「は」
俺は笑った。いかれてやがる。何とでも言え。
ヒロキは俺を観察するようにじろじろと眺めてから、怪訝そうな顔をした。
「お前、モブのくせにどうしていつまでも出てくるんだ。さつきなんて登場人物は、この物語にはいなかったはずだ」
「知らねえよ」
俺は肩をすくめる。
「ヒロキなんて奴もいねえだろうが」
「いる」
ヒロキは断言した。
「俺はあらゆる物語に“いる”ことができる」
「そりゃ、モブだからだろ」
「違う。あらゆる物語に存在することのできる主人公。世界の壁を超越した存在。それが俺だからだ」
何を言ってやがんだよ。のぼせ上がりやがって。
怒りをぐっとこらえて懐柔にかかる。
「そんな立派なお方なら、女の子なんてよりどりみどりなんだろ? あの子一人にこだわることねえじゃねえか。あの子だけは見逃してやってくれねえかな」
「あの子は、特別だ」
「何?」
「あの子は、譲れないんだよ。ましてや、お前のようなモブ崩れごときに」
誰がモブ崩れだ。
こっちは正真正銘のモブをプライド持ってやってんだっつうの。
だけど、挑発に乗っちゃだめだ。
このまま梨夏ちゃんを遠くまで逃がす。俺はその時間を稼ぐ。
「お前、ユキシマ事件の残党なんだろ?」
そう話を向けた。
「ずいぶん長いこと潜伏してたんだな。だけどこんなデカい騒ぎを起こしちまったら、もう隠れていらんねえぜ。すぐに討伐隊が編成される。諦めて降参しろよ」
討伐隊は来ない。
だけど、それをこいつに馬鹿正直に伝える必要はない。
「討伐隊?」
ヒロキは口元だけを歪めるようにして笑った。冷たい笑顔だった。
「出せるわけないだろ、そんなもの。現実世界の事件を処理する権限が、たかがモブ派遣会社にあるとでも?」
やっぱり知ってやがった。食えねえ野郎だ。
「ユキシマさんは強かった」
ヒロキは言った。
「だけど、やり方を間違えた。あの人はあくまで物語の世界の王になろうとした。物語の世界に固執して、現実の足場を失った。だから死んだ」
「お前は違うってのか?」
「俺はユキシマさんの轍は踏まない。俺にはあの人ほどの戦闘力はない。だけど、現実を動かす力を身につけた。俺の力は物語だけではなく、現実にも及ぼすことができる」
ヒロキの笑顔が大きくなる。
「それがどれほどのアドバンテージなのか、お前に分かるか? 物語の中ではモブを取り仕切って闇堕ちハントだなんだとまるで独裁政府のように振る舞っているモブ派遣会社も、現実ではただの狭い業種の民間企業に過ぎない。俺が物語から現実に一歩足を踏み出した途端、あいつらは何もできなくなる」
舐めた御託だ。
でもいいぞ。気持ちよくなってもっと演説を続けろ。
「警察だってお前を追ってる」
俺は言った。
「お前はユキシマにもなれねえよ」
「警察? だからモブなんだ、お前らは」
ヒロキはバカにしたように言うと、不意に笑顔を引っ込めた。
「梨夏を逃がせるな、と今思っただろう?」
「え」
「うまく時間を稼げてるな、と思っただろう。バカが。そんなことはさせないんだよ」
ヒロキが右手を上げた。
指の先までぴしりと神経の通った、迷いも澱みもない動きだった。
悔しいが、ヒーローのようにばっちり決まっていてかっこよかった。
「閉じろ」
ヒロキが命じると、俺の周囲から物語の世界がヒロキの方に引きずり込まれるようにして消えていく。
たちまち俺の身体は現実へと引き戻された。
さっきヒロキにやられた傷が、あっという間に治っていく。
「お前を、梨夏の物語から排除した」
ヒロキは言った。
「モブだからいくら攻撃を食らったって大丈夫。お前、そんな風に思ってたよな? だからどんなに傷ついたって勇ましく梨夏を守ろうと立ち上がれたんだよな?」
ぞっとした。
ヒロキの掲げた手に、光が宿る。
まるで正義の主人公の使う必殺技のような光。
「試してみようじゃないか。たとえそれが現実でも、同じように振る舞うことができるのか」
「ちょ、待て」
待ってはくれなかった。
ヒロキの手から光が放たれ、俺はぼろ雑巾みたいに吹っ飛ばされた。
「ごはあっ」
すげえ衝撃だった。
いってえ。
せっかく直りかけた服がまたズタズタにされた。
血が舞い上がる。紛れもない、現実の血が。
現実で受けたこの怪我は、当分消えることがない。
下手すりゃまた入院だ。
仕事が減る。カネが飛ぶ。一瞬でいろんなことが頭に渦巻いた。
俺の人生が終わる。そのさまがはっきりと見えた。
「ほら、どうした。不死身のモブ、立ち上がってみろよ」
無理に決まってんだろ。
痛みと恐怖。
これからの生活への不安。
俺の身体は動かなかった。
「やっぱりお前も所詮は物語の中だけの、物語弁慶だったな。梨夏は、こんなやつの何が良かったんだか」
立ち上がらない俺を一瞥し、ヒロキは乾いた笑いとともに再び物語の中へと消えていった。




