今までありがとう。
俺は、ぐっと詰まった。
「前にお前と梨夏ちゃんとの話を聞いたときは、ナンパモブにそんなことやらせるなんてずいぶん変わってるけど、結局はそれも作者さんの裁量だからなって思ってたんだよ。作者さんが、変わった物語が書きたいと思ってそういう展開にする分には、まあこっちとしては与えられた仕事をするだけだし、別にどうこういう話じゃねえしなって」
「……」
「だけど、作者さんがそんな依頼は出してないって言ってて、作者さんのコントロールを離れたところでそんな展開になっちまってるっていうんなら、話は全然変わってくるぜ」
A太の言う通りだ。
作者さんの全くあずかり知らぬところで、訳の分からんナンパモブが勝手にヒロインと仲良くなってしまっていたら。
この物語をどうしてくれるんだって、作者さんが怒り狂ったとしても不思議じゃない。
俺は、梨夏ちゃんの物語をぶっ壊したことになっちまう。
「B介、あのな」
黙ってしまった俺を見て、A太が声を和らげた。
「勘違いすんなよ。お前は変なところで真面目だからな。俺はお前が悪いって言ってるんじゃねえぜ。だってお前は依頼を受けてその通りに仕事をこなしただけなんだから」
「そう、かもしれないけど」
でも居酒屋に誘ったのは? そこから先の俺の行動はもう、モブとしての範疇を逸脱していた。作者さんからクレームが入らなかったから、あれでよかったんだと思ってたけど、そもそもその展開を作者さんが関知していなかったなんて。
「やっちまったことは仕方ねえよ」
A太は言った。
「原因はどうせ、うちのシステムの不具合とかなんだろ?」
「……多分」
「だったら作者さんへの補償は会社がするし、その後の展開は作者さんが考えることだろ。それでモブ派遣をほかの会社に切り替えるっていうならそれはそれで」
「俺、居酒屋に行ったことは寺井君に話してないんだよ。普通に声掛けだけしたって話しちまった」
「あー……」
A太は困ったように天を仰ぐ。
「そっか、嘘ついちまったかー」
「やばいよな」
俺は頭を抱えた。
「まあ、本当にやばかったら寺井君の方から言ってくるんじゃねえの。別にその後連絡ないんだろ?」
「……ああ」
「だったら、作者さんも物語の修正して、それで終わりかもしれないぜ」
そうかもしれない。だけど、俺はずっとこのもやもやした感情を抱えたまま過ごすのか。
「……やっぱり、寺井君に電話してちゃんと話そうかな」
「そこはお前の好きにすりゃいいけどさ」
A太はまたコーラを飲んだらしく、でかい音を立ててげっぷした。
「お前が悩まなきゃいけねえ一番重要なことは、もう梨夏ちゃんと会えないってことじゃねえの」
「え」
梨夏ちゃんと会えない?
「なんで」
俺は顔を上げた。
「だってそうだろ」
A太は当然のように言った。
「作者さんはこれから物語を修正しなきゃならないわけだ。そうなったら、自分の知らないところで勝手に進んでた展開なんて邪魔でしょうがないから、自分の考える展開に改稿するだろ」
「改稿……」
改稿。それは今までの展開をなかったことにして、新たな物語を紡ぐことだ。
「そしたら、梨夏ちゃんとお前が出会ったこと自体がなかったことになっちまうかもしれない」
「俺達が出会ったことも……?」
「あくまで、俺の予想だぞ」
A太は釘を刺した。
「そんな可能性もあるってことだよ」
「……そうか。そうだよな」
もう梨夏ちゃんに会えなくなるかもしれない。
そんなこと、考えてもみなかった。
いや、薄々は気付いてたのかもしれない。でも、考えないようにしてた。
繋がったり繋がんなかったりする電話があるうちは、大丈夫だって思ってた。
だけど。
改稿。今までの物語を全部なかったことにしてしまえば、モブの俺の中にしか、消えた物語の記憶は残らない。
梨夏ちゃんは、全く新しい物語を歩むことになる。
さつきさん。
そう呼んでくれた梨夏ちゃんの笑顔が遠ざかっていくように感じた。
「でもさ」
何とかその笑顔を繋ぎ止めたくて、俺は無理やり明るい声を出した。
「梨夏ちゃんって、何でか分かんねえけど現実にもリンクしてるじゃん。ほら、お前も覚えてるだろ。俺が骨折したときに、駆けつけてくれたし」
「ああ。そうなんだよな」
A太は下品なパーマの頭を掻く。指が毛の奥深くまで入り込んでいるのは、このパーマがカツラだからだ。
「そこは俺にもよく分かんねえところなんだよな……どうしてあの子が現実にも顔を出すのか。システムの不具合と何か関係あるのかもしれねえが」
「そういうことがあるんだから、物語が修正されても会える可能性もあると思うんだよ」
「そこは俺には何とも言えねえよ。まるで理屈が分からねえもの」
A太の答えは、そっけなかった。
「だけど、会えたとしてどうすんの? 梨夏ちゃんは確かにすげえいい子だったけど、物語のヒロインであることには間違いないわけだからな。それをモブのお前がどうこうしようなんて、許されないぜ」
俺のわずかな希望も摘み取るような言い方だった。
「ま、よく考えろ」
A太はそう言って立ち上がった。
「結局、梨夏ちゃんは俺らとは住む世界が違う、手の届かねえ高嶺の花だからな。それが分かっていても、お前があの子を追っかけるんだったら、その先には闇堕ちしかねえぞ」
闇堕ち。
背筋がすうっと冷たくなる。
「自分の相棒が闇堕ちするなんて、俺はまっぴらごめんだからよ。だからこういう言い方させてもらうけど。B介、引き際も大事だぜ」
