だけど、この子だけは。
「ごめん、私ヒロキ君が好きになっちゃったから。別れましょう」
「はあ!? ヒロキって誰だよ!」
「誰でもいいでしょ。とにかく、私はヒロキ君が好きなの!」
物語の中からそんな会話が聞こえてくる。ヒロキのせいで、主人公のカップルが別れ話を始めたのだ。
『なに、これ! 物語が勝手に進むんですけど!』
作者さんの悲鳴も聞こえてくる。作者のコントロールを離れて、物語が暴走を始めている。ヒロキが物語世界の中で勝手に自分の影響力を高めている。梨夏ちゃんに、自分を幼馴染だと思い込ませたように。
ヒロキはどこにいるんだ。なんで、あいつこんなことを始めたんだ。目的は一体なんだ。
分からないことは山ほどあったけど、とにかく今は梨夏ちゃんを見付けることが先決だった。
梨夏ちゃんの姿を探して、俺は見知らぬ荒れ野と化した駅までの道を走る。
「梨夏ちゃん!」
叫んでも返事はない。駅までが恐ろしく長く感じた。
あちこちで、現実を分断された人々の悲鳴と、物語を捻じ曲げられた人々の悲鳴が交錯していた。
これじゃまるで地獄絵図だ。死人が出ていてもおかしくない混乱。
駅前は、もっとヤバかった。
もちろん電車なんか動いちゃいない。物語がざくざくと斑に開かれて、いろんな風景が見え隠れしている。頭がおかしくなりそうな光景だった。
「梨夏ちゃん!」
俺は叫びながら駅前を走る。断片的に開かれた物語を一瞬だけ踏み越えるたび、夏の日差しに照らされたり雪に降られたりした。
世界が壊れる。
はっきりとした理由はなかったが、そんな恐怖に襲われた。
現実と物語の境目が崩れかけている。こんな無茶苦茶なことになったら、多分世界がもたない。
それは、俺が物語との境界線を日常的に行き来しているモブだからこそ、感じた恐怖だった。
「さつきさん!」
だから、粗いモザイクみたいになったどうにか駅前と判別できる場所で梨夏ちゃんの姿を見付けた時は、安堵で涙が出そうになった。
「梨夏ちゃん!」
もう訳が分かんなかったけど、とにかく俺は、たった一つのことだけを念じ続けた。
俺の足、もっと速く走れ。
もっと速く、梨夏ちゃんのところへ。
梨夏ちゃんも駆け寄ってくる。
時間にして多分、五秒かそこら。それなのに、それがものすごく長く感じた。
早く捕まえなきゃ、現実と物語の合間に吸い込まれちまう。
そう思うほどに、梨夏ちゃんの存在が儚かった。
「梨夏ちゃん!」
「さつきさん!」
喘ぎながら、俺たちはお互いの腕を掴み合った。俺はそのまま、梨夏ちゃんを抱き寄せる。
小柄だけど、その身体にはしっかりとした現実の重さがあった。
よかった。
しっかりと、梨夏ちゃんを抱きしめる。
本当は、ずっとこうしたいと思ってた。
まさかこんな状態でそれが実現するとは思ってもみなかったけど。
「さつきさん、よかった」
俺の腕の中で、梨夏ちゃんがそう言って喘いだ。
「会えなかったらどうしようかと思いました」
「俺もだ」
俺は梨夏ちゃんの華奢な身体を抱く腕に力を込める。柔らかい髪。本当に、梨夏ちゃんはここにいる。
「離れろ、モブ」
突然、背後からの冷たい声。背筋が凍った。
それが誰だか確かめるまでもなかった。俺は梨夏ちゃんを庇うようにして振り返る。
やはりそこに立っていたのは、ヒロキだった。
相変わらずの整った顔立ち。
だけど、どこか……何と言えばいいのか分からないが、どこかズレている。見る人間を何となく不安にさせる表情。
「モブごときが、どうして調子に乗って人の彼女に手を出してるんだ」
ヒロキは言った。
「お前のせいで、世界が壊れた。どうしてくれるんだ」
俺は梨夏ちゃんを背中に庇ったまま、じりじりと後ずさる。
ここは、現実か? それとも物語の中か?
