どうして、君には分かるんだろうな。
現実着をかぶせられた後のアイビーは、憑き物が落ちたかのように大人しかった。
俺が巻いた二本のバンドのほかに、さらに厳重にもう二本のバンドを巻かれたが、そうする必要もないくらいにうなだれていた。
「とんでもない漏電だったな」
照明の復旧したオフィスで、イケメンの不破課長が言った。
「爆発の時に、何かおかしなものが見えた気もしたぞ」
「すみません、私の開発してた3Dホログラムが衝撃で起動しちゃいました」
社員モブの女性がぺろりと舌を出す。
「内緒で開発してたのに」
「ちょっとキャラクターのデザインに難があったけど、あの技術はすごいよ」
課長に褒められて、女性社員は嬉しそうに頬を染める。
そんな風にして、物語の軌道修正が行われていく。
正直、かなり無理があるし、うちの会社は後で作者さんからめちゃくちゃ苦情を言われるだろう。
だけど。
「やあ、大変みたいですね、不破さん」
そう言いながら颯爽と入ってきた、ちょっと癖のある感じのイケメン。
もしかして彼が、例の関連企業の。
「遠山さん」
ヒロインの安芸島さんが目を見張る。
「いらっしゃってたんですね」
「今来たところですよ、安芸島さん」
関連企業社員の遠山君は、安芸島さんに向かってにこりと爽やかな笑みを浮かべた。
「データの復旧ですよね。不破さん、僕もお手伝いしましょうか?」
「ふん」
不破課長が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「君が手伝うだって? 安芸島君の前だからっていいところを見せようとしているんだろう」
「いけませんか?」
「そういうところが気に食わないんだ、君は」
「ずっと一緒にいる不破さんと違って、他社の僕にはアピールチャンスが少ないんですから。これくらいのアピールはさせてくださいよ」
ヒロインに聞こえないように、二人はひそひそと囁き合う。
やがて、課長が諦めたように笑った。
「まあいい。久しぶりに、君とコンビを組むのも悪くない」
「昔を思い出しますね」
そう言いながら、遠山君がワイシャツの袖を捲る。
「やっちゃいましょうか」
「ああ」
これから二人が何をどうするのかはさっぱり分からないが、二人で協力して、アイビーの壊したパソコンのデータか何かを復旧するらしい。
イケメン二人が並んで作業する姿は、実に絵になる。
急遽シナリオを変更したんだろうが、これもそんなに悪くない場面だと思う。作者さんはさすがだな。
その頃には、森井さんが呼んだ応援も駆けつけてきていた。
アイビーの電撃みたいなのを何度も食らった俺はまだあまり体に力が入らなくて、闇堕ち試薬の検査もその人たちにお願いすることになった。
額にシールを貼られたアイビーは、もう目を閉じて何も言わなかった。
「深度3」
とっくに分かっていたことを改めて確認した後で、H川のおっさんたちがアイビーの身体を担ぎ上げる。
K子さんやL香も、まだ少し痛そうにしていたが、その作業に加わる。
「B介君は、もうこっちから上がってくれていいよ」
振り返った森井さんが、俺にそう言ってくれた。
「ありがとう、君がいてくれて助かったよ」
「ああ、いえ」
そう言った後で、俺は無理やり身体を動かした。
「すみません、森井さん」
俺は這うようにして、アイビーに近付いた。
「最後に一言だけ、いいですか」
もう搬送されていってしまう。
ということは、これがアイビーとの最後の別れになるかもしれなかった。
というより、その可能性は限りなく高かった。
だから、少しでも会話が成り立つなら話しておきたかった。
「バンドの効力が効いている今なら、少しは会話になるだろう」
森井さんは言った。
「あまり時間は取れないよ」
「ありがとうございます」
それで構わない。
アイビーを連行しようとしていたH川のおっさんは面倒そうに顔をしかめたが、それでも足を止めてくれた。
「アイビー」
俺が呼びかけると、アイビーはうっすらと目を開けた。
「B介」
アイビーは微かに笑ったように見えた。
「ごめんね」
聞き慣れた嗄れ声だった。
「止めてくれてありがとう」
「俺こそ、気付かなくてごめんな。お前がそんなにも悩んでたなんて」
もっと前に、アイビーと連絡を取って話を聞いてやっていれば、こんなことにはなっていなかったかもしれない。
だけどアイビーは首を振った。
「あたしの欲求はきっと、こういう風にでもならなきゃ止められなかった。モブ仲間のみんなに相談したところで、あたしはみんなとは違うんだって、多分そう思っただけだったよ」
「でもよ」
でも。
未練がましくそう言ってしまう。