「……ああ」
俺は唇を噛む。
そうか。闇堕ちか。A太の目から見ても、俺は闇堕ちの手前に見えるのか。
「そう、だな」
梨夏ちゃんにはヒロキがいる。
もしも万が一、彼女が物語の中だけの存在じゃなかったとしても、そこに俺が入る隙間なんてない。
夢から覚めるときが来たのかもしれない。
「身の程を知るってのも、大事だよな」
そう言葉を絞り出した。
それからの数件のナンパをどうこなしたのかは、あんまり覚えていない。
心を無にしてやったせいでかえってモブ感がよく出てたらしく、A太も「調子いいな」と喜んでくれた。
夕方、A太と別れた俺は、徐々に賑わい始めた繁華街を抜けて、いつでもしょんべん臭い横丁を越えて、古ぼけた石畳の道を歩いた。ところどころ欠けた石段を上りきると、街全体を一望できる高台に着いた。
辛いことがあったらいつでもここに来る。それは、俺がモブを始めた頃からずっと変わっていない。
夕暮れに輝き始めた街を見ながら、俺は考えた。
いろんなことがあって頭が混乱してるけど、俺が一番大事にしなきゃいけないことって何だろう。
それを整理してみたら、結論は案外すぐに出た。
梨夏ちゃんの物語を、これ以上邪魔しちゃいけない。
そうだよな。
それが、一番の大前提だ。
本当は、ナンパだけしてさらっと振られるのが一番良かった。梨夏ちゃんは物語のヒロインで、俺はただのモブで。そうして、他の仕事みたいにしばらくすればお互いに顔も忘れちまうくらいの関係。
それが、俺たちの正しい形だった。
でも、もうそんなことを言っても仕方ない。
俺たちはお互いを知ってしまったし、俺は梨夏ちゃんのことが。
俺は梨夏ちゃんのことが。
……それ以上は、言えない。たとえ、心の中だろうと。
だけど、俺が踏み込んだことで良くなったことだってきっとあったはずだ。ヒロキとの関係が深まったり。……分かんねえけど。
ヒロキのことを考えるとき、俺の心の中には何か苦いものが広がる。
あいつが他の物語のヒーローみたいに、何のてらいもないオーソドックスなヒーローだったらよかったのに。そうしたら俺だって安心して梨夏ちゃんを預けられる……かどうかは分かんねえけど、それでもどうにか諦めることができたんじゃないかと思う。
でも、ヒロキのどこか得体のしれないところ。本当に梨夏ちゃんを任せて大丈夫なのかっていう不安が消えない。
分かってる。
こんなのはいいわけだ。
何が、梨夏ちゃんを任せる、だ。そんなこと、一介のモブが考えることじゃない。
俺は物語の中で求められる役割だけをこなして、後腐れなく退場するモブだ。今までずっとそうやって来たし、これからだってそうやっていく。
ただ、梨夏ちゃんのことを知ってしまったから、その笑顔を向けられてしまったから、その光を失いたくなくて、ヒロキに難癖付けてるだけだ。
何年もモブを続けてきた俺だから分かる。
これ以上の執着は、物語に闇しか生まない。
潮時だ。
電話は、繋がった。繋がらなけりゃよかったのに、という本音を、心の中で握り潰す。
「はい」
梨夏ちゃんの声は、相変わらず弾んでいた。
「あ、梨夏ちゃん? ごめん、今ちょっと大丈夫?」
「大丈夫ですよー。そういえばさつきさん、聞いてください! 最近いいことが多くて! やっぱり神社でさつきさんに言われておみくじ引き直したおかげなんじゃないかって思ってるんです!」
ああ、可愛いなあ。
なくしたくないなあ。
でも、きっと俺には過ぎたことなんだろうなあ。
「梨夏ちゃん、実は俺ね」
一生懸命喋り続ける梨夏ちゃんを遮るようにして、俺は言った。
「仕事の関係で海外に行くことになっちゃって」
「えっ!?」
梨夏ちゃんの声が跳ねた。そりゃまあそうだろう。
「それで、もう電話できないんだ。ごめん」
「え、ええと」
梨夏ちゃんは慌てたように、言葉を探した。
「お、おめでとうございます! ……でいいんでしょうか」
「うん、まあそうだね。自分の夢を叶えに行くよ」
何だ、それ。かっこいいな。
海外にどんなモブの夢が転がってるんだろうな。
「それは良かったです! でも寂しいです。いつ戻ってくるんですか?」
「ちょっと分かんないんだよね。だから、これが最後の電話」
「ちょ、ちょっと待ってください、さつきさん。そしたら、お祝いしましょう。私、お店の予約しますから」
「もう明日には出ないといけないんだ」
「そんな急なんですか!?」
「この電話は日本に置いていくから、かけてもらっても、もう出られないと思う」
「そんな」
「今までありがとうね、梨夏ちゃん」
「さつきさん、待ってください! 今からでも会えませんか!? 少しだけでも」
梨夏ちゃんの真剣な声。胸に刺さる。
「ヒロキ君と仲良くね」
「さつきさん!」
梨夏ちゃんが電話の向こうで叫ぶ。
「私、まださつきさんにちゃんとお礼が言えてません、まだ話したいことがたくさんあるんです」
うん。俺も。
俺も、君と話したいことたくさんあるよ。
だけど。
「さよなら。元気でね」
幸せになってね。
「さつきさん!」
それ以上は、もう聞けなかった。電話を切った。すぐに電話は鳴ったけど、もう出なかった。
これでいい。余計なノイズのなくなった物語は、きっと正しいルートに戻るだろう。
自分がモブで良かった。
だって、この心の痛みもどうせごくごく一般的なものなんだろうって、そう思えるから。




