いや、なんとなく。
「も、もう、そんなこと言って。ほら、誰かに通報される前に行こう!」
女の子に手を引かれて、ヒロキが去っていく。
俺はしばらくその場に倒れていた。
通行人が何人も脇を通り過ぎていくが、誰も声を掛けてこないし、警察も救急車も来ない。
それは別にいい。呼ばれても困る。
これはそういう物語の中だから。
そんなものを呼ばれたら、傷害事件になってしまう。ヒーローを犯罪者にするわけにはいかない。
無様に退場したモブのその後なんて、誰にも注意を払われることはない。
気になる読者は自分の中で適当に整合性を取っといてくださいってなもんだ。
やがて、物語世界から抜けた感覚があった。
「ああ、くそ」
よろよろと身体を起こす。
口の中が血の味でいっぱいだ。服もすっかり汚れちまった。
すげえ攻撃だったな。全治一時間はかかるぞ、これは。
俺はジャンパーのポケットから手探りでスマホを取り出した。
梨夏ちゃんが心配だった。
彼氏のはずの男が、別の物語の中で他の女の子と出会っている。
しかも、梨夏ちゃんとよく似た幼馴染みたいな設定で。
なんだよ、それは。
梨夏ちゃんの身に何かあったんだろうか。何も起きてなければいいんだけど。
電話を掛けると、繋がらないだろうと思ったらすぐに呼び出し音がした。
「はい」
たった2コールで、梨夏ちゃんが出てくれた。よかった。
「能勢です」
その明るい声を聞いただけで、ちょっと泣きそうになった。
「梨夏ちゃん?」
「さつきさん!」
電話の向こうで声が弾む。
「電話して来てくれるなんて! どうしたんですか?」
「ああ、いや。ええと」
嬉しさと苦しさで頭の中がごっちゃになって、自分の感情がよく分からない。
今、君の彼氏に別の物語の中で殴られたんだ。何か、世界がおかしいんだ。
突然そんなことを言って、梨夏ちゃんに理解してもらえるわけがなかった。
ましてや、ただのモブがそんなメタな発言をしてしまえば、下手をしたら梨夏ちゃんの物語世界に歪みをもたらしてしまうかもしれない。
「この前、あんな風に別れたからさ。大丈夫だったかなって思って」
「心配してくれてたんですか、ありがとうございます」
梨夏ちゃんの声はあくまで明るかった。
「大丈夫です、あれから普通に、はい、ヒロキとは」
梨夏ちゃんの言葉は曖昧だった。
だけど、彼氏とのことなんて、ほかの男にそんなにはっきりとは言わないものだろう。
別に何か都合の悪いことを隠しているふうでもなかった。
「その……殴られたりしてないよね?」
「ええ?」
梨夏ちゃんの声が一オクターブ上がった。
「殴られるって、ヒロキにですか?」
「あ、うん」
「大丈夫です、大丈夫です」
梨夏ちゃんが驚いたように笑っている。
「ヒロキはそんな暴力彼氏じゃないですよー」
「それならよかったよ」
あの殴り方は、初めて人を殴る人間のそれじゃなかった。
頭突きや膝蹴りまで含めて、暴力を振るい慣れてるやつの身のこなしだった。
散々いろんなやつに殴られて来たナンパモブの俺だからこそ分かる。
格闘技もしていない素人の攻撃って、物語のヒーロー補正が入っているから威力自体はすごくても、もっと腰が入っていないものなのだ。
だけど、ヒロキの攻撃は全部、芯があった。
あいつ、何なんだ。梨夏ちゃんが言うような、ただの優等生じゃないんじゃないのか。
そんな疑問が、悪い予感とともに胸いっぱいに広がる。
「……さつきさん?」
急に黙った俺を心配したような、梨夏ちゃんの声。
「ああ、ごめん」
今のところは、とりあえず梨夏ちゃんが殴られてるわけじゃないってことが分かっただけでも、良しとしよう。
それ以上は俺が口を出していい範囲じゃないよな。
「ほら、俺の周りはガラの悪いやつが多いからさ。彼女を殴ってけがさせた、なんて話も結構聞くもんだから」
「ええっ、そうなんですか?」
「だからまあ、梨夏ちゃんたちがそうじゃないならいいんだ」
「大丈夫ですよぅ」
「うん、そうか」
梨夏ちゃんの声を聞いてるうちに、俺は自分がこの子に本当に確かめたかったことが何なのか、やっと理解した。
「梨夏ちゃん」
「はい」
「いま、幸せ?」
「どうしたんですか、さつきさん」
「いや、なんとなく」
「幸せですよー」
明るい声のままで、梨夏ちゃんは言った。
「転職して都会に出てきたけど、仕事もなんとか順調だし、こうして心配してくれる優しいお兄さんにも恵まれて」
そう言って、ふふふ、と笑う。
「いや、そういうことじゃなくて……まあいいや」
俺は苦笑いして、地面に血混じりの唾を吐いた。
幸せか。それならよかった。
あとは、単なるモブが心配することじゃねえな。
「それじゃあ、またね」
「あ、さつきさん!」
梨夏ちゃんの声がぴょこんと跳ねた。
「ん?」
「さつきさんも、幸せですか?」
「え、俺?」
ちょっと不意打ちだった。
仕事とはいえ、ぼこぼこに殴られて、自分のゲロにまみれて。
幸せ?
俺が?
「そうだなあ」
でも、口は勝手に動いていた。
「梨夏ちゃんが幸せなら、俺も幸せだなあ」
「なんですか、それー」
電話の向こうで梨夏ちゃんが笑っている。その軽やかな声が、耳に心地よかった。
君は、幸せであってくれ。
それだけでいい。そうすれば、俺も幸せだから。
大げさな感じもしたけど、でもそれはまるで何か大きなものにそう祈っているようでもあり。
「私もさつきさんと知り合えて、ほんとに幸せですよー」
しみじみと言った、梨夏ちゃんのその言葉を、俺は噛み締めた。