でも、何かできたことがあるはずだ。
人生には、絶対なんてことはねえんだから。
「相変わらず優しいね、B介は」
アイビーは笑顔のままで言った。
「そんなんでちゃんとナンパモブの仕事やれてんの? 女の子に振られるたびにめそめそ泣いてるんじゃないの?」
「うるせえな、ほっとけよ」
思わず俺も笑顔になる。
それはまるで、昔のままの俺たちのやり取りだった。
「ある作品に出たときね」
アイビーはぽつりと言った。
「私が誉めたところが作者さんには気に入らなかったみたいで、後でクレームが入ったの。誉めてほしかったのはそこじゃないって」
そのときのことを苦い記憶を思い出したのか、アイビーは少し顔を曇らせる。
「私だってモブだからその時はすみませんでしたって謝ったけど、心の中でちっちゃな違和感がずっと消えなかった。意図したところじゃなかったかもしれないけど、私が誉めたところだって、魅力的だったのにって。そんな思いが少しずつ積もって、それである日ね」
アイビーは微笑んだ。
「出会った人に言われたんだ。君には、美を裁く資格があるって」
「え?」
「その人の言葉を聞いたら、そうか、私が裁いてもいいのかって、そう思えたの。作者も読者も登場人物たちも、本当の美に気付いていない。だったら、私が教育してあげなきゃって。……そこからかな、自分でも分かるくらい、どんどんおかしくなっていったのは」
「アイビー。それって」
「あのね、B介」
そう言って俺を見たその顔は、もうすっかり俺の知ってるアイビーの顔だった。
崩れた化粧なんかじゃ隠せないくらいに、昔の純粋なアイビーのままだった。
俺はその顔を、きれいだと思った。
「最後に私を止めてくれたときのあんたの顔」
アイビーはそれを思い出すように、目を細めた。
「きれいだった。すごく」
「え」
「今まで見たどの物語の主人公よりも、かっこよかった」
それだけ言うと、アイビーは何も言えなくなった俺にゆっくりと背を向けた。
森井さんたちに連れられて、アイビーが去っていく。
「アイビー!」
お前だってきれいだった。
また戻って来いよ。
そう言おうとしたが、言葉が続かなかった。
戻ってこられるわけがないことくらい、俺にだって分かっていた。
そしてアイビーも、もう振り返ってはくれなかった。
スマホが震えていた。
何事もなかったように、業務が再開したオフィス。
不破課長たちの席の方で歓声が上がった。
復旧がうまくいったんだろうか。
いずれにせよ、もう俺には関係がない話だ。
俺は現実着のポケットからスマホを取り出す。メールではなく電話の着信だった。
そこに表示されていた名前は。
「……もしもし」
「わあ、つながった!」
華やかな声が、電話の向こうで弾けた。
「さつきさんですか?」
「ああ、そうだよ」
俺は答える。
「久しぶりだね、梨夏ちゃん」
「はい。ごめんなさい、何度か電話したんですけど、繋がらなくって」
「俺も掛けたよ。こっちからも繋がらなかった」
「そうですよね。おかしいなあ……」
梨夏ちゃんのもどかしそうな声。
きっと可愛い顔で眉間にしわでも寄せてるに違いない。
「あ、そんなことよりもですね。ほら、前に約束した退院祝いなんですけど」
「ああ」
確かに、そんな約束をした。忘れてはいないけど、果たせるとも思っていなかった。
「覚えててくれたの」
「当たり前じゃないですか!」
そう言った後で、梨夏ちゃんの声は心配そうにくぐもる。
「あ、ちゃんと退院できました……よね?」
「ああ、おかげさまで。もう仕事してるよ」
「よかった!」
ほっとしたような声。
本当に純粋に俺の退院を喜んでくれているんだろう。
その明るい笑顔が目の前に浮かんでくるかのようだ。
「じゃあお祝いの食事しましょう! 電話が繋がってる今のうちに約束しちゃいましょう!」
「ああ、そうだね。そうしよう」
俺も努めて明るい声を出す。
「いつがいいかな」
「ええっと、私の方は、都合のいい日にちはですね……」
そこまで言って、梨夏ちゃんは不意に戸惑ったように声を潜めた。
「……さつきさん」
「ん?」
「もしかして今、泣いてるんですか?」
「え? どうして?」
どうしてだろう。
どうして、君には分かるんだろうな。顔も見えないのにさ。
理由の分からない涙が、止まらなかった。
乱暴に拭ってみたけど、涙はあとからあとから溢れて俺の頬を濡らす。
「泣いてなんかないよ」
「そう……ですか?」
「ああ」
そう。泣いてなんかいない。
俺たちモブは、物語に必要ない場面では、決して泣いたりはしないのさ。
ああ、梨夏ちゃん。俺は何だか今、無性に君に会いたいよ。