そんなことは肌感覚で分かるはずなのに、モザイクのように現実と物語が入り組んでしまった今となっては、自分の感覚も当てにならなくなっていた。
「お前こそ、なんのつもりだ」
俺は言った。声が震えている。情けねえ。
「梨夏ちゃんは、お前のことなんか知らねえってよ」
ヒロキの顔が、微かに険しくなった。
次の瞬間、ヒロキの足元から何かが噴き出してきて、空間そのものを覆っていく。
これは、物語だ。
入った覚えのある感覚。
梨夏ちゃんの物語世界を、まるで自分の世界のようにヒロキが勝手に展開しやがった。
「あ、あれ?」
俺の後ろで梨夏ちゃんが戸惑った声を上げた。
「あれ、なんで……? ヒロキ?」
「梨夏」
ヒロキは右手を伸ばした。
「こっちに来い」
「あ、うん……」
梨夏ちゃんが俺から離れて、ヒロキの方へと走っていこうとする。一瞬、普段の仕事の癖でそれを見送りそうになった。
そう。いつも俺からは女の子が離れていくものと決まっていた。それが俺の仕事だった。
だけど、この子だけは行かせるわけにはいかない。
「だめだ!」
俺は梨夏ちゃんの腕を掴んだ。
「え」
梨夏ちゃんが戸惑ったように俺を見る。
「さつきさん、どうして……」
ヒロキが小さく舌打ちした。その足もとから噴き出す物語の圧力が、さらに濃くなる。
「梨夏」
ヒロキは苛立ったように彼女を呼んだ。
「早くこっちに来い」
「うん」
梨夏ちゃんは頷いて、それから俺を困ったように見た。
「ごめんなさい、さつきさん。私、行かないと」
「だめだ」
俺は彼女の腕を掴んだまま、首を振った。
「行っちゃだめだ。あいつは君の彼氏なんかじゃない」
「えっ」
「思い出せ、梨夏ちゃん。君には中学時代にあんな同級生はいなかった。あいつは、ただの他人だ」
「えっと……」
梨夏ちゃんは俺とヒロキの顔を交互に見た。
「でも、ヒロキは。えっと、中学も高校も一緒で」
「よく思い出すんだ」
俺は梨夏ちゃんの言葉を遮った。
「考えて。本当にヒロキなんてやつがいたかどうか」
そう。思えば梨夏ちゃんはいつもヒロキの話をするとき、どこか自信がなさげだった。
初めて俺に中学と高校で一緒だったという話をしてくれた時も、俺に「そうですよね?」なんて確認してきたほどだ。
あの時は、この子が天然だからそんな風に言うんだって思ってたけど。
でも、そうじゃなかった。それは、作られた記憶だった。
「ヒロキはいました」
物語世界が強固になったせいだろうか、梨夏ちゃんは言った。
「だって、中学の頃から優秀で」
「苗字は?」
俺は尋ねた。
「何て苗字なの?」
「苗字は……」
梨夏ちゃんの目が、覚束なく揺れた。
「えっと……あれ?」
梨夏ちゃんが髪を掻き上げる。
「え……なんで分かんないんだろう。ヒロキの苗字、苗字……あれ、度忘れしちゃった」
「クロハラだよ」
ヒロキが言った。氷のような冷たい声だった。
「クロハラヒロキだよ。そうだろ、梨夏」
梨夏ちゃんはヒロキの顔を見て、それから強張った顔で首を振った。
「……ううん。クロハラなんて人、いなかった」
俺にも分かった。
それは、今とっさに考えた苗字。俺同様、ヒロキには苗字なんてなかった。
梨夏ちゃんが一歩、よろめくように後ずさった。俺の方へと。
「あなた……誰?」
そう尋ねられたヒロキは、全く動揺していなかった。憎たらしいくらいに落ち着き払っていた。
「じゃあ、お前の腕を掴んでるそいつは誰だよ」
そう聞き返してきた。
「え? この人は……」
そう言って俺を振り返る。
「さつきさん……」
「違う」
ヒロキは言った。
「そいつには、名前なんてない。そいつはただのモブだ」
「モブ?」
梨夏ちゃんが眉間にしわを寄せてヒロキを見る。
「一体、何を言って――」
その瞬間、ヒロキの身体から見えない力が発された。
それは都合良く梨夏ちゃんだけを避けて、俺だけを吹き飛ばした。
「ぐえっ」
「きゃあっ」
梨夏ちゃんの腕を掴んでいたはずなのに、なぜかするりと手は抜けてしまっていた。
地面に転がる俺を見て、梨夏ちゃんが「さつきさん!」と叫ぶ。
「さつきさんなんて奴は、この世にいない」
ヒロキは言った。
「そいつはただの勘違いモブだ。そして、俺はヒロキ。お前の彼氏の」




